19.優 (1)


 上も無く、下も無い。

 光なのか闇なのか判らない。暑さも寒さも感じない。何処を見ているのか、何を見ているのか。或いは何も見ていないのかもしれない。果たして自分は目を開けているのだろうか。それすら判らない。

 なんて曖昧。不確かで不安定で、自分が誰なのか、そんな認識さえも消えていきそうな…


 ホテルのラウンジを会合場所にして、見合いは当たり障り無く進行していた。仲介者である辰伶の叔母によって互いを紹介され、しばらく談笑し、後は本人同士で話を、という段階を踏んだ。テーブルには辰伶と、見合いの相手である芙美代のみが残された。2人きりになったところで、躊躇いがちに芙美代が言った。

「実は私、以前から辰伶さんのことは、存じ上げておりました」

 コーヒーカップを口元の手前で止めて、辰伶はカップ越しに相手を見た。口を付けずにソーサーに一旦戻す。

「どこかでお会いしましたか?」

 芙美代は小さく首を横に振った。

「片想いでした」

 はにかむように目を伏せる。そういう少女めいた仕草は、ますます母に似ていて、辰伶は懐かしさに目を細めた。

「貴方は私のことなど、全く気付いてはいらっしゃらなかったけれど、ずっとお慕いしていました。こうしてお話しすることができるなんて、まるで夢のようです」
「……」

 不意に辰伶は黙り込み、考え込むようにコーヒーカップを見詰めた。やがて決心したように居住まいを正すと、真っ直ぐ芙美代を見て言った。

「こんなことを申し上げるのは大変失礼だと判っていて、敢て言います。私は今、どうやってこのお話をお断りしようかと、悩んでいます」
「私……何かお気に障りますことを、申しましたでしょうか」
「いいえ。貴女が私に好意を持って下さったことは、とても光栄です。それに貴女は、私が過去に大切に思っていた人に似ています。ですから、出来るだけ傷つけることなくお断りできたらと、そんな虫の良いことを考えているのです」

 芙美代は辰伶の視線から逃れるように俯いた。

「その方を…愛していらっしゃいますの?」
「そういうのとは違います。…私の亡くなった母のことです。あまり幸福そうではなかった母を、世界で一番幸せにして差し上げることが、幼い頃の私の夢でした」

 辰伶の母親の不幸は、己の境遇に悲嘆する余り、己の殻に閉じ篭って周りを見ようとしなかったことにある。夫の愛情も、子である辰伶の眼差しも拒絶し、いつまで経っても幼い少女のように頑なに温室の花ばかりを眺め暮らしていた。

 そんな母親であったから、辰伶には母親に愛された記憶は無い。それなのに何故、あんなにも母を幸せにしたいと、切実に思っていたのだろうか。親子という血の絆が情に訴えるのだろうか。そうではないと、辰伶は思う。
 母が幸せなら自分の方を見てくれると、無意識に思っていたのだと、あの頃の自分を辰伶は解釈している。結局のところ、自分が母に愛されたいから、あれ程までに母の幸福を願ったのだ。

 自分さえも気付かなかったが、それが本心だ。苦い思いが辰伶の心に隙間を作り、細やかで温かいものを奪っていくようだった。その隙間を丁寧に、長い時間を掛けて埋めてくれたのが誰だったか、辰伶はもうずっと前から知っていた。

「私は貴方のお母様に似ておりますの?…でしたら、」
「だからこそっ」

 強めの語気で、辰伶は芙美代が言い募ろうとするのを遮った。

「失礼。私の話を聴いてください。私には弟がいます。少し事情がありまして、弟は長く不遇にありました。その弟に、母は決して赦されぬ仕打ちをしたのです」
「……」
「弟が貴女を見れば、昔の傷を思い出さずにはいられないでしょう。だから貴女とは交際できません。外見だけのことで、貴女の人柄を全く見ようとしないのは、最低なことだと承知しています。しかし、私には優先順位というものがあります。先ずは弟のことを想わずにはいられません」

 芙美代は少し蒼褪め、動揺に唇を震わせながら言った。

「貴方にとって、弟さんのことはそんなに大事なのですか?」

 ほたるにとって辰伶は母親の仇の息子だ。そして、ほたるの母の死には心ならずだが、辰伶も関与していた。にもかかわらず、ほたるは辰伶が失意の底にあった時に、無言で手を差し伸べてくれたのだ。肉親として辰伶に愛情を示してくれたのは、己の実の母ではなく、異母弟のほたるだ。

