25.灯火の終局
これが最後の闘いとなることを、ほたるも、そして辰伶の身体に宿る妖魔も感じていた。
「吹雪様、不躾な申し出ですが、席を外して頂けますか?」
吹雪は無言で、嘗て弟子であったものを見た。
「先程のように邪魔をされては困ります。賭け事は公正であるべきでしょう」
「螢惑に加担するのはルール違反と言いたいのか」
「賭けって?」
ほたるが疑問の声をあげた。それに対して妖魔が答えた。
「螢惑、お前の勝利に、吹雪様はご自身の命を賭けられた」
驚きに瞠目し、ほたるは吹雪を見詰めた。その視線を、吹雪は無感動な横顔で受け止めた。
「無論、俺は手出しする気は無いが、気になるというのであれば、俺は自室で勝利者が来るのを待とう」
「では、後ほどお目に掛かりましょう」
妖魔は挑発的に言った。それにも吹雪は眉1つ動かさず、無言で出口へと向かった。
「吹雪」
咄嗟に、ほたるは呼び止めた。そして吹雪に告げた。
「辰伶はずっと、俺と居たんだよ」
「そうか」
吹雪の薄い唇に淡い笑みが浮かんだ。
「そうだろうと思っていた」
吹雪は道場を出て行った。最後の決闘の場には、当事者たる2人のみが残された。
「闘いの前に訊いておきたいんだけど、あの日、お前が狙ったのは俺なの? 辰伶なの?」
あの日とは、ほたるが初めて辰伶の屋敷に訪れた時のことだ。ほたるのものとして準備されていた部屋に、怪しい呪い札が仕掛けられていた。その札が辰伶の運命を狂わせてしまった。ほたると辰伶が出会った、最初の日。妖魔が辰伶の顔で懐かしそうに目を細めた。
「お前を狙ったものだった。俺が本当に欲しかったのは辰伶だが、あいつは強力な壬生一族だったし、吹雪の存在も厄介だった。しかも忌々しいくらいの強運に守られていて、どうしても思い通りにできなかった。ならば、異母兄弟であるお前でもいいかと思った。だから母上に頼んで、お前を家に呼び寄せて頂いたのだ」
「じゃあ、身体が欲しくてやったってこと? それっておかしくない? あそこにアンバーがいて、それからすぐに吹雪とひしぎが来たから、辰伶はその場で死ななかったわけでしょ。5分だか10分くらいで幼生は成長するみたいだから、俺にしても辰伶にしても、その場で死んでた確率のほうがずっと高いよ。そしたら身体が妖魔化することないし。辰伶は確かに強運だったみたいだけど、でも所詮は運でしょ。計算なんてできない。これが全部計画の内だなんて、ありえなくない?」
「…知らなかったんだ」
「え?」
妖魔は憮然とした口調で言った。
「あの頃は、お前が壬生一族だとは知らなかった。太四老の遊庵や、その弟子の螢惑の名は知っていたが、それがほたる、お前だとは知らなかった」
「……」
「だからお前の母のように普通の、一般人だと思っていたんだ。力の無い普通の人間が宿主なら、幼生が成長することはない。生命力がすぐに尽きてしまわぬようコントロールすれば、妖魔化させるのはそれほど難しいことではない。それに、身体が妖魔化されずに死体となってもそんなに不都合じゃない。アンバーだってジェットの死体に宿っていただろう。エネルギー効率が悪いだけで…」
「何でそんなに身体が欲しかったの?」
ほたるの問いに、妖魔は言葉を失った。
「誰の身体を奪ったって、お前はお前でしょ。人間になるわけじゃないし、それこそ入れ物だよ。妖魔が人間の身体を持って得することなんて、特に無いと思うけど」
「…俺は」
その時、妖魔はこれまでほたるに見せたことの無い、切ない表情をした。
「俺はただ、辰伶の身体の中に帰りたかったんだな。何も知らず、何も考えず、意識も何も無かった頃に戻りたかった。……さっき、気付いた」
何も要らないのだと、かつて辰伶の母が言ったのに、妖魔のその言葉は似ていると、ほたるは感じた。
「そんなにも…お前は絶望しているの」
「…なに?」
「お前の中には虚無しかないんだね」
「……」
「お前が辰伶に執着した理由が解かった気がする。お前は寂しかったんだよ。寂しくて、兄弟である辰伶と遊びたかった。でも、それは叶えられないと知ったから、寂しさも何も知らなかった頃に戻りたくなったんだね」
