+・+ ほたる×辰伶布教計画10 +・+

水恋鳥

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 気付くと螢惑は寝台に横たわっていた。ゆっくりと身を起こして周囲を見回す。出入り口が1つ。戸は無く、簾がかけられている。窓も照明も無いのに、不思議と明るい。柔らかな優しい明るさだ。寝台の他には調度と呼べるような物は特に無かった。

 確か川に落ちたはずだ。誰が螢惑を運んだのだろうか。ここが何処なのか見当もつかない。螢惑の刀は寝台に近い壁に立て掛けられていた。閉じ込められた様子はなく、敵意は感じない。

 郷を出た頃よりも、傷の痛みが酷くなっていた。落下の衝撃と、水に濡れたせいで、悪化してしまったらしい。しかし怪我そのものには手当てがされていた。誰かは知らぬが親切なことだ。よく見れば、着替えもさせられている。

 寝台から足を下ろすと床は板張で冷やりとした。寝台の脇に螢惑の高下駄が揃えられていたが、それは履かずに猫のように足音を消して、まずは刀を手に取った。そして用心深く耳を澄まし、出入口の向こうの様子を探る。微かに人の話し声。感じる気配は2つだ。息を潜め、声に耳を傾ける。

「我が神域を侵したのは、何者であったのか判ったか?」

 不思議な声音だった。若いとも年寄りともつかない。声からは全く姿が想像できない。

「水恋鳥が1羽迷い込んでおりました」

 答えたのは若い男の声だった。螢惑が知っている人物の声に似ているが、その本人であるはずはないので、偶然似ているだけだろうと思う。

「火の性を感じたから訝しく思うたが、水恋鳥か」
「怪我で動けぬ様子でしたので、保護いたしました」
「怪我とは哀れな。我が神域に迷い込んだのも縁だ。傷が癒えるまで養生させてやるが良い」
「畏まりました」

 気配が1つ消えた。残った方の気配がこちらへ近づくのを感じて、螢惑は出入り口の陰に身を寄せて息を詰めた。簾が捲られるのと同時に、相手の手首を掴み、捻りあげて背後を捕らえた。反撃されぬよう、刀を掴んでいる方の腕で、喉もとを締め付けて圧迫する。

「ここは何処?俺を助けた目的は?」
「……」
「言えないの?」
「……そ…な…締め…けたら…声…出な……」
「あ、そうか」

 螢惑はあっさりと手を放した。解放された身体はその場に崩れ落ち、しばらく咳き込んでいた。これはやり過ぎたかと、螢惑は少し反省した。相手は一応助けてくれた恩人なのだ。今のところは。

「乱暴な…」

 そう呟いて振り仰いだ顔を見て、螢惑は息を呑んだ。

「辰伶!?」

 長く伸ばされた銀色の髪。濡れ光る琥珀の瞳。何故、この漢がこんなところに居るのか。螢惑は驚きの余り、その名を叫んだ。しかし相手は螢惑の驚愕を他所に、落ち着いた声で言った。

「誰かと間違えているようだが、俺は『辰伶』という者ではない」

 彼のその言葉に螢惑は瞠目し、次には訝しげに眇めた。姿形だけではない。声も話し方もそっくり同じなのだ。本人でないにしても、全くの他人とは思えない。

 辰伶の姿をした何者かは、すぐにその正体を明かした。

「俺は水伯様の侍従だ」
「水伯って?」
「この淵の主だ」
「この淵って……まさかと思うけど、ここって水の底なんてことは…」
「如何にも、水の底だが?」

 何か問題でもあるのかと言わんばかりに肯定された。そんな風に言われては、驚いてみせることもできない。生来の表情の乏しさも相まって、螢惑は黙り込むしかなかった。

「さて、次はこちらが質問させて頂く。お前は何者だ? 火性の者が、水伯様の結界を破って侵入するなど、考えられんことだ」
「入っちゃいけないとこに入ったなら謝るけど、俺は結界を破ったり、侵入したりしたつもりないよ」
「そうだな。お前は気を失って流れ着いただけだ。しかしここは水伯様の神域。水の結界が張られている。入れるのは水の縁者のみ。火の性を強く持つお前が、特別な術も無しに入れる場所ではない。まして意識の無い状態で迷い込もうものなら、確実に溺れ死ぬぞ」

