19.優 (2)


 走りながら、辰伶の脳裏には1つの方法が浮かんでいた。ほたるの魂をリングから解放するには、妖魔を殺しても無駄で、リングを壊しても無理であると、妖魔自身が言った。恐らくそれは嘘ではない。少なくともリングを壊してしまっては位相が崩れて、かえって助けられなくなる可能性が高い。

「必ず助けるからな。待ってろ、ほたる」

 辰伶が駆けつけた瞬間に、ほたるの身体が発火した。

「ほたるっ」

 辰伶は封じていた力を解放した。両手に彼の武器である舞曲水を生み出す。左手の痣が微かに蠢く。

「水破七封龍」

 水龍が七条、ほたるを目指して迸った。ほたるの身体から発する炎を一瞬にして消し止める。尚も水龍はほたるに絡みつき、燃焼を続けようとするほたるの身体を冷却する。

 辰伶の左手の甲で蠢いていた痣が成長し始めた。まるで蛇のように辰伶の腕を這い登っていく。長い間眠っていた妖魔の幼生は、覚醒と同時に急激に成長し、彼の心臓を目指した。しかし辰伶はそれを気にする素振りも無い。

 ほたるの身体の焔血化粧が次第に薄くなっていった。これなら身体の方は大丈夫だろう。肉体を確保したら、次は魂である。辰伶は水龍を1匹呼び寄せた。左手の中指に光るジルコニアを水龍に向けて晒す。

「解かるな? これはお前の領域だ」

 ジルコニアの透明な輝きは濁りの無い水に通じる。天使の翼に守られた穢れなき天上の水世界。それは水の王たる龍の領域であり、水龍を使役する辰伶によって支配可能な空間だ。

「行け、水龍。ほたるの魂を拾って来い」

 辰伶の命令に応じて、水龍はジルコニアの中に吸い込まれるようにその身を躍らせた。


 浮遊しているような、果てしなく堕ちているような。

 漂泊しているような、静止しているような。

 思考してるの? ただ、感じてるの?

 俺は居るの? 在るの?

 もしかして…もう「無い」の?

 それとも最初から「無い」の?

 俺は「無い」の?

 ―― は……の?

 ……の?

 ・・・

 …

 ・


 ・




 ・







 …―― ほたる



 何?



 …―― ほたる



 これは何? 音?



 …―― ほたる



 ううん。音じゃなくて、これは声。俺を呼ぶ声。



 …―― ほたる



 <ほたる> は、<俺> を指す <記号>。 俺の…名前。ほたるは、俺。

 そして、俺の名を呼ぶのは、

「ほたる」

 辰伶…

「やっと気付いたな」

 辰伶! 辰伶! 辰伶!

「さあ、帰るぞ」

 辰伶だね。辰伶が居るんだね。ああ、辰伶の心臓の音が聞こえる。いつかも聴いたよね。規則正しくて優しい、辰伶の鼓動。

「ほたる。目覚めたら、すぐに俺の身体を焼却しろ。葬式はいらん。すぐにだ」

 何、言ってんの? 意味が解らない。

「お前の浄化の炎で、跡形も無く消してくれ」

 辰…伶?


 何かが口から侵入し、喉を通って行った。不可解な感触は、しかし決して不快ではなかった。生命が身体の隅々まで浸透し潤っていく。そんなイメージに包まれて、ほたるは目を開けると、間近に辰伶の顔があった。

「辰…伶?」

 妖魔ではない。本物の辰伶がそこに居て、ほたるに微笑みかけた。ジルコニアの中に閉じ込められていたほたるの魂を取り戻してきた水龍を、辰伶は口移しでほたるに与えたのだ。

「戻ってきたな。…良かった」

 辰伶は安堵の息を漏らした。

「辰伶、俺…」
「ほたる。俺は、ずっと…」
「ずっと?」
「……」

 辰伶の唇は動いているのに、そこから紡ぎ出されるはずの音声が聞こえない。ほたるは身を起こして、辰伶の唇に耳を寄せた。しかし何も聞こえない。

「ずっと…何?」

 ほたるの身に辰伶の身体が寄り掛かる。重心を失くした積み木の塔の様に崩れていく身体を、ほたるは全身で受け止めた。大して重くないはずなのに、何故か奇妙に重さを感じて、抱えているのが難しい。

「ねえ、ずっと何?」

 ほたるは何だか厭な感触がした。とても、とても厭な感触がする。何気なく己の手を見ると、生温かい血に塗れていた。辰伶の胸の辺りが真っ赤な血の色に染まっている。

「う…そ……」

 辰伶の瞼は冷たく閉じられ、長い睫が蒼い陰りを落としている。ほたるは赤い指で、彼の蒼白い瞼にそっと触れてみた。ピクリとも応えない。

「うそ、でしょう…?」

 これは嘘だ。何故なら、ほんのついさっきまで、ほたるは辰伶の心臓の音を聴いていたのだ。こんなことが本当である筈が無い。

「うそ! うそ! うそ!…」

 何て性質の悪い冗談だろう。冗談にしても性質が悪すぎる。酷い嘘。何て酷い嘘。

 ねえ、嘘でしょう?
 嘘なんでしょう…

 だって、ほら。前にも見たことがあるじゃない。あの時だって夢だった。だから、これも、きっと、夢だよ。

「うそ! うそ!」

 早く起きなくちゃ。いつまでも寝てると、辰伶に怒られるんだよね。起きて辰伶に「おはよ」って言わなきゃ。起きたら母屋に行って、辰伶と一緒に朝ごはんを食べよう。辰伶とご飯を食べるのって、すごく久しぶりな気がする。そういえば、俺が避けてたんだっけ。あーあ、良く考えたらすごく損した気分。

「うそ…辰伶、うそ…」

 早く起きよう。こんな下らない夢、いつまでも見てたってしょうがないからね。目を覚まして、朝ごはん食べて、それから…ねえ、たまにはどっかに行こうよ。2人でさ…

 早く目を覚まさなきゃ。

 早く。

 ほら、早く。

「うそ… 嘘 ―――― っ…」










 あの夢は、こういう意味だったんだ…






おわり

〔今こそ明かす妖魔シリーズの構成〕
第1部・・・bP〜bW ラブラブ編
第2部・・・bX〜19 白兄殉愛編
第3部・・・20〜25 黒兄愛憎編

これで最後幸せになれるの?ってカンジですが、勿論、幸せにします。ほたるの誕生日祝いですから。(メリバじゃないのでご安心を)

(05/12/20)