23.唇 (1)


 あの唇に何回触れただろうか。確か、片手の指の数にも満たないはずだ。ほたるは指を折りながら数えてみた。

 1度目は自分から。この気持ちを思い知らせてやりたくて、無理やり口付けた。夢中で吐息を奪っただけの、ただ、苦しいだけのキス。

 2度目は辰伶から。抜け殻となったほたるの肉体に、魂を注ぎ込んでくれた。その感触は覚えていないが、限りなく温かく、限りなく優しいものだったはずだ。生命の瑞々しさに溢れたキス。

 3度目に触れた唇は、冷たかった。そこには何の想いも存在せず、何も伝わってこなかった。ただ、唇と唇が重なっただけの、全く意味の無い行為。

 冷たい唇と、冷たい心臓。あれはもう、辰伶ではない。


 どうしても確かめる必要がある。そんな思いに駆られて、ほたるは家を飛び出した。辰伶の日記を読んでいて、1つだけ、どうしても気になった。それは辰伶の師である吹雪の存在だ。

 辰伶の左手には妖魔の幼生が寄生していた。それは宿主の力を喰って成長し、やがて心臓を食い破って出てくるという性質を持っていた。その為、辰伶は壬生一族としての力を自ら封印していた。しかしそれでも僅かずつ成長してしまうのを抑止する為に、辰伶は吹雪によって特殊な術を施されていたはずだった。しかしそれは辰伶がほたるについた嘘だったのではないかと、辰伶の日記を読んで、ほたるは思った。

 思い返してみれば、辰伶の手の痣は年を経るにつれて大きくなっていた。辰伶は見た目ほど成長してはいないと言っていたが、恐らくはそれこそが嘘だ。実際には見た目通りに妖魔はゆっくりと成長し、それ故に辰伶は己の命が長くないと感じていたに違いない。

 しかし辰伶が定期的に吹雪のもとへ通っていたのは事実だ。辰伶が吹雪に何らかの術を施されていたことは確かなようで、彼の日記にしばしばそれを思わせる記述があった。妖魔の成長抑止でないにしても、何らかの施術はされていたのだ。では、それは何だったのだろうか。

 考えるのは嫌いだし、答えの出ないことを悩むのは時間の無駄だ。ほたるは吹雪に直接訊くことにした。解からないことは単刀直入に尋ねるに限る。

 ところがほたるは吹雪の住居の所在地を知らなかった。そこで遊庵に訊ねることにした。遊庵は吹雪と同僚であるから、きっと知っているはずだ。

「兄貴なら居ないぜ」

 ところが生憎と遊庵は留守だった。応対に出た遊庵の弟、庵曽新に玄関先で言われた。

「いつ帰ってくる?」
「さっき出たばっかだから、遠分は帰って来ねえんじゃねえの?」
「むう…使えない」

 ほたるは不機嫌になり、腹立たしげに大きく溜息をついた。

「急ぎの用か?」
「急ぎっていうか、吹雪の家が知りたかったんだけどね」
「吹雪って、太四老の吹雪か? 何しに行くんだよ。んな、物騒なモン、持って」

 ほたるの持ち物を見て、庵曽新は不審そうに目を細める。ほたるがその手に携えているのは錦の布袋だが、その中身は間違いなく刀剣だ。

「さすがに無謀じゃねえの? 相手は兄貴と同じ太四老だぜ」
「…何でかなあ。そう聞くと、太四老ってあんまり凄い感じがしないんだよね。ゆんゆん、ちゃんと強いのに」
「俺も自分で言ってて妙に白々しいっつうか。兄貴のことはマジ尊敬してんだけど」
「太四老が凄くても凄くなくてもいいけどね。別に吹雪と戦いにいくわけじゃないから。ちょっと訊きたいことがあるだけ」

 勿論、事と次第によっては戦いも有り得るが。実際のところ、ほたるが刀を持ち歩いているのは、妖魔とどこで戦闘になっても良いようにである。吹雪とはあまり関係ない。

「何だか知らねえけどさ、吹雪の家なら俺も知ってるぜ」
「ホント?」
「地図書いてやるから、上がれよ」
「うん」

 庵曽新は使える。ほたるは途端に機嫌を回復した。


 来客を告げられて、吹雪は書き物の手を止めた。そろそろ来る頃だと思っていた。吹雪の命令を待って佇む使鬼に、客を道場のほうへ誘導するよう指示し、自らもそちらへ赴いた。

 この道場で、吹雪は大勢の弟子達を壬生一族の戦士として育ててきた。その内の1人を、ごく最近に失った。最も目を掛け、己の後継者にとさえ望んだ者だ。彼以降、吹雪は1人も弟子をとっていない。吹雪にとっては最後の愛弟子だった。その才能も、若さも、心根も、惜むに余りある。

 格子窓から椿の木が見える。吹雪の愛弟子は純粋で一途で意志の固い漢で、椿の花の、地に落ちてさえ形を崩さぬ頑なさによく似ていた。訪れた客は、その愛弟子の兄弟であると、吹雪は使鬼から聞いた。

