+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+
水恋鳥
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白い飛沫を上げて、川は流れる。岩にぶつかり、砕け散った水が弾き出す光の粒は、煌く風となって、川のほとりに佇む人の銀色に靡く髪に悪戯する。水の守護を受けた者である証なのか、光も風も、世界を構築する全ての要素が、競うように、或いは結託して、彼を愛しみ美しく飾り立てている。綺麗だ。どうして今まで気付かなかったのか、見慣れたはずの人の姿が、心が震えるほど綺麗だった。
彼がこちらを向いた。視線が合うと、彼は親愛に溢れた手を差し伸べてきた。誘われるようにその手を取り、指先に口付ける。人さし指から手の甲、手首の内側へと乾いた唇で辿っていく。彼は幼子のように驚いて身を固くしていた。愛撫を止めて上目加減に窺い見ると、彼は困ったように微笑んで緊張を解いた。捉えられた手で、優しく包み込むように頬を撫でてくれた。
許されたことを知り、彼の着衣に手を掛ける。抵抗無く露わにされた肌は輝くように美しく、罪悪感を覚えながらもその感触を求めて手を這わせた。2人が脱いだ着物の上に横たわらせ、覆いかぶさる。一糸纏わぬ艶かしい肢体に貪るように口づけると、彼の琥珀色の瞳が熱で潤み、恍惚とした声をあげた。
ケ イ コ ク ・・・
背中に回された手が熱くしがみつくのを感じる。震えながら強く求める指がいじらしい。もっと啼いて。
ケ イ コ ク ・・・
掠れ気味の、蠱惑的な声。もっと俺の名前を呼んで。
ケ イ コ ク ・・・
「辰伶…」
落下の衝撃で目が覚めた。唐突に夢から現実へと引き戻された螢惑は、情けなく寝台の下に転がっていた。上掛けにしがみ付いた状態というのが尚虚しい。
身を起こして、床に座り込む。寝乱れた髪を乱暴に掻き毟り、肺の奥底に淀む濁った空気を吐き出した。
「……なんて夢…」
自己嫌悪なんて、何年ぶりだろう。あまり後悔というものをしない性分であったから、自分を否定的に思うことなど滅多に無い。自分で自分を否定することは、螢惑の存在を否定した奴らに屈することになるからだ。復讐にも似た思いで、螢惑は己の意思と心を信じて生きてきた。
その強固な信念が、何ということだろう、下世話で低俗な夢ごときに罅を入れられようとは。螢惑は自分自身に対して無性に腹が立った。淫らな内容はともかく、よりにもよって、相手が辰伶だったことが赦せない。螢惑がこの世に生を受けたことを、根本から否定してくれた無明歳刑流本家。その血と名を受け継いだ漢を、どのような形であれ求めることは、自分で自分を裏切るに等しい。
無明歳刑流の辰伶。名家に生まれ、日の当たる道を真っ直ぐ歩いて生きているその漢は螢惑の異母兄だ。正式な妻が産んだ、唯一の正統な息子。
一方で螢惑は妾の腹に宿ってしまった予定外の命。螢惑を「産んでしまった」女は殺された。魔手は螢惑へも及んだ。父親が放った刺客から逃げて、戦って、勝つことだけで命を繋いできた。そうして、これまで生きてきたのだ。
憎んで憎んで、まだ余りあるほど憎い仇の、辰伶は息子だ。しかし辰伶は、螢惑に負わされた闇を知らない。何も知らないのだ。螢惑が父親から命を狙われ続けたことも、異母弟であることさえも。
「…そうだよ。やっぱり辰伶は知らないんだ。だって、あの時、あいつ…」
最後に辰伶の姿を見たのは、螢惑が壬生の郷を出立したその日だった。郷を出ていく日や時間のことは誰にも告げなかった。告げる相手が居なかったからだ。
誰とも別れの挨拶を交わすことなく、黙って独りで旅立つことを、寂しいとは思わなかった。寧ろ誰にも会いたくなかったから、それで良かった。それなのに、よりにもよって辰伶に出くわしてしまったのは、運命と呼ぶには安すぎる偶然だ。そして、無視しても良いような偶然を、わざわざ拾う愚を冒したのは、他ならぬ螢惑自身だった。
