08.刺客 (1)
(過去の話)
中学3年という年は、ほたるの人生で大きな変化のあった年だ。この年の冬に母親が死んだ。心筋梗塞による突然死だった。
唯一の肉親であった母親を亡くし、頼れるような親戚も無いほたるは天涯孤独の身となった。突然の不幸に呆然としていたほたるの元に、1人の見知らぬ婦人が尋ねてきた。
「ほたるさんですね。初めまして」
身なりの良い婦人は、優雅な立ち居振る舞いで、ほたるに挨拶をした。婦人は、ほたるの父親の妻であると、自らの立場を明かした。ほたるの母親はある男の愛人であったから、彼女はその正式な妻ということだ。ほたるは非常に驚いた。彼女はほたるの母よりも随分若く見えたからだ。実際のところ、5歳以上は若いだろう。
婦人は位牌に丁寧に手を合わせた後に、ほたるに向き直り、彼女がほたるを訪問した理由を話した。身寄りを無くしたほたるの後見人になりたいという申し出だった。
余りにも意外な申し出に、ほたるは回答に詰まった。その思いは率直に口から出た。
「何で?」
「……」
「あんたにとって、俺なんて夫を誘惑した女の息子でしょ。何でそんな気になるんだか解からない。何考えてんの?」
「貴方のお母様を恨んだこともありました。でも、もう過去のことです。亡き夫の形見と思えば、とても放っておけません」
「亡き…って…」
ほたるは驚きに瞠目する。
「死んだの? 親父」
婦人は無言で頷いた。
「連絡が遅れてごめんなさいね。でも、丁度貴方の方も…」
ああ、すると母は、父と時を同じくして逝ったことになるのか。まるで心中の男女のようだとほたるは思った。無論それは形だけのことで、あの父が母に対してそれほどの情を抱いていたとは思わないが。
「来て下さいますね」
婦人は少女がはにかむような仕草で微笑んだ。ほたるは頷いた。
ほたるが屋敷に移るのは、中学の卒業式を終えてからということになった。もう日数も残り僅かであったし、新しく住むこととなる屋敷から中学校は遠かったからだ。屋敷のほうでもその間にほたるの部屋を準備するから、ちょうど良いということだった。
ほたるは公立の高校へ進むつもりだったから、卒業式後に受験が控えていたのだが、その予定は消えた。父親の本妻の息子、つまり、ほたるの異母兄と同じ私立の高校へ編入されることになったからだ。ほたるの中学時代の成績と簡単な面接のみで編入は認められた。仲間の殆どは公立へ進学したので、彼らとは別れてしまうが、通学距離を考えるとやむを得なかった。
その日、初めて屋敷を訪れたほたるは、その大きさに半ば呆れ返っていた。
「ほたる様、ご案内致します。どうぞ、こちらへ」
「……」
これまで母親と狭いアパート暮らしだったほたるにとって、この屋敷の何もかもが非常識だった。重厚な門構え。広大な庭。立派な家屋。大勢の使用人。何よりも、「ほたる様」という呼び方は想像外だった。
まずは、ほたるをこの屋敷へ引き取り後見人となってくれた婦人、父親の本妻である女性に挨拶にいくのかと思いきや、彼女は風邪をひいて調子を崩しているので、後程にということだった。先にほたるの部屋に案内された。
案内の使用人の後に続いていくと、渡り廊下を通って、離れ屋へと導かれた。離れ屋の西側の方は何やら修繕をしているらしく工事用のシートに覆われていた。少し前にそこで小火があったので、その修理のついでに改築をしているとのことだった。
「こちらです」
そう言って使用人が示した扉が急に開いた。ほたるに与えられた部屋から現れた人物は、ほたる達を見るなり驚いて慌てて何かをポケットに捻じ込んだ。
「辰伶様、退院なされたんですか」
「ああ、今日…な」
辰伶という名前は、既に教えられていた。彼がほたるの異母兄である。なるほど、あの婦人の面差しがある。
「ほたる…か?」
「……」
ほたるは無言で頷いた。
「勝手に部屋に入るのは悪いと思ったのだが、忘れ物をしてしまってな。お前が来る前に取ってこようと思ったんだ」