「訊きたいことが、あるんだけど」

 庭を眺めていた吹雪は、背中で問いかけを受けた。道場の入口にほたるが姿を現した。ゆっくりと近づいてくる。その手には抜き身の刀が光っている。

「お前、辰伶に何したの? ううん、辰伶とお前は何をしていたの?」
「……」

 吹雪は答えない。

「何で答えないの?」

 声に苛立ちが滲む。吹雪は一向に動く素振りをみせなかった。返事もしなければ、振り返ってお座成りに視線で撫でることさえしようとしない。

「俺なんて、相手にしてらんないってこと?」
「……」
「そう。眼中に無いわけだ。…じゃあ、これならっ?」

 鋭い風斬り音。ほたるの白銀に光る刃が、吹雪の背に振り下ろされた。吹雪を一刀両断にしたかにみえた瞬間に、ほたるの身体が塵となって消えた。この場には最初から吹雪しか居なかったかのように静寂が支配する。その静けさの中で、硬い金属音が自己の存在を主張した。冷たい床の上で跳ねながら輪を描いく銀製の指輪を、静止する寸前に蒼白い手が拾い上げ、その左手の中指に填めた。

「太四老たる御身分ともなれば、使鬼ごときでは視界にも入れて頂けないというわけですか。さすがに高貴でいらっしゃいます。吹雪様」

 吹雪は訪問者へと向き直った。吹雪の愛弟子であった辰伶の身体を奪った妖魔は、辰伶の顔で辰伶のように恭しく礼をした。その手に冷たく光っているのは、辰伶のシルバーリングだ。天使の加護を願って、ほたるが辰伶に贈ったものだった。妖魔はそれを呪具としてほたるの姿をした使鬼を造って差し向けたのだが、そんなものは太四老たる吹雪に対しては児戯にも等しく、全く相手にされなかった。

「遊庵から事情を聴いた。お前は辰伶の兄弟だそうだな」
「兄か弟かは知りませんが。でもこの通り、今は同じ1つの身です。いいえ、昔のようにと言うべきでしょうか」
「どうあっても、お前は辰伶にはなれぬ」
「…辰伶になりたいなどとは思いません。俺が辰伶なのですから」

 妖魔は不愉快そうに眉目を歪めた。彼の吹雪への礼節は上辺のみでしかない。辰伶とは違って。

「こんな問答をしに参ったのではありません。吹雪様、貴方にはどうしてもお伺いしたいことがあります」
「……」
「貴方と辰伶は何をしていたのですか?」

 吹雪は動かない。彫像のごとく無機質な眼差しを、妖魔のものとなった嘗ての愛弟子の身体に注いでいる。そこには何の感情を読み取れない。冷え冷えとする眼差しと無言が、妖魔にじわじわと圧力をかける。

「辰伶は私に、『すべて思惑通りにいくと思うな』と言っていました。その時は負け惜しみとしか思いませんでしたが、ふと、今になって非常に気になったのです。考えてみれば、あいつの後ろには貴方がいる。確かに辰伶に寄生させていた妖魔の幼生は特殊です。あれを除去することは不可能です。ですが、貴方ほどの御方が、なすすべなく手を拱いておられたとは信じられません」

 不安と畏れに、知らず知らず多弁になっていくのを、妖魔も自覚していた。それでも止められない。喋るのを止めたらこの場の空気に押し潰されてしまうという、強迫観念に駆られていた。

「それは過大評価というものだ」
「ご謙遜を」
「俺には語るべきことは何も無い」
「…貴方は恐ろしいお方だ」

 妖魔は自らの手の甲を噛み裂いて傷を作った。真紅の血が流れる。その血から独特の曲線を描く刀を2振り生み出した。これは辰伶の刀、辰伶の能力だ。

「私が貴方に差し向けた使鬼を造作もなく破り、また、私が気付かぬ内に、この場に結界を張られましたね。お陰で逃げることもできません。出来れば貴方とは戦いたくありませんでした。貴方は私より遥かに強いから。貴方がその気になれば、私を消滅させることなど容易い」
「そのつもりはない」
「それは、私を滅するつもりはないということでしょうか? ならば何故、結界など張って私を閉じ込めるのですか。ますます解せません。何を企んでおいでなのですか?」
「俺も知りたいね」

 突然の第3者の声に、不意をつかれた形となった妖魔は反射的に振り返った。そこにはほたると、遊庵の弟の庵曽新が立っていた。咄嗟に驚きを隠せなかった自らの余裕のなさに、妖魔は小さく舌打ちした。

