〜epilogue
そのソファの居心地の良さといったら、ここが探偵事務所などという散文的な場所とは到底思えないものだった。しかし椎名ゆやはクッションの質の良さとは裏腹に、どうにも落ち着けなかった。隣で優雅に寛いでいる漢に、胸中の不安を漏らした。
「あの、幸村さん。勝手に上がり込んじゃって良かったんですか?」
「いいの、いいの。ここはいつもそうだから」
ゆやがこれから紹介される探偵は、幸村の知人であるようだ。家主の許可を得ることなしにさっさと上がり込むずうずうしさは、相当親しい間柄と思って良いのだろう…と、思うのだが、この幸村という漢は育ちが良いのか誰に対しても遠慮というものがないので、その保証はない。椎名ゆやは少し不安になった。
2時になった。すると奥の扉が開いて、眠そうな顔をした漢が現れた。幸村は破顔して声を掛けた。
「ヤッホーv ほたるさんvv」
幸村がヒラヒラと手を振る。ほたると呼ばれた漢は表情も変えず、客達をジッと見つめた。
「え…っと、お前は…」
ほたるはゆや達の向かいに座った。
「真田幸村だよ。たまには覚えてて欲しいなあ」
「ムリ。俺の頭、辰伶でいっぱいだから、もう余地がない。諦めて」
「…恥ずかしいことを平然と言うな」
その声に驚いて、ゆやは肩先から振り仰いだ。そこには白い盆を手にした漢が立っていた。いつの間にそこに居たのだろう。彼が入室した時の記憶が無い。
「あ、辰伶さん。お久しぶり」
幸村に辰伶と呼ばれた人物は軽く会釈をし、ティーカップを配っていった。ソーサーに乗ったカップを音も立てずにテーブルに置くその手の仕草がとても優雅だ。漢なのになんて綺麗な手をしているのだろうと、ゆやは思った。指がすんなりと長く、印象的なデザインのリングをしている。
「ゆやさん、砂糖は?」
辰伶の手の動きに見惚れていたゆやだったが、幸村に声を掛けられて我に返った。
「あ、2つ…」
「2つね。あれ? 辰伶さん、砂糖は?」
「しまった。忘れた」
そう言うやいなや、辰伶は忽然と姿を消してしまった。比喩ではない。いきなり消えてしまったのだ。ゆやは驚愕に声をあげた。
「い、今の、今のって!?」
「辰伶は特異体質だから」
ほたるはまるで何でもないように、そんな風に今の現象を説明した。ゆやは幸村をみた。幸村も平然としていて、驚いたり不審がる様子はない。普段通りに人好きのする笑みを浮かべたままだ。特異体質。そうか、体質なんだ。ゆやは自分の心に言い聞かせた。
特異体質。便利な言葉だと、ほたるは思った。
あの妖魔との最後の闘いで、ほたるは辰伶の身体と辰伶の魂を取り戻すことができた。しかし全てが元通りというわけにはいかなかった。辰伶の身体は屍であったし、魂は妖魔化していた。この辰伶は、辰伶の魂が辰伶の遺体に宿って動かしているに過ぎないのだ。
辰伶は書類上では死者で、戸籍も無い。葬式まで出したのだから、世間的には幽霊のようなものだ。死んだはずの主人が帰ってきたことを気味悪く思う使用人もいた。逆に、涙を流して喜んだ者もいた。去るものは去り、残るものは残った。それでいいと、ほたるは思った。
心臓の音はしなくても、辰伶はここに居る。姿が見えるし、声が聞こえるし、触ることだってできる。こんなに確かに辰伶が存在して、ほたるの傍に居るのだから、ほたるはそれだけで十分だった。
これらの事情をいちいち説明するのが面倒なので、ほたるは全て「特異体質」で通している。本当に便利な言葉だと思う。
「待たせたな」
またもや突然に辰伶が姿を現した。シュガーポットをテーブルに置いたところで、その手首をほたるが掴んだ。
「何だ?」
「辰伶も居れば。ヒマなんでしょ」
辰伶は黙ってほたるの隣に座った。ふと、ゆやは気付いた。ほたるの手にも、辰伶がしているのと似たようなデザインのリングがある。
「それ、ペアリングなんですか?」
「あ、本当だ」
ゆやの指摘に、幸村もほたると辰伶の手にあるリングを交互に見た。
「ゆやさん、目敏いね。アクセサリーに目がいくなんて、やっぱり女性だねえ。でも、ほたるさんも辰伶さんも、見せ付けてくれるなあ」
「…て、ことは……お2人は、その…」
ゆやの躊躇いがちな質問に、ほたるが即答した。
「うん。俺たち恋人同士」
忽ち辰伶は紅潮した。しかし否定はしない。進歩したなあと、ほたるは思う。ついこの間までは、ほたるがそんなことを口にすると本気で殴りかかってきたものだった。
一方で、ゆやはリアクションに悩んだ。とりあえず、無難なことを口にしておいた。
「お…お似合いですね」
「うん。ありがと」
「…依頼の話をしてもいいですか?」
「ああ、そうだったね。すっかり忘れてたよ」
幸村が屈託の無い顔で笑った。これが紅虎あたりだったら、ゆやは渾身のツッコミを入れていただろう。
「私、背中にキズのある漢を探してるんです。忘れもしない、あの紅十字…」
「それって、狂のこと?」
「知ってるんですか!?」
「うん。だって、ここに居るから」
「え?」
「狂なら西の部屋にいるよ。廊下出てすぐの扉の…」
ほたるの言葉が終わるのを待たずして、ゆやは廊下へ飛び出した。狂、あんたねー、今日こそ人のお金返しなさいよーっ…という声が、廊下を隔ててこの部屋まで響いてきた。
「良かったね。見つかって」
「うーん。狂さん、こんなところに居たのか。どうりで誰も知らないはずだよ」
「しかしこれは、依頼料を貰えんな…」
「俺はいいけどね。仕事しないで済んだから」
ほたるは気だるげにソファに寝転んだ。隣に座っていた辰伶の膝を枕にする。
「おい」
「あ、辰伶。もうちょっとずれて。この位置だと首が痛いんだよね」
「勝手に寝違えろ」
そう言いながらも辰伶は座っている位置をずらし、ほたるの姿勢を楽にしてやった。向かいでは幸村が、その光景を楽しみながら、辰伶の淹れた紅茶を啜っている。柑橘系のフルーティな香り。レディ・グレイとは、相変わらず趣味がいい。
廊下でゆやの怒鳴り声がする。狂も引っ張って来ているようだ。仕事の予定は消えたことだし、こんな日は皆でお茶会なんて素敵だろう。
好きな人が傍に居て、好きな人の傍に居る。こんな幸せな午後は。
おわり
白い兄さんと黒い兄さんがほたるを取り合ってる話を書いてきたつもりでしたが、終わってみると何故かほたると黒い兄さんが白い兄さんを取り合ってました。変だな。
ところで、辰伶は舞曲の太刀という技に合わせて舞曲水という非常に軽い刀を使用していますが、31巻でほたるは同じ技を普通の刀でやっています。これでは辰伶のお兄ちゃんとしての立場は…っつーか、もしかしてほたるって、見かけによらず、とんでもねー豪腕か?梵ちゃんとの腕相撲で鍛えられたのかな?
それについて、某無明歳刑流本家のS氏よりコメントを頂いて参りました。
『すまんな。俺は箸より重いものなど持ったことが無いのでな。…何?刀は箸より重いだと? 羽根のように軽い舞曲水が、箸より重いはずなかろう。このクズが』
(06/1/31)