壬生の郷の外は樹海だ。郷の周辺のごく浅い森の中には、まだまともな道があるが、その先は保証されていない。その道を、黙々と歩いていた螢惑は、人の気配を感知して足を止めた。それが誰であるか、姿を見ずとも解かった。何故か知らぬが、いつでもそうだ。あれほど嫌いあっているのに、辰伶が近くに居ることだけは解かってしまう。或いは嫌悪しあっているからこそ、存在を敏感に察知してしまうのかもしれない。
道の片側は急な斜面で、下方は薮に隠れて見えないが、耳を澄ませば絶え間なく流れる水の音が聞こえる。この下は渓流になっているのだろう。辰伶が居るのはその辺りと見当をつけた。何をしているのだろうか。明確な境界線はないが、この辺りはもう郷の境に近いはずだ。こんなところに彼が居るのは意外だった。
螢惑は大樹の陰に身を隠しながら、気配を手繰り忍び寄った。自分が気付いたくらいだから、相手も既に気付いているかもしれない。堂々と近づいていけばいいようなものだが、辰伶には逢いたくないので、息を潜め、足音を忍ばせた。逢いたくない人物をわざわざ捜し求めるなんて矛盾も甚だしいが、その姿をどうしても見ておきたかった。あのウザイ漢の顔を見るのも、ひょっとしたらこれが最後になるかもしれないと思ったら、そのまま通り過ぎることなどできなくなってしまったのだ。
その光景は、不思議なくらいはっきり思い出せる。辰伶は川のほとりに立ち、流れ行く水の遥か先を無言で視凝めていた。何に想いを馳せていたのか、螢惑に気付くこと無く、祈るような眼差しで遥かな下流を眺め続けていた。
武術に優れる者の常として、螢惑もだが、辰伶も人の気配には敏感だ。しかし辰伶は螢惑に全く気付くことなく、相手の表情がはっきり判る距離にまで接近を許してしまっていた。それが少し不審で、螢惑は思わず名を呼んでしまった。姿を少し見るだけで良かった筈なのに、まるでズルズルと深みに嵌っていくように、結局、正面から相対していた。
『螢惑…』
呼びかけられて我に返った辰伶は、相手が螢惑だと知って、まるで幻を見たかのように茫然と呟いた。螢惑が近づくと、今度こそ本来の彼らしい物堅さで、体ごと向き直った。
『行くのか』
質問ではない。それは確認の言葉だった。何故か声を出すことができなくて、螢惑は頷くことで答えた。
『そうか…』
それだけで、他には何の言葉も辰伶の口から出てくる様子は無かった。湿っぽい別れの挨拶や、温かい餞の言葉など、端から期待していなかったが、何の感慨も湧かないというのも癪に障る。居なくなって清々するとか、2度と帰って来るなとか罵られたほうが、まだしもだ。
辰伶にとって自分の存在など、その程度のものなのだ。そう思った時、螢惑は辰伶の手首を掴んでいた。力任せに引き寄せると、虚を突かれた辰伶は簡単にバランスを崩してよろめいた。その身体を岩場に押し付け、逃げられぬよう覆い被さった。着衣を襟元から引き裂き、無理矢理に肌を露わにさせた。辰伶を自分の物にする。それしか考えていなかった。
衝撃的な螢惑の行動に、辰伶は目を見開き、何一つ対処できず、されるがままになっていた。螢惑が何をしようとしているのか、自分が何をされようとしているのか、それは理解しているようだった。理解したからこその混乱であり、忘我だろう。やがて遅まきながら我に返った辰伶は、抵抗するかと思いきや、強張った手で螢惑の背中を抱き返してきた。
その時の驚愕に似た感情をどう表現したら良いだろう。螢惑は深く暴こうとしていた手を止めた。たどたどしくも許容の意思を伝える辰伶の掌に、何故か螢惑は畏れのような焦りを覚えた。まるで手酷く裏切られたような気持ちになり、弄っていた肢体を乱暴に突き放した。一方的に始めた行為を一方的に中断し、放置して去った。後ろは見なかった。
どうして辰伶は螢惑の行為を受け入れる気になったのかは知らない。ともあれ螢惑の遁走で事は未遂に終わったのだが、こうして夢に見てしまうということは、未練があるのだろうか。しかもその夢は願望に塗れた脚色が随所に施されていて、言い訳を難しくしている。
「何なの?俺って、あの時そんなに辰伶とヤりたかったの?夢にみちゃうほど?」
夢の中の辰伶は綺麗だった。いや、彼が綺麗だということに初めて気付いたのが、夢の中だった。最後に彼に会った時、彼に情欲を覚えた時ですら、綺麗だとか美しいだとか、そんなことは思いもしなかったのに。
「良い夢でも見たのか?」