 螢惑は火の術を使う。五曜星の中でも火を司る火曜の戦士だ。水とは相反する能力を持ち、性格も燃え盛る炎のように激しく苛烈だ。水伯の侍従の言う『火の性が強い』の正しい意味は知らないが、螢惑の能力や性格に関係しているのだろう。螢惑は自分が本来入れるはずのない場所に居るらしいことを理解した。

「何だか知らないけど、助けてくれてありがと。邪魔するつもりはないから、すぐに…」

 退去の意思を伝えようとしたところで、視界が奇妙に流れて、気付くと刀を支えにしていた。立ち眩みを起こしたのだ。この時になってようやく螢惑は己の体の不調を自覚した。

「強がるんじゃない。そんなに熱が高いのに。その全身の怪我からくるものだ。しばらくここで養生していけ」
「…何で助けるの?」
「何故と言われても、俺の行動に理由などない。ただ、成すべきことをしているだけだ」
「…嘘つき」

 水の結界の中に火の性が強い螢惑を留まらせることを、神域の主である水伯が承知する筈が無いことくらい推測できる。先程洩れ聴いた会話でも、彼は螢惑のことを何やらごまかして報告していたようだった。螢惑を助けたことは彼の独断に違いない。しかし螢惑の呟きは、真顔で否定された。

「俺は嘘などつかん。少なくとも、お前を助ける以外の選択肢は無かった」

 彼は螢惑を介助しながら、寝台へと誘導した。螢惑は大人しくそれに従い、寝台に腰掛けた。

「名は?」
「螢惑」

 螢惑の名を聞いて、彼は困った顔をした。

「その名は火の性が強すぎる。俺には呼べぬ」
「…『火』って単語は平気で喋ってるのに?」
「それは『火』を示す記号に過ぎないからだ。しかしその名はお前の本質である火の性そのものだ。名付けた者の強い呪(シュ)を感じる」
「呪(シュ)って何?」
「呪(シュ)とは強い意志だ。祈りや、願いでもある」
「ふうん…」

 言わんとすることを、漠然と理解する。理解したつもりなだけで、本当には理解していないのかもしれないが、理解したと思っておく。そう理解した上で、螢惑は暫し考え込んだ。

「じゃあ……『ほたる』…ってのは…?」
「ほたる…蛍か。それならいい。蛍は火の性も持っているが、水の縁者だからな。…ああ、なるほど。余りに火の性が強いから判らなかったが、お前も水の縁者なのだな。だから水伯様の水の結界が利かなかったのだ」
「水の縁者、俺が!?」

 心外とばかりに、螢惑は嫌悪を露わにした。

「勝手に決め付けられたくない。水に縁なんて無いよ」
「しかし、確かに水の守護を受けているぞ」
「そんな筈は無い!絶対に!」

 螢惑の剣幕の激しさに面食らって、水伯の侍従は絶句した。大きく瞳を見開いている。

「俺がお前を助けたことこそ、お前が水の守護を受けている証なのだが。そこを否定されるとは思わなかった。不思議な奴だな」
「気に入らないなら追い出せば」
「気に入らなくは無い。むしろ興味深い。先程、お前は俺を誰かと間違えただろう。実のところ、俺には実像が無い。この姿は、その者が思い描く水霊を具象化しているに過ぎない」
「…つまり、見る人によって違って見えるってこと?」
「天女、仙人、童子、霊獣、物の怪…姿は様々だ。しかし、自分の身近な知人の名を呼んだのは、ほたる、お前が初めてだ」

 両肩を掴まれて、螢惑はハッと顔を上げた。口付けをしそうなくらいの至近距離に相手の顔があり、その近さにうろたえる。

「…何のつもり?」
「お前の目に映る俺の姿に興味がある」

 鏡で己の姿を確かめるように、螢惑の瞳を覗き込んでくる。辰伶の顔で。辰伶の瞳で。彼がそうする間、螢惑は身じろぎ1つすることができなかった。そうしていると、益々熱が上がってしまうような気がする。

