08.刺客 (2)
(過去の話)
「父上と同時に俺も狙われた。俺は何とか術を破ったが、父上の方まで手が廻らなかった。…或いは、それを見越してのことだったのか…」
ほたるは気になっていたことを1つ思い出した。
「そういえばお前、今日退院したって言ってたよね。何か前にも学校休んでたそうだけど、どっか悪いの?」
「いや…昔のことと、今回の入院は別だ。以前のことは俺が小学生の頃のことだから詳しくは知らんが、体内に生まれつき腫瘍か何かがあったらしくて、それを摘出したらしい。手術は無事に成功したのだが、その後の回復に時間がかかってしまってな。その間、自宅で療養していた。…治りが遅かったのには、妖魔が関係していたらしい。その頃から吹雪様について妖魔退治を行っていたから、どこかで恨みを買っていた可能性はある。俺が完全に回復するまで、吹雪様がこの離れ屋に結界を張って下さっていた」
吹雪の名を口にしたとき、辰伶の瞳が少し和らいだ。そこに師に対する辰伶の信頼と思慕が顕れていた。ふと、ほたるは自分が遊庵のことを語るときにこんな顔が出来るだろうかと思った。…思って、それはキモイと思った。自分らはそういうキャラじゃない。
「で、今回の入院は?」
「解かるだろう。父上を守るのに失敗して、その上で負った怪我だ。不名誉極まりない負傷だ」
「どんな怪我だったかしらないけど、お前、ちゃんと許可貰って退院してきた?」
「……」
使用人が辰伶の退院のことを全く知らなかったから、そうではないかと思ったのだが、やはり勝手に抜け出して来たのだ。
「お前が病院を抜け出してきたのは、俺がこの家に来たから? お前、俺に出て行けって言ったね。父親の愛人の息子と暮らせないってのが理由なら、ま、しょうがないし別にいいんだけど、何か違うみたいだね。それで気になるのがこの札なんだけど、結局コレは何なんだろう」
「それは…」
不意に言葉を切り、辰伶は弾かれたように母屋の方を振り返った。ほぼ同時にほたるもそちらを見る。渡り廊下の先の、黄昏の薄闇の中に、辰伶の母が音もなく佇んでいた。
「兄弟の挨拶はもう済んだのかしら」
女は何も知らない少女のように微笑む。対して辰伶のこの緊張感は何だろう。
「母上…」
「ようこそ、ほたるさん。来て頂けて嬉しいわ」
「母上、何故ほたるをこの家に招いたのですか」
「何か不自由なことがありましたら、遠慮なく言って下さいね」
「母上っ」
「ほたるさんは、目があの人に似てますわ」
「母上…」
「貴方のことは、実の息子のように愛せるよう努力しますわ」
少女のように、聖母のように。辰伶の母親は、露骨に辰伶を無視して、ほたるだけに話しかけてきた。辰伶は言葉を失い、庭の池へと視線を逃した。
「せっかくだけど」
ほたるは無愛想に言った。
「今のあんたのこいつに対する態度が実の息子への愛情って言うんなら、俺、そんなもの要らないから」
ほたるの痛烈な嫌味にも、依然として女は微笑を保ったままだ。まるで微笑の表情を刻まれた仮面をつけているかのようだ。彼女が心から笑っているわけではない証拠だ。
「それより俺も聞きたい。何で俺を呼んだの」
「そんなことより、もっと知りたいことがあるでしょう、ほたるさん。だから私の招きに応じたのでしょう?」
「……」
「貴方のお母様を殺した犯人を知りたいのでしょう?」
辰伶は驚き、母とほたるとを交互に見た。
「殺された…って…」
「俺の母さんは心臓発作で死んだ。でも、母さんは心臓なんか悪くなかった。母さんが死ぬほんのちょっと前に健診があって、母さんは全然異常なしだったって、それどころか自分の年齢にしちゃすごく検査結果の値が良いって、すごく喜んで俺に自慢してたんだよ。もちろん、それでも運が悪いときは死ぬこともあるだろうけど、でもね…」
ほたるは悔しそうに奥歯を噛み締めた。
「医者の人は単なる心臓発作としか思わなかったみたいだけど…一般の人にはそう見えたかもしれないけど、俺には解かった。あれは呪い殺されたんだ。誰かの術で」
「本当にお気の毒ね。誰の仕業かしら」
吃っと、ほたるは女を睨みつけた。
「誰がやったのかなんて、俺には判らなかった。でも、そんな時に現れたあんたは凄く怪しいと思わない?」
「貴方のお母様を殺したのは私ではありません」
「少なくとも、知っているんでしょう」
「ええ。貴方のお母様を殺した者は、貴方の目の前にいますよ」
ほたるの目の前。ほたるの他にこの場に居るのは彼女と、それから…
「…まさか」
小さく呟いたのは辰伶だ。その顔は驚愕に大きく目を見開き、頬は蒼褪めている。
「貴方には判ったようね、辰伶。そう、貴方がほたるさんのお母様を殺したのよ」
辰伶はよろめいて背後の柱に凭れた。
「どういうこと?」
ほたるには判らない。この2人は何を知っているのだろう。辰伶が震える声で語った。
「何者かに術を仕掛けられた時、父は助けられなかったが、俺自身に掛けられた術は破ることができた。通常、術は破られれば、それをかけた術者に返る…」
「ちょっと待って。それって、まるで俺の母さんが辰伶たちに呪術をしかけてたみたいじゃない。俺の母さんは普通の人だよ。人を呪い殺すような力なんか持ってない。持ってても、きっと母さんはやらない」