予期せぬ声に、螢惑の心臓は大きな音を立てた。水伯の侍従が、出入口の簾を捲り上げて顔を覗かせていた。闇に近かった部屋が、ほんのりと薄明るくなる。どういう仕組みか解からないが、螢惑の欲求や状態、或いは状況に逐次反応して、適度な明るさに調節されるらしい。光源らしき物は一切見当たらない。そもそもここは水の底であるということだから、神域ゆえの不思議な現象として、深く考えないことにした。
それにしても、あんな夢を見たあとでは、水伯の侍従のこの声と姿は心臓に悪い。どこからどうみても辰伶だ。螢惑の動揺など知らぬ気に、水伯の侍従は澄ました顔で入室してくる。それがとても面憎い。
「熱は引いたようだな。しかし、変な場所で寝るのだな。寝台が合わなかったか?」
上掛けに包まったまま床に座り込んでいる姿を皮肉られたかと思ったが、そうでもないらしい。顔も声も真面目だ。こういう的の外れた生真面目さも辰伶と同じで、嫌になる。雰囲気もそのもの。辰伶の気配さえ感じる。
「…何か用?」
「食事を運んで来た。かなり疲労しているようだから、体の負担にならぬよう、まずは軽く粥が良かろう」
運び入れた膳を、螢惑の前に据えた。粥の入った椀からは白い湯気が立ち昇っている。途端に空腹を感じた。しかし螢惑は首を小さく横に振った。
「いらない」
「食欲が無いか。しかし、少しは腹に入れないと回復しないぞ」
水伯の侍従は椀をとり、螢惑の手に持たせた。
「他人(ひと)から貰ったものなんて、俺は食べない」
下らない信条だが、下らないなりに譲れない拘りだ。他人に頼るのは弱さであり、支配されるということ。独りで生きて、独りで強くなる。誰の手も要らない。
しかし水伯の侍従は、螢惑の言葉を勘違いしてしまった。他人(ひと)を人間(ひと)と捉えてしまったのだ。
「それなら心配いらない。これを作ったのは人間(ひと)ではない」
「……そうじゃなくて…」
「火の気を禁じる水の結界の中でまともに煮炊きされているか心配か?大丈夫だ。伝手を頼んで、竈の神様から分けて頂いた粥だから、生米の水漬けではない。安心して食べるがいい」
「……だから…」
「竈の神様の粥なんて、滅多に食べられるものではないぞ。体力も付くし、傷も早く治る。霊験あらたかだ。それに味も良いはずだ。俺は食したことはないが」
「……ええと…」
どうしよう。話が通じない。
「ああ、食べさせて欲しいのか」
水伯の侍従は螢惑の手から椀を攫い、寄り添うように座り込んだ。匙で粥を掬い、息を吹きかけて適度に冷ましている。まさかと思ったが、ほら、と口元に突きつけられて、うっかり口にいれてしまった。舌が感知した食物を、体が要求するままに飲み込んでしまう。
「美味しいか?」
本気で美味しかった。空腹だったことを差し引いても、絶妙に美味しい粥だった。温かさが五体に染み渡るようだ。だから余計に情けなくなる。2口目を運ばれた時には、もうどうでもいいような気持ちになって諦めた。
「…自分で食べるよ」
「そうか」
匙と椀を受け取り、ゆっくりと粥を口に運ぶ。ごまかしようもなく、胃袋は満たされていくのを歓迎している。泣きたいような、力が抜けるような、こんな感覚を過去にも感じたことがあると、螢惑は思った。あれはもう、ずっと昔。母親を殺され、日々父親が差し向けてくる刺客から逃げ惑っていた幼い頃。信じられる者など1人もなく、安心できる場所など何処にもなく、傷だらけになって彷徨っていた時に、あの漢と出会った。
そうだ、あの時と似ているのだ。螢惑は遊庵という漢のことを思い浮かべた。味方など居なかった壬生の郷で唯1人だけ、螢惑に寝る場所を与え、生きる術を教え、後ろ盾となってくれた奇特な人物だ。縁もゆかりも無い浮浪児に、あの漢はどういう気紛れでそんな施しをする気になったのか、今でも螢惑には解からない。
遊庵もそうだが、隣に居る水伯の侍従も他人だ。しかも人ですらない。辰伶の姿をしている(正確に謂うなら、辰伶の姿に見える)から勘違いしてしまいそうになるが、食事などを与えられ看護されるのは、全く当たり前の事ではないのだ。
(…あれ?今の思考の理屈だと、本物の辰伶だったら、俺の面倒をみる義務があるってことにならない?)