辰伶はほたるの横をすり抜けて、母屋のほうへ行ってしまった。ほたるが来る前は、ここは辰伶の部屋だったのだと、使用人が説明した。父親が死んだこともあって、辰伶は母屋へ移ることになったのだそうだ。
部屋には先に送っておいたほたるの荷物が置かれていた。荷解きや整理に手伝いが要るか訊かれたが、大した量ではなかったし、煩わしいので断った。
「夕食は6時半ですので、その時にまた案内に参ります。何か御用がありましたら、内線でお呼び下さい」
最後に内線電話の使い方を説明して、使用人は行ってしまった。ようやく独りになれて、ほたるは息をついた。
「変なの…」
夫の形見として。ほたるを引き取る理由として、彼女はそんなことを言った。2人の間に子供が無かったならともかく、彼女には実の息子という立派な夫の形見がちゃんと居るではないか。愛人の子供の出る幕などない。
先ほど会った異母兄のことを考える。歳はほたると殆ど変わらない。本来なら1学年上になるのだが、事情があって休学したため、ほたるとは同学年であると聞いていた。あまり詳しくは聴かなかったが、病院で手術を受けて、その後暫く自宅療養していたらしい。先ほども使用人が辰伶に退院したのかと言っていたが、どこか悪いのだろうか。ほたるよりも背が高く、骨格も確りしていて、とても病弱そうには見えなかったが。
1つだけ解かったことがあった。辰伶はほたるがこの家に入ることを快く思っていないようだ。擦れ違いざまに、使用人には聞こえないくらいの声で、辰伶はほたるに言った。出て行けと。
ほたるの入居は、異母兄である辰伶からは歓迎されていないようだ。しかし、ほたるにはほたるの都合というものがある。ほたるはどうしても知りたいことがあった。だから彼女の申し出を受けて、この屋敷に来たのだ。
ほたるは一枚の紙切れを取り出した。くしゃくしゃに丸められたそれを広げてみる。それは先ほど辰伶が慌てて隠したものだ。擦れ違うときに、辰伶のポケットから失敬したのだ。
紙には何か記号のような難しい漢字のような、見たことのないような文字で何かが書かれている。
「何、コレ。何であいつがこんなもの持ってんの?」
それは呪術に使う札である。用途はよく解からない。
「ゆんゆんなら解かるかなあ。あれでも一応、太四老みたいだし…あれ? もしかして辰伶って、あの辰伶?」
ふと思い出した。辰伶という名前が、ほたるのおぼろげな記憶にあった。ほたるは携帯電話を取り出して、メモリから「ゆんゆん」を探した。
「…あ、ゆんゆん? あのさ、見て欲しいものがあるから、今からFAX送るから……何でこんな時に壊れてんの。……わかった。そっちに送る。番号は?………うん、じゃあ…あっ!それからさ、辰伶って聞いたことある? ……ふうん、吹雪の、ね。吹雪って誰?………知らない。……だから、知らないってば。……そんなこと言われても知らないものは知らな……あ、あの、髪がモワッとした人。最初からそう言えばいいのに。吹雪なんて言われても、誰も解かんないよ。……うん、何かさ、その辰伶と俺って異母兄弟みたいだから。じゃあね」
ほたるは使用人に教えられた電話のところへ行った。たしかFAX機能があったはずだ。ほたるが当てにした「ゆんゆん」の自宅のFAXは故障中なので、彼の執務室に送りつけた。
「あいつが太四老・吹雪の弟子の辰伶か。…世の中って狭いなあ」
大して荷物は無かったので、荷解きは簡単に終わってしまった。夕食まで中途半端に時間があったので、ほたるは庭にでも出てみようかと思った。この離れ屋にも玄関はあったが改築中で使えないため、母屋から廻らなくてはならなかった。
母屋と離れ屋を繋ぐ渡り廊下で辰伶に会った。辰伶は俯いて床ばかり見ながらその場を行きつ戻りつしている。何か探し物をしているようだ。
「もしかして、コレ?」
ほたるの存在に全く気づいていなかったのだろう。辰伶は驚いて顔をあげた。ほたるは辰伶から抜き取った札をヒラヒラと振って見せた。辰伶は目に見えて動揺した。
「あ、ああ。お前が拾っておいてくれたのか。すまない」
すりとられたことに全く気づいていないようだ。ほたるは辰伶の人物像を「鈍い奴」とインプットした。