「麗しい人物だな。恋人か?」
「な…っ!?」

 冗談ではない。あまりにとんでもないことを言われて、螢惑は反論の言葉さえ咄嗟に出なかった。

「いやまて、この顔は……そうか、歳刑流の現当主殿か」
「…辰伶を知ってるの?」
「かの家は最も古くから水伯様を祭祀している家系だ。その血脈を、水伯様も格別に御寵愛召されている。水伯様の宝物庫には代々の当主たちの幣髪箱が収められているが、これはかの家が水伯様を敬い、守護を約束された証だ。貢納も丁寧に毎年欠かさずあるから、当主殿のことはよく知っている」

 無明歳刑流が水の技や術を司る家系であることは有名な話だ。水に縁が深いこの家のことを、水の神である水伯やその侍従が知っていて、何の不思議があろうか。螢惑は得心した。ならば水霊の偶像に辰伶の姿を視てしまうのも、至極当然だ。必然的にそうなっただけで、何も特別な感情は無いのだと、螢惑は自分の心に対して釈明をした。何故釈明が必要なのかまでは及ばなかった。

「お前にとっての、最も『水』をイメージさせる像は、歳刑流の当主殿ということか。妥当といえば、これ以上なく妥当だな。俺の像として幻視するほど強く想い入れている相手だから、絶対に恋人だと思ったのだが…」
「当てが外れて残念だったね。水も辰伶も大嫌い。恋人だなんて、性質の悪い冗談だよ。笑えもしないね」
「むきになって否定するところが怪しい。かえって勘繰ってしまうな」
「…燃やすよ」
「それは勘弁。火は苦手だ」

 からかわれたらしい。相手のペースに引きずられている事に気付いて、螢惑は少し不機嫌になった。何だか面白くない。辰伶の姿で、辰伶の声で、辰伶の仕草で笑うから、余計に気に喰わない。

「結界の内である神域では火の気は謹んで欲しい。お前のような強い火の性を持つ者が神域に居ると、水伯様に知れたら大変なことになる。先程は水恋鳥と偽ってごまかしたが…」
「やっぱりごまかしてたんだ。水恋鳥って何?」
「蛍と同じく、水の縁者でありながら火の性を持つ鳥だ。…こんな話がある。この鳥は元は罪人で、神罰によって鳥の姿にされてしまった。炎のような着物をまとい、水を求めて啼き続けるので、いつしか水恋鳥と呼ばれるようになった」
「…作り話でしょ」
「そう、ただの寓話だ。燃えるような赤い色をしたこの鳥が、餌を獲るために川に飛び込む様を見て、誰かが創作したのだろう。雨の降る日によく啼くから、雨乞鳥とも、雨降り鳥とも呼ばれている。水伯様は伝説の水恋鳥を哀れに思し召して、この鳥を殊に愛でておられるのだ」

 だからこそ彼は、螢惑を水恋鳥と偽って報告したのだろう。迷い込んだのが水恋鳥であれば、水伯も寛大になると見込んだのだ。

「俺のことが水伯にバレたらヤバイ?」
「ヤバイな」
「怒られちゃう?」
「叱責で済めば良いが、済まねば俺は無に還る」
「…つまり、死ぬってこと?」

 それでは、彼は大変な危険を冒しているということではないか。

「俺には命も実体も無い。俺が消滅したとしても、それは生き物が死ぬのと違うから、気にすることはない」
「でも、意識が消えるんでしょ。死ぬのと同じじゃない?」
「それは、死んだ者に聞いてみないと、違いは解からんだろうな」

 客観的というよりも、まるで他人事だ。生死に対して無頓着過ぎる。自分がこの世に存在しているということに、執着どころか関心さえ無いようだ。しかし、自律して行動し、思考し、螢惑と意思を疎通させているのは、彼に意識があるからだ。それが消滅したとしたら、やはりそれは死であろう。

「そうまでして、何で俺を助けるの?俺はお前にやれるものなんて、何も無いよ」
「俺の行動に理由などない。水が低い方へ流れるのと同じで、ただ理に従うだけ。理とはこの場合、俺を生み出した水伯様の意思に従うことだ」
「水伯の意思に従うだけって言いながら、現にお前は水伯に背いてるじゃない」
「俺は水伯様には背けない。矛盾があるというなら、それは相反する『理』が水伯様の内に同居しているのだろう」
「じゃあ、相反する命令が同時に下されたらどうするの?」
「どうなるのだろうな。この身が2つに割かれる…とか?興味深い問題だな」
「…試そうとか思わないでね…」