変なことを考えてしまった。これではまるで自分が辰伶に頼りたがっているみたいではないか。血を分けた兄弟として。辰伶のことになると、どうしたいのか自分でも解からなくなる。しこりとなって胸の奥に蟠る感情を持て余す。空になった椀と匙を横に置いて、螢惑は訊ねた。
「ねえ…辰伶って、どんな奴なの?」
その質問が唐突だった為か、それともその内容にか、水伯の侍従は少し驚いたようだ。
「無明歳刑流本家の当主のことは知ってるんでしょ」
「歴代の当主殿のことは勿論知っているが…現当主殿のことなら、お前の方が詳しいのではないか?」
「知らないよ。あいつが何考えてるかなんて」
「それなら俺も知らん。他人の思考までは読めん」
螢惑は水伯の侍従の肩を掴み、床へ捻じ伏せた。抵抗無く転がった身体を、上から圧し掛かって押さえつける。こうして見下ろすと、本当に辰伶にそっくりだ。綺麗な顔をしている。今の体勢も相俟って夢で見た光景をまざまざと思い出させられる。
「辰伶は…誰かとこういうことしたことあるのかな…」
「こういうこと…?」
何を指すのか、水伯の侍従には解からないようだ。構わず螢惑は言い募る。
「言ったでしょ、そんな姿してたら、俺は何するか解からないって。どうやら俺は、辰伶にこういうことしたいと、思ってるみたいなんだよ…」
言い募りながら、ゆっくりと威圧するように顔を近づけていく。すると突然に、水伯の侍従は「うっ」と小さく苦鳴をあげて目を閉じた。螢惑は動きを止めた。
「どうしたの?」
「目にゴミが入ったらしくて、急に痛みが……ああ、もう大丈夫だ。何ともない」
「…それで俺の気を逸らしたつもり?」
「気を逸らす?」
「お前も辰伶も、嫌なら抵抗すればいいのに。こんな風に押さえ込まれて体の自由を奪われたら、何されるか想像つくでしょ」
ようやく理解して、水伯の侍従は普段より少し大きめな声で叫ぶように言った。
「こういうこととは、交尾のことだったのか!」
「……」
どちらかと言えば、場の雰囲気に頓着しない性分である螢惑だが、獣的に過ぎるその表現には、さすがに絶句した。水伯の侍従は尚も言う。
「お前は忘れているようだな。俺は人ではない。どんな姿に見えていようと生殖能力は無いから、形だけ交尾をしても無駄だぞ。いくら子種を撒いても子は宿らん」
気が逸れるどころか、完全に殺がれた。もともと本気では無かったが、今やゼロを通りこしてマイナスの域だ。そんな螢惑の微妙な情緒に構ってくれるわけもなく、水伯の侍従は明け透けだが色艶とは無縁の単語を、これでもかとばかりに無遠慮に繰り出してくる。
「確かにお前の怪我は酷いものだったな。生命の危機に瀕すると子孫を残そうという本能が強くなるらしいが…」
「ごめん。もうそれ以上、辰伶の顔で言わないで…」
「無駄な種蒔きを承知の上で、それでもというなら止めはしない」
「…えっ…」
無駄な事だからやめろと、制止を諭されているのだと思って聞いていた。ところが最後でひっくり返されて、螢惑は暫し茫然とした。やがて、つまりは許可されたことを理解したが、もう例え冗談でもする気にはなれなかった。彼は辰伶ではないのだから。さっきまでは不思議なくらいに辰伶そのものに思えたのだが、今ではこの人物のどこが辰伶なのか解からない。
「水伯って水のカミサマだよね。それに仕える身が汚れちゃ、まずいんじゃないの?」
水伯の侍従は笑いだした。何か面白いことを言っただろうか。
「確かに水伯様は清浄を好まれるが。命あるものにとって、子孫を残すことは最大の使命だろう。その行為が何故、汚れになる」
「でも、俺とお前がシても、子供なんてできないでしょ。それが解かっててするなら、子孫を残す行為じゃないよね。ただ気持ち良くなりたいだけ。悪ふざけだよ」
「お前がどう思おうと、俺には何の意味も無い。汚れや悪ふざけという意味さえないのだ。逆に問うが、お前達は相手を汚したくて、生殖行為をしているのか」
その問いはつまり、辰伶を汚す為に抱きたいのかということだ。螢惑の思考に、俄かに翳りが差した。