辰伶は札を受け取ろうと、ほたるに手を差し出した。しかしほたるは札を引っ込めた。
「おい」
「コレ、何なの?」
「何でもいいだろう」
「気になるなあ。コレ、何?」
「お前には関係ないものだ。よこせ」
「教えてくれなきゃ返さない」
埒が明かぬと思ったか、とうとう辰伶は実力行使にでた。ほたるから札を奪い取ろうと掴みかかる。ほたるはそれをひらりとかわす。
「むりやり取ろうなんて、乱暴だなあ」
「貴様が素直に返さないからだろう」
「だから、これが何か教えてくれたら返すってば」
「知るかっ。俺だってこれから調べるところだったんだっ」
「…てことは、このまじない札は、お前のじゃないってこと?」
辰伶は僅かに瞠目した。
「…知っているのか? その札のことを」
「妖術師が呪術に使うものだよね。これで誰かを呪詛したり、妖魔を使役したり。高等な妖魔が使うこともある」
「そうだ」
「でも、それだけ。これにはどんな効果があるのか解からない。ゆんゆんなら知ってるかなって思ったんだけど…」
「ゆんゆん?」
「お前も知ってるでしょ。太四老のゆんゆんだよ」
「太四老…お前は壬生一族か」
この世には妖魔と呼ばれる妖かしを封じたり退治したりする能力を持つ者がいる。壬生一族はそれを生業としている者たちの集団だ。ほたるには炎を召喚する特殊能力があり、その技で妖魔退治をする。
太四老は壬生一族の中枢を担う最高幹部だ。太四老の1人は吹雪といい、辰伶はその弟子だ。辰伶もまた、壬生一族だった。
「しかし、太四老に『ゆんゆん』などという珍妙な名前の方はいらっしゃらないが…」
「いつも目に鉢巻してる人だよ。心眼がどーのこーのって言ってるけど」
「心眼…ひょっとして、遊庵様のことか?」
「そういえば、そんな名前だったかも。一応、俺はその弟子ってことだけど」
「……」
ほたるが「ゆんゆん」と呼ぶのは、彼の師匠である遊庵という漢のことである。一応、太四老だ。ほたるが遊庵と出会ったのは、小学校に上がる前のことだ。その頃、ほたるは自分の持つ力が何なのか解からず、その特殊性も知らず、当然壬生一族などその存在すら聞いたことはなかった。年端も行かぬ小さな子供に馴れ馴れしく話しかけてくる遊庵は、如何にも怪しい人物に見えたものだった。
「お前が遊庵様の…しかし、確か遊庵様の弟子は螢惑という名前と聞いたが…」
「うん。螢惑はゆんゆんが付けた徒名」
「そうか。お前のことは噂に聞いている。相当な使い手らしいな。俺は…」
「モ…じゃない、吹雪の弟子でしょ。俺も聞いたことあるよ」
つい先ほど、携帯電話で、ということは黙っておく。
「それで、遊庵様はこの札について、何と仰っておられた?」
「今、FAXしたとこだから、まだ何も。そしたらお前に会ったから、持ち主に訊いた方が早いかなって思ったんだけど、お前のじゃないんじゃね」
そうかと、辰伶は深く息を吐いた。その瞳には不安の影が揺れている。
「この札、俺の部屋にあったんじゃない? そうでしょ」
「……」
「でも、あの部屋を使ってたお前が忘れていったわけじゃないみたいだね。勿論、俺のでもないし」
「……」
「コレって、俺かお前か…どっちを狙ったものだと思う? 辰伶は、どうやってコレを見つけたの?」
辰伶は躊躇いがちに、何度も口を開きかけてはきつく噛み締めた。言おうか言うまいか、逡巡する姿には苦悩の影が寄り添う。辰伶は渡り廊下の柱に背を預けて、改築中の離れ屋の西側を遥かに眺めた。
「父上が亡くなられた時のことは聞いたか?」
「ううん」
そういえば、父親の死因が何だったかなど、ほたるは何も聞いていなかった。自分と母を捨てた男になど何も関心がなかったので、特に知りたいとも思っていなかった。
「何? 妖魔にでも食べられちゃった?」
「呪殺された」
辰伶は改築中の離れ屋の西側を指した。
「あそこだ。あそこで父上は殺された。俺はその時その場に居ながら…守りきれなかった」
抑揚少なく坦々として語る辰伶だったが、その瞳には悔しさや悲しみが綯い交ぜになった痛みが溢れていた。