 柄にも無く、相手を心配するような言葉を掛けてしまった。命も実体も無い、存在自体が軽々しいものであると言い放つのが、自虐の言葉であれば、螢惑も相手にしようとは思わない。勝手にいじけていればいい。しかし彼の言葉から受ける印象は、自ら貶めたりとか、他者の同情を買おうという計算には程遠い。恐らく彼は『命』や『存在している』ということの価値を知らない。あるいは理解できないのだ。

 しかしそれを言うなら、『命』の価値を説明できない螢惑も大差は無い。神にも等しいと言われた先代紅の王に戦いを挑んだ時の心持ちと、何か相通ずるものがある。彼は至近の過去の自分と変わらない。螢惑はそのように感じた。

「ねえ、お前の名前は?」
「名前?……シンレイだ」

 少し考えて、名乗ったそれは明らかに偽名だ。まるで悪戯をしかける子供のような表情が、何より雄弁に嘘だと言っている。

「嘘はつかないって言ったくせに。俺をからかってるの?」
「水伯様の呪(しゅ)によって生まれた俺に、お前が言うような『名前』は無い。『水伯様の侍従』と言うのが、俺の存在を示す『名』であり、その『名』こそが俺の正体だ。しかし、せっかくお前が俺を『名前』で呼んでくれようというのだ。お前が目にしている姿に合わせて、名前も歳刑流の当主殿から拝借するのも面白い趣向だろう」
「全然面白くないよ。言っておくけど、俺、あいつのこと大嫌いだから、あいつの姿であいつの名前なんて名乗ったら、何するか解からないよ」

 刀を握り直し、螢惑は本気を込めて忠告した。しかし、そんな脅すような言葉にも、水伯の侍従は怯みはしない。生命体でないから、命を脅かされることへの恐れや怯えも無いのだろう。

「お前が当主殿をどうしたいか知らないが、何でもしたいようにするがいい」

 そして、彼は意味ありげに、1つの問いを螢惑に提示した。

「そうそう、水恋鳥に変えられた罪人は、何の罪でそんな罰を受けたのだろうな」
「…お前は……何だと思うの?」

 辰伶の顔をした水伯の侍従は、まるで何かを試すように、蠱惑的な艶を含んだ笑みを湛えた。

「許されざる恋の罪…かな」

 瞬間、螢惑は刀をなぎ払っていた。感情に任せて振るった刀は、水伯の侍従が寸前まで居た空間を斬った。逆上していたとはいえ、全力の真剣をかわされて、螢惑は愕然とした。再び眩暈に襲われ、膝を着いた。

「無理をするな。お前には安静が必要だ」

 水伯の侍従は、捲り上げた簾を掲げて、出入り口に立っていた。

「冗談が過ぎたようだ。食事と薬湯を用意するから、それまで少し眠るといい」

 簾が落ちるのと同時に気配が消えた。螢惑が眠りやすいようにだろうか、部屋は段々と暗くなり、薄闇となった。こうなってはジタバタしても仕方が無い。刀を至近の壁に立てかけ、螢惑は大人しく寝台に横たわった。静寂な空気を微かに震わせている水の音を聞きながら、螢惑は独り、目を閉じる。

 水伯の侍従が微笑むと心が乱れる。本物の辰伶は螢惑に笑いかけたりなどしないから、彼が微笑む度にその差異を明瞭に思い知らされて、胸が苦しくなる。頼むから、辰伶の顔で笑わないで欲しい。

「…違うって判ってるのに、勘違いしそうだよ…」

 それとも、勘違いしたいのだろうか。ダメだ。思考が混乱している。螢惑は痛む胸を庇うように、背中を丸めた。全身の怪我よりも、傷の無い胸の方が痛いだなんて、やっぱり混乱している。

 眠ってしまえばいい。薄い闇の優しげな手にしっとりと包まれて、螢惑は睡魔の訪れを待った。


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