「…そうかもしれない。俺は辰伶を汚してやりたかったのかも…」
口にはしてみたが、気持ちにしっくり来ない。しかし、これが1番無理なく動機を説明できるように、螢惑は思えた。正式な妻から生まれた正統な跡取り息子。日の当たる道をまっすぐに正しく歩いていけるお綺麗な奴。その陰にどんな犠牲があったか知らないくせに、「正義」なんて言葉を軽々と口にするから、虫唾が走る…
「だから、腹癒せに犯して……汚してやるつもりだったのかも。辰伶と俺は異母兄弟だから、最低の背徳行為になる。血の繋がった兄弟同士でシたなんて、真実を知った時の辰伶の顔が見ものだよ。死んだ親父への面当てにもなるし…」
螢惑は水伯の侍従に、自分と辰伶が異母兄弟であることを話した。その為に母親が殺され、螢惑自身も刺客に狙われ続けたこと。そのことを辰伶が知らないこと。それが何よりも腹が立って、時々殺してやりたい衝動にかられること。
「それで、お前の気は晴れたのか?」
「…晴れてない。ヤってないから…」
そう呟くと、螢惑を見上げる水伯の侍従の眼差しが、まるで気の毒な人を見るようなそれになった。
「…失敗したんじゃないよ。その気が失せたから、やめたの。辰伶が全然抵抗しないから。それどころか受け入れるみたいに抱き返してくるから、無性に腹が立って…」
「それのどこに腹が立つのか判らんのだが、人の性とはそんなに複雑で難儀なものなのか?」
「他の人のH事情なんて知らないよ。俺が腹が立ったのは、辰伶が何も知らないってこと。もしも辰伶が、俺が異母兄弟だって知ってたら、絶対に抵抗するはずでしょ。最低の背徳行為なんだから」
もしも知っていたなら、あの生真面目な漢がそんな背徳的な行為に身を任すはずがない。拒否しなかったということは、それはつまり辰伶が何も知らないということで…
螢惑の出自について、辰伶も知っているのではと、何度か疑った事はあった。本当は知っていて、知らないフリをしているのではないかと。だがそれは螢惑の勘違いだったようだ。もしも知っていたら、何が何でも螢惑を拒んだ筈だ。辰伶は何も知らない。やはり知らなかったのだと、螢惑は確信してしまった。そしてその確信こそが、螢惑の怒りと苛立ちの源だった。
「それは変だ。そもそもが当主殿の無知に腹を立てて辱めようとしたのに、その無知に更に腹を立ててやめてしまうなんて、有り得るのか?辻褄が合わない」
「……」
「だが、多少は理解できた。お前の出自に関して当主殿が何も知らぬことに、お前は過剰に反応する。当主殿にとって自分が特別な存在でないと認識することが、何よりも耐え難いのだな」
「違う!」
噛み付くように叫んだ。しかし、この強い否定こそが、過剰な反応そのものだ。これでは水伯の侍従の言葉を認めるようなものだ。それを自覚してかしないでか、螢惑は取り繕うように言葉を重ねた。
「辰伶がちょっと綺麗な顔してたから、気紛れにちょっとシてみたくなっただけだよ。途中でやめたのも、単なる気紛れだし」
「ふうん…それで、ほたるは辰伶の姿をした俺に欲情しているのか」
聞きようによっては、誘いをかけているともとれるセリフだ。しかし彼の声にも仕草にも婀娜めいた艶はなく、ただの事実の確認だと知れた。本当に、彼には全く意味が無いことなのだ。それよりも水伯の侍従が螢惑を『ほたる』と呼んだことに気を取られた。辰伶の顔と声で『ほたる』と呼ばれることに違和感があるのか、急激に頭が冷えた。
ずっと水伯の侍従を組み敷いた姿勢であったことに、螢惑は今更ながら居心地が悪くなった。上から身を退かせる。水伯の侍従は身を起こすと、空になって床に転がっていた椀を拾って立ち上がった。
「しないのか?」
「もういい。勃つ気がしないから……あのさ、『気の毒な人を見るような目』で見ないでくれる。別に枯れてないから」
「そんなことを憐れんでいるのではない。どうしてお前は話を小難しくするのだ。自分の本当の望みから、わざと目を逸らしているように見える」
「…俺の本当の望み…?」
「単にお前は、当主殿をその手に入れたかったのだろう」