「ようやく来たか」

 吹雪のまるで待っていたかのような口ぶりに、ほたるは怪訝そうに視線を向けた。思考が読み難い。どちらかといえば率直な感情発現をする辰伶の師とは思えない。そう考えて、ふとそうでもないことに、ほたるは気付いた。あれほど純粋で一途であった辰伶の本心が、最後までほたるには見えなかったのだ。嘘や隠し事が下手で苦手な癖に、ほたるに対する想いだけは一切気付かせなかった。そんな辰伶とこの漢は、やはり似ているのかもしれない。ほたるは吹雪を苦手に感じた。

「吹雪様、これはどういうことですか?」

 妖魔も辰伶の顔で不審を顕にした。彫像のように佇む吹雪に変化は無く、低い調子の、しかし芯に響く声で言った。

「お前達は同じ事を、俺から訊きだしたいらしい」

 ほたると妖魔は互いに見交わした。その間で非友好的な光が交錯した。睨みあったまま、ほたるは吹雪に言った。

「バラバラだと面倒だから、2人いっぺんに話してくれるってこと?」
「生憎とお前達のどちらにも話すことなどない」
「何で隠すの?」
「俺とて全てを把握してはおらん。確信もなく不用意に喋るような愚かな行為は己の品位を下げる」

 ほたるは溜息をつくと、うんざりした口調で呟いた。

「慎重過ぎ。ゆんゆんと大違い」
「あー…兄貴は軽口が服着て歩いているようなモンだから」
「それで、たまに墓穴掘るんだよね」
「あれ? てことは、『愚かな行為』ってのは、兄貴の素行のことか?」
「いいんじゃない? 元からゆんゆんの品位なんて、下がるほど高くないから」
「そーいや、そうか」

 最高の心眼を誇る遊庵だが、まさか同僚の屋敷で、弟子と実の弟に散々こきおろされているとは夢にも思うまい。

「吹雪様、『確信もなく』と仰いましたが、私がお尋ねしたいのは、貴方ご自身がなさったことについてです。憶測や想像を挟む余地がありましょうか?」

 ほたると庵曽新の無駄口を無視して、妖魔は慇懃無礼に吹雪に言った。

「吹雪様と辰伶が何を画策していたか知りませんが、その結果を吹雪様御自身もご存知でないということでしょうか。或いは失敗したとか。すると私は要らぬ心配をして、こんなところに囚われた道化者ということになりますが」
「……」
「どうやらそうでもないようですね。まだ、結果が出ていないのですね? ならば余計に知りたく…」
「どーでもいーよ。そんなこと」

 不機嫌を顕に、ほたるはぶっきら棒に言い放った。

「言う気が無いなら、あんたに用はないよ。それよりも俺は、もっと大事なこと思い出した。約束したんだよ、戦友に。辰伶の仇を討つって」

 ほたるは刀を抜いた。刀袋と鞘を庵曽新に預け、辰伶の命と身体を奪った妖魔に向かい、真っ直ぐに対峙する。妖魔も辰伶の身体で双剣を構えた。

「3対1とは、こちらに分が悪過ぎるな」
「お前を倒すのは俺だから。吹雪も庵曽新も手出ししないで。俺の邪魔したら殺すよ」
「…好きにしろ」

 吹雪はそれだけ言うと、庵曽新に退くよう命じ、自らも壁際に移動した。

「あ、そうだ。これだけは教えて。辰伶はどうして自分の命が長くないって思ってたの?」

 吹雪は足を止め、ほたるを振り返った。

「辰伶に寄生してた妖魔の幼生が成長しないように、吹雪が術を掛けてたんじゃなかったの?」
「それについてなら、俺が説明してやってもいいぞ」

 妖魔は半分笑いながら、説明し出した。

「あの幼生は、壬生一族の力を養分にして成長する。しかし宿主にその力が無かったり、或いは辰伶のように封じてしまったりすると、養分を断たれた幼生は宿主の生命力を喰らい出すんだ。個人差もあるが、まあ、1ヶ月もあれば、宿主の生命を吸い尽くしてしまうだろう。ただし、生命力は養分の代わりにはならんから、幼生は成長できんが」
「じゃあ、どっちにしても宿主は死ぬってこと?」
「心臓を喰い破られるか、衰弱死するかの違いだな。吹雪様がされたのは、幼生が辰伶の生命力を喰らい出さないギリギリで、非常に遅く成長させること。つまり、辰伶が最も長く生きられる状態に保っていたんだ。その結果…」
「辰伶の身体は妖魔化しちゃったんだね」
「その通りだ。前にも少し説明したが、この幼生は長く人の身体の中に在ると、宿主を妖魔化してしまうという面白い性質を持っている。しかし、吹雪様。このことに貴方ほどの御方が気付いておられなかったはずは無い。ましてやひしぎ様のような優れた研究者もお傍にいらっしゃるというのに。貴方の弟子が妖魔と化すのを、黙って見ていたとは思えません。貴方は辰伶に、何をなさったのですか?」

 この妖魔は邪悪だ。しかしその妖魔にこれほど警戒心を抱かせる吹雪という人物も底知れない。庵曽新は隣にいる漢を畏怖の思いで見上げた。


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