「…これ以上、話すことは無いな」
妖魔はほたるとの対話の終了を宣言した。有無を言わさぬ声だった。今更理解を深めたところで、もう戦いは止められない。ほたるも止める気は無い。どんな理由があろうとも、この妖魔がほたるの大切な者たちを奪っていったことを、赦すことはできないのだから。ならば話し合うことは何も無い。ほたるは刀の鞘を払い、妖魔は舞曲水を構えた。
「先の一戦では、なかなか面白い技を見せてもらった」
妖魔は舞曲水で、両の手首を掻き切った。傷から辰伶の血が流れて床まで滴り落ちる。
「お陰で思い出した。この辰伶にもお前と同じように禁忌の技があったということを」
妖魔は水を召喚し、それと辰伶の血を混ぜ合わせ、床に大きな血溜まりを作った。水で広がっているといっても、その流した血の量も尋常ではない。
「禁忌とされるだけあって、多用すれば術者の命を縮める技だが、妖魔化したこの身体なら、それを殆ど無制限に使うことができる」
血溜まりの中で何かが蠢いた。ほたるは身構えた。その瞬間、真っ赤な水龍が、ほたるに向かって走った。これまでの水龍とは比べ物にならないスピードだ。ギリギリでかわしたが、龍が傍を掠めていった風だけで、ほたるの頬に傷を作った。
しかしそんな傷で済んだことを、ほたるは直後に感謝した。赤い水龍が直撃した床部分は、焼かれたように溶けていた。
「驚いたか。ただの水龍ではない。その身で全てを溶かす『緋龍』だ。術者の流す血を触媒として濃硫酸を生み出し、それで造りあげた水龍だ。龍たちが通った後は、全てが滅し、何も残らない」
ほたるは右手に刀を構えたまま、頬から流れ落ちる血を左手で拭った。
「螢惑、終わりだ」
無数の緋龍が一斉にほたるを襲った。逃げ場が無い。
「龍の赫き涙(ドラゴン・レッド・ティアーズ)!」
緋龍たちはほたるに喰らい付き、彼の身体が見えない位に幾重にも巻きついた。ほたるの全身の骨を砕かんばかりにきつく締め上げていく。濃硫酸で造られた緋龍の塊の中で、ほたるは肉片1つ残さず溶かされてしまったことだろう。
「あっけないものだ。吹雪も無謀な賭けをしたもの…」
その時、緋龍の塊が大きく脈打ったように震えた。妖魔は訝しげに目を眇めた。次の瞬間、緋龍はバラバラに引き千切られ、その中心から1匹の真紅の龍が頭を擡げた。琥珀色の目が開く。
「なっ…」
真紅の龍が身体を伸ばすと、その狭間にほたるの姿があった。
「夢をみたんだよ…」
ほたるは夢の中の住人のように、ぼんやりと呟いた。
「辰伶が扉の向こうへ消えた時、俺の手には辰伶の髪を結ってた赤い紐が残されてた。それにどんな意味があったのか、全然わからなかった…」
真紅の龍はその身でほたるを守るようにして、彼を緩く取り巻いている。ほたるは真紅の龍にその腕を指し伸ばした。
「お帰り、俺の辰伶」
…―― ほたる…
真紅の龍の琥珀色の瞳が、ほたるを見下ろしている。その澄んだ輝きが、ほたるには酷く懐かしい。愛する異母弟を見守ってきた辰伶の瞳だ。
「そうか…」
搾り出すような声で妖魔が言った。
「これが吹雪の自信の根拠か」
辰伶の魂は真紅の龍の目を通して、妖魔を宿す嘗ての自分の身体を睥睨した。
…―― 言っただろう。全て貴様の思い通りにいくと思うなと…
「寄生させていた妖魔の幼生を、乗っ取ったな」
…―― 吹雪様からは、俺の魂を幼生に同調させる術を施して頂いていたのだ。妖魔が成体となって俺の心臓を食い破った瞬間に、俺の魂が妖魔を支配できるように…
「そんな術を…」
…―― 吹雪様も、この術は初めての試みだと仰った。だから賭けだった。俺にとっても、吹雪様にとっても…
「凄まじい師弟だ」
妖魔は顔を顰めると、吐き捨てるように言った。
真紅の龍がほたるを見遣った。
…―― 妖魔になるなんておぞましいと思った。それくらいなら死んだほうがマシだと思った。だがそれ以上に、俺はほたるの傍に居たかった。ずっと、ずっと…