「…俺じゃない奴に、俺の本当の望みが何なのか解かるはずないと思うけど…」
本当のところ、螢惑は辰伶を抱きたいと思った理由が、自分でも解からなかった。だから、どんな理由も全てそれらしく思えるし、同時に全く違う気もした。しかし指摘を受けて思い出した。辰伶を組み敷いた時、螢惑にはただ「欲しい」という感情しかなかった。頭の中はその強い欲求にのみ占められていて、復讐心を膨らませる余地など皆無だった。
あの時螢惑はこう思っていたのだ。こうして奪って自分の物にしてしまえば、辰伶を外の世界へ連れて行ける、と。
「…そうだよ。そうすればずっと一緒にいられると思った。バカみたいだよ。そんなことしたって、手に入りはしないのに。普段から『壬生の為に生きて、壬生の為に死ぬ』なんて下らない事を、大真面目に本気で言ってる漢だよ。大事な大事な壬生の郷を捨てて、俺に付いてくるはずない…」
抱き合っても、何もならない。何も生まれないし、変わらない。汚すこともできないし、ましてや手に入れたことにもならない。無意味な行為だと言い切ったのは水伯の侍従だが、それは辰伶にとっても同じことなのだと、そんなことはずっと前から知っていたように、螢惑は思った。
「解かっていても、欲しいと思った。辰伶を手に入れたという錯覚が欲しかった。ううん、とにかく夢中だった。辰伶を目の前にして、欲しがることで頭も体もいっぱいになってた。どんな抵抗も捻じ伏せて、奪ってやるつもりだった。でも…」
不意に言葉を途切れさせた螢惑を、水伯の侍従は急かすことも促すこともしなかった。かといって無関心にしているでもない。螢惑に必要な間を察して、静かに言葉の先を待っている。その態度に救われて、螢惑は複雑に絡まっていた思考をゆっくりと意識的に解きほぐしていった。
「俺は辰伶が抵抗するものと思っていた。それが当然だから。辰伶がどんなに激しく抵抗しても止めるつもりはなかった。むしろ抵抗されたら、無理矢理押さえつけてでも、やってたと思う。でも辰伶は抵抗なんてしなくて、それどころか受け入れようとした。予想外だよ。辰伶の反応が予想と違いすぎたから、俺は瞬間的に…ほんの一瞬だけ冷静になってしまったんだと思う。少し冷えたらサーッと引いちゃって、でも本当には冷静になってなくて、今度は頭が現実的なことを一気に色々考え出してパニクったみたい」
「それで思わず突き放してしまったのか」
やりたいことやって、血の絆を否定して、果敢ない錯覚を一時的に手に入れた後に、何も残らなかったら。自分と辰伶を繋ぐものが、半分きりの血の絆にしかない現実を思い出し、それを捨て去ることに急に臆病になった螢惑は、何らかの決定的な答えが出る前に逃げ出したのだ。
「…どうあれ、受け止めようとしてくれたものを…」
呟いて、水伯の侍従は螢惑の頬を風のように撫でた。熱は引いていたが、少しやつれて生気の欠けた頬に、その手は水のように冷たく優しかった。そしてその手が薬湯の入った椀を差し出した。
「安眠の効果もある。今はこれを飲んで眠れ。かなり煮詰まっているようだから、まずは怪我を治し、体調を整え、頭をスッキリとさせることだ」
手渡された薬湯は濁った茶色をしていた。螢惑は一口含み、渋面をつくった。息も付かずに飲み干して、少し乱暴に椀を置いた。上掛けを拾って寝台に横たわり、頭から引っ被った。
「何でお前は俺の面倒をみるの?」
「それが使命だからだ」
「お前の意思じゃないんだったね。だったら俺の心にまで踏み込むのはやめてよ」
止められない己の感情を、螢惑は恨んだ。辰伶が欲しい。その気持ちは制御不能で、隠すこともごまかすこともできない。独りで強くなると決めたのに、このままでは弱くなってしまう。それも全部辰伶のせいだ。
乞い求め、焦がれて捩れる感情は、憎しみの炎に似ている。愛してなどいないと、螢惑は心に言い聞かせた。この感情が愛などであるはずがない。
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