「もうこれ以上、弟を傷つけたくはありません」

 辰伶は迷い無く言い切った。その瞳の曇りの無さに、芙美代はどんな言葉も無力であることに気付く。深く溜息をついた。

「そうですか。残念です。一番、貴方の気を惹く事の出来る姿を選んだつもりが、とんだ逆効果でした」
「え?」

 芙美代は奇妙な言い回しをした。意味が全く解からず、辰伶は反射的に疑問の声を漏らした。

「私は本当に昔から貴方のことを見てきました。貴方の異母兄弟である螢惑さんのことも、よく存じています」

 辰伶の眉目が険しくなった。「螢惑」とは妖魔退治を生業とする壬生一族の間での、ほたるの通り名だ。ほたるをその名で呼ぶ芙美代は、しかし壬生一族とはどこか違う。

「私は螢惑さんよりも前から、貴方を見てきましたのよ。何しろ私は、貴方があの離れ屋で暮らしていた頃のことも知っているのですから」
「何者だ、貴様」

 芙美代は妖しい笑みを湛える。その顔は以前に見たことがある。そんな風に微笑む女を、そんな酷薄な笑みを浮かべた母の姿を、辰伶は己の記憶の中に見出した。

「まさか、貴様は…」

 芙美代の手が伸びて、辰伶の目の前のテーブルの上に、その手の中に握られていた物を置いた。辰伶のリングだ。

「これはっ」

 チェーンを通して首に提げていた物を、どこかに失くしてしまったことに、出掛けに気付いたがそのままにしてしまった。それを何故、芙美代が持っていたのだろう。いや、あのリングは市販されていたものだから同じデザインのものなど出回っている。同一のものとは限らない。

「大切なものは手放さないよう、ご忠告差し上げますわ。…もう遅いでしょうけど」
「どういう意味だ」
「それを填めてごらんなさい」

 辰伶はリングを手に取り、その外観を見る。サイズは辰伶のものと同じだ。そして理屈ではなく、それが本当に自分のものであることを、辰伶は確信した。ほたるがくれたものを間違える筈が無い。辰伶はそれを左手の中指に填めた。

 途端に芙美代の姿が消え、人型の紙切れが宙を舞ってテーブルの上に落ちた。人型には辰伶の母親の若い頃の写真が貼られていた。

「相席よろしいか?」

 その声に顔を上げた辰伶は、相手の顔を見て驚いた。それは知らない顔ではなかった。毎日鏡の中に見る自分の姿にそっくりだった。辰伶に瓜二つの漢は辰伶の了承を待たずに、それまで芙美代が座っていた席に腰掛けた。

「貴様がこんな茶番を仕組んだのか?」

 辰伶は視線で芙美代だった人型を差した。

「何者だ。何故、俺の姿をしている」
「言った筈だ。ずっとお前を見てきたと。兄上、いや、弟か? ふん、どちらでもいいが」

 辰伶は目を瞠った。

「すると貴様は…」
「ほう、俺のことを知っていたか。父上から何か聞いていたか?」
「……」

 辰伶は脇腹辺りに手を当て、その部分を覆う服を無意識に握り締めた。

「…貴様だったのか? 母上を唆し、父上を呪殺し、ほたるの母上殿を巻き込んで死に至らしめた妖魔の正体は…」

 ハッと気付いて、辰伶は自分と同じ顔の妖魔を睨みつけた。

「まさか貴様、あれからずっと、ほたるに付き纏っていたのか?」

 妖魔は薄笑いを浮かべるだけで答えない。だが、それが答えだ。

「何故だ。貴様が俺を憎む気持ちは解からんでもない。だが何故、ほたるを苦しめる」
「愛しいからに決まっている。俺は螢惑が愛しくて堪らない。そして辰伶、お前のこともな」

 妖魔の愛は、人間の愛とは違う。妖魔の愛は狂おしいほどに深く、残酷だ。

「だから、お前とゲームをして遊ぼうと思って、こんな席をセッティングしたんだ」
「ゲームだと? 下らん遊びに付き合うつもりはない」
「お前は既に盤上の駒だ。勝手に降りられては困る」
「貴様の都合など知るものか」
「いいのか?」
「何?」
「後悔したくないのなら、俺の話を聴くことだ」
「どういう意味だ」
「疑問に思わないか?」
「何をだっ」