「夢で辰伶が教えてくれた。赤い紐を俺の左の中指に巻いて、辰伶の魂がどこに居るのか教えてくれた」
ほたるの左の中指には、ほたるの誕生日に辰伶が贈ったリングがあった。辰伶のエンジェル・リングと対のデビル・リング。コウモリの翼に抱かれた漆黒のオニキスの中に、妖魔と化した辰伶の魂は眠っていたのだ。そして今、辰伶の血から生まれた緋龍を身体として、辰伶はほたるの元へ帰ってきたのだ。
「辰伶はずっと、俺と居たんだよ。ずっと、ずっと…」
ほたるは刀を自らに向けると、左の腕を掻き切って血を流した。自らの血に赤く染まった手で、真紅の龍を撫でた。
「夢の中でね、俺はお礼に赤い花で首飾りを作って、辰伶に掛けてあげたんだよ」
龍の身体を凄まじい炎が包んだ。しかしそれも一瞬のことで、炎が鳴りを潜めたあとには、龍の真紅の鱗は漆黒の血化粧で彩られていた。ほたるの血を呪印として造られた焔血化粧が、真紅の龍と化した辰伶の身体に刻まれていた。
「螢惑輝炎は、俺と同じ血を半分有する辰伶に対しては、その身を燃やすことなく力を増幅させる。これはお前が身をもって証明してくれた。辰伶の血から生まれた緋龍の身体なら、それと同じことができる」
「くっ…!」
妖魔はあらん限りの力で巨大な水龍を召喚し、ほたるとそれを守護する辰伶に放った。しかし水龍たはほたるたちの脇を通り過ぎ、向きを変えて、放った妖魔自身へ襲い掛かった。
「なっ…」
それを切り伏せようと舞曲水を構えるが、2振りの曲刀は水に戻って、その手から離れていった。為すすべなく水龍に打ちのめされ、妖魔は膝をついた。
「何故だっ。何故、水が…」
その姿を、真紅の龍が高きから見下ろして言った。
…―― ただの水龍が、俺の血で造られた緋龍に敵うものか。ましてや、俺はほたるの螢惑輝炎で力が増幅されている。水に対する支配力が、俺のほうが遥かに上まっているのだ…
漆黒の血化粧を施された真紅の龍の、その背後には無数の水龍を従えていた。その姿は、まさしく龍の王。即ち、水の最高支配者だった。
この期に及んで、妖魔に勝機は万に一つも無かった。ぼろぼろに傷ついた、嘗ての己の身体を、辰伶は静かに見下ろしていた。
…―― ほたる、お前がやれんのなら、俺がやるが?
妖魔の息の根を止めて、ほたるの勝利を完全とすることを、辰伶は促した。それは辰伶の身体ごと、妖魔を滅するということだ。今は別の者が動かしているとはいえ、その身体はほたるが愛する異母兄のものだ。それを傷つけることに抵抗があるのなら、辰伶が代わりに手を下すと言っているのだ。
ほたるは首を横に振った。
「辰伶、俺の好きにさせて」
ほたるは妖魔の前に進み出た。妖魔が辰伶の顔で見上げる。ほたるは普段通りの淡々とした口調で言った。
「ねえ。以前に何度か、お前は辰伶に化けて俺の前に現れたね」
「…それがどうした」
「はっきり言って、似てなかった。ゆんゆんはそっくりだって言ったけど。そりゃ、ちょっとムカつく位には似てたけど、俺には全然辰伶に見えなかった」
「……」
「お前、本当だったら辰伶の双子の兄弟なんだよね。あれってもしかして、辰伶に化けてたんじゃなくて、お前の本当の姿だったんじゃないの?」
「だったら何だ!」
妖魔は苛立たしげに怒鳴った。
「ごめん。ニセモノとか言って」
思いもよらぬ謝罪の言葉に、妖魔は茫然とほたるを見た。そして、今にも泣きだしそうな切ない瞳で、苦い笑みを浮かべた。
「お前なんか…嫌いだ」
辰伶の身体は、その瞳を閉ざして床に崩れ落ちた。その身体から仄光る球体のようなものがゆっくりと抜け出し、それは次第に小さくなっていった。気付けばもうピンポン玉くらいの大きさしかない。
それを何者かが両手に包み込んだ。見ればそれは、辰伶の母の霊だった。背後が透けて見えそうな幽けき女は、光の玉を深く愛情を込めて抱きしめた。
女は真紅の龍を見上げた。龍も女を見詰めていた。暫く無言で見詰め合っていたが、やがて互いに言葉も無いままに、女は薄闇の中に消えていった。
「生まれ直しておいでよ」
静まり返った道場に、ほたるの呟きが小さく響いた。