「そうなんだろうな。おまえの母上殿を術者と疑っているわけじゃない。そう、通常なら術者に返るんだ。だが、強力で高等な術者は術が返ることに対策をしておくものだ。大抵は、返ってきた術を身代わりに受ける人形や弱い小動物を用意しておく。だが、この術者は…」
「俺の母さんを……身代わりにしたってこと?」
辰伶は頷き、そのまま深く項垂れた。
「父上と俺に術を仕掛けたのは母上だったんですね。薄々、そう思っていました。でも、母上、俺には解かりません。母上は…貴方は何者ですか? 俺の母もこんな力など持っていなかった。貴方はいつから俺の母に成り済ましているんですか?」
女は微笑んだ。少女のように、聖母のように、魔女のように。
「成り済ましではないわ。この身体も、顔も、魂も本物。ただ、意識のほんの少しを妖魔に分け与えただけ。妖魔は私と共にこの身の内にいるわ。そして無力な私に力を与えてくれる」
「母上、貴方は妖魔に…」
「乗っ取られたのではないわ。私は私のやりたかったことをしているの。夫も夫の愛人も、消えてしまえばいいと思ったわ。どちらも私の望みよ」
「じゃあ…」
黙って傍から見ていたほたるが口を挟んだ。
「辰伶を巻き込んだのは? 辰伶が父親を助けようとして怪我を負ったのも、あんたの望みだったの? 辰伶が術を破ることが出来なくて、俺の母さんに術が返らない可能性だってあったんじゃない? 自分の実の息子が死んでも良かったの?」
「…私が欲しかったわけじゃないわ。義務だから生んだだけよ」
ほたるは驚き、そっと辰伶の様子を窺った。辰伶は依然蒼褪めていたが、今の言葉には特にショックを受けなかったようだ。きっともう昔から知っていて、彼女に母親的なものを何も期待していないのだ。それでも、本人の口から直接聴いて、心が全く傷つかなかったはずはない。ほたるは辰伶の気持ちを思い、胸が痛くなった。
「あの人を愛してはいないけれど、あの人が外に愛人をつくったことは許せなかったわ。そうでしょう? 私は自分の夢も未来も奪われてこの家に嫁いで、そしてこの家に跡継ぎを提供するという義務を立派に果たしたわ。それなのに、自分はちゃっかり愛する女と理想の家庭を外に作ろうなんて。自分だけ幸せになろうなんて、許せるものですか」
『提供』、そして『義務』。冷たく無機質な単語を淀みなく紡ぎ出す口を、ただ静かに見詰めていた辰伶は、徐に言った。
「母上が俺のことなど何とも思っていないことは、知っていました。最初から貴方はそうだった。俺は貴方に微笑みかけられたことはないし、触れられたこともない。母上が父上を好いていなかったことも知っています。父上に愛人があることを軽蔑していたことも知っています。だから、ほたるを家に招くという貴方を不審に思い、ほたるが入居するはずの部屋を検めました」
辰伶は声を厳しくして、ほたるの手にある1枚の札を指した。
「これは何ですか?父上を殺して、その愛人を殺して、これ以上、何を企んでいるのですか? 何をしようというのですか?」
「私の身の内の妖魔が望んだの」
妖魔を身の内に宿した女は、ほたるを見た。辰伶は直感的に気づいた。
「ほたる! 札をっ」
言うが早いか、辰伶はほたるの手から札を毟り取るようにして奪った。その瞬間、女から凄まじい妖気が奔った。
「……っ!」
「辰伶っ!?」
声もなく辰伶が崩れ落ちた。背中を丸め、左手を抱きしめるようにして床に倒れている。その顔は苦痛に歪み、呼吸は激しく乱れている。
「あら、いやだ。でも、貴方でも構わないって、妖魔が言ってるわ」
果たして母の声が辰伶には聞こえていただろうか。額に脂汗が滲み、苦痛の激しさを物語っている。いつの間に現れたのか、辰伶の愛猫のアンバーが主人を気遣うように寄り添い、彼の左手を舐めていた。…後になってほたるは理解したのだが、この時のこのアンバーの行為のお陰で、辰伶は命を取り留めたのである。
「…辰伶に何したの?」
女は答えない。ただ、妖しく微笑むだけだ。
「ねえ、あんたは妖魔に意識を少しあげただけって言ったけど、普通の人の身体で妖魔なんか宿したら、もたないよ。命を失うことになるってこと、判ってるの?」
そんなことは先刻承知なのだろう。ほたるの言葉を聞いても、女は微塵も動揺する様子が無い。
「だって、要らないんですもの。私は何も要らない。家も、財産も、夫も、息子も、身体も、命も……心も。私には要らないものばかり」
「そう。じゃあ、あんたの望み通り、この世から消してあげる」
ほたるは炎を召喚した。日暮れて闇が支配し始めた景色を、朱色の輝きが照らし出す。炎は逆巻き、ほたるの怒りを具現化する。冷たく光る琥珀の瞳の奥に隠して、ほたるは烈火のごとく怒っていた。女を一瞬で灰にすべく、灼熱の炎を身に纏う。それを静止する声があった。
「ほたる…待ってくれ…」
苦しい息の下から、辰伶がほたるに訴えている。
「ほたる……頼む…から……」
「悪いけど、辰伶、それは聞けない」
「…無理は……承知だ。……でも……それでも……」
それでも、母親だから。たったそれだけの理由で、辰伶は自分を苦しめている女の命乞いをする。その姿は哀れさを通り越して、ほたるの怒りの炎に油を注いだ。ほたるは女に向かって言い放った。
「あんたは自己チューなんだよ。傲慢なんだよ。あんたには不必要でも、他人には必要なんだよ。俺の命も、母さんの命も、それから辰伶の命も、俺が要るんだよ。あんたが要らないって言ったあんた