 回りくどい妖魔の語りかけに辰伶は苛立ち、声を荒げた。

「短気だな。しかし余り大声を張り上げない方がいいぞ。他の人間たちは俺の姿が見えていないんだ。独り芝居が、ここの客層の嗜好に合えば良いが」
「……っ」

 言われて初めて、辰伶はそのことに気付いた。そして疑問に思った。何故、自分にはこの妖魔の姿が見えているのだろうか。辰伶は左手に密かに息づいている妖魔の幼生を成長させないために、壬生一族としての力を全て封印している。今の辰伶には妖魔の姿を見ることも、声を聞くこともできないはずだ。

「ほら、やはり疑問に思うだろう。答えはそのリングだ」

 辰伶は視線をリングに落とした。確かに妖魔の言う通り、このリングを填めた瞬間に芙美代は人型に戻り、この妖魔が姿を現したのだ。

「呪具というものは、殊更古いものや神秘的なものからしか作られないわけではない。こんな市販のありふれた指輪だって、十分それに仕立てることは出来る。物性ではなく精神性の問題だからな。お前と螢惑は、この指輪に随分と想い入れがあるようだ」

 このリングが呪具の役目を果たし、能力を封じた辰伶にも妖魔の姿を見させ、声を聞かせているということは解かった。しかし、妖魔の説明には、何か不吉なニュアンスがあった。

「何故そこでほたるの名が出る」
「嘗ては優秀な壬生一族だったお前なら、その知識も豊富だろう。俺が説明しなくとも、もうとっくに気付いているのではないか?」
「ほたるに何をしたっ!」

 心底可笑しそうに、妖魔が笑う。瞬時に辰伶は頭に血が昇り、拳でテーブルを殴りつけて席を立った。衆目のことなど、既に辰伶の頭にはない。

「その指輪をよく見てみろ」

 辰伶は妖魔を一睨みして唇を噛み締めると、リングに目を凝らした。天使の翼に抱かれたジルコニアはその輝きを曇らせることはなく、澄んだ光を宿している。その光の中に、ほんの一瞬だけ、水面に映る影のような淡い映像が浮かんで消えた。

「今のはっ」

 もう一度、目を凝らし、辰伶は食い入るようにジルコニアを見つめた。映像は再び現れなかったが、辰伶には確信があった。あれは、あの人影はほたるだ。このリングのジルコニアの中に、ほたるの魂が閉じ込められているのだ。

「知っての通り、螢惑はお前の強運を削ぐ。お前の大事な指輪は、お前の最も大切な者を贄にして、お前にとって最凶の呪具となったわけだ。ほら、ゲームをする気になっただろう」
「貴様…」
「螢惑の禁忌技のことは知っているな? 螢惑の身体は焔血化粧を浮き上がらせたままだ。このまま魂が戻らねば、血管内の血が燃焼しつくされ、やがて発火し自らの炎によって灰と化すだろう」
「貴様ーっ!」

 辰伶は相手の胸倉を掴み、怒りに任せて引き摺り上げた。テーブルが倒れ、カップやシュガーポットが絨毯の床に転がる。どこかで悲鳴が上がるが、辰伶の耳は聞いてはいない。
 妖魔は辰伶の手を跳ね除けた。乱れた襟元を整える。

「信じる信じないはお前の勝手だが、俺を殺しても螢惑の魂は元には戻らん。指輪を破壊しても同様だ。さあ、どうする? 辰伶」
「解かったぞ、貴様の本当の目的が。くそっ、何がゲームだ」
「確かに、最初から勝敗の決まっているものをゲームとは呼ばんだろうな」

 妖魔が哂う。子供のように無邪気に、悪魔のように酷薄に。

「俺の思惑を知ったところで、お前は盤から降りることは出来ん。何故ならそれは、螢惑を見殺しにするということだからな。それより、いいのか? ぐずぐずしていれば、螢惑が跡形も無くなるぞ」
「…すべて貴様の思惑通りにいくと思うな」
「結構。その方が面白い。もっとも、何が出来るとも思わんが。螢惑の身体は屋敷の庭だ。どれくらいで発火するかは、俺も知らん」

 辰伶は妖魔に背を向けると、全速力で駆け出した。一度として振り返ることなく、一心不乱にほたるの元へと走り去っていった。その後姿を、妖魔は笑顔で見送った。

「ゲーム・オーバー。さようなら、辰伶」

 床には人の形をした紙切れと、女の写真が1枚、誰の関心を引くこともなく打ち捨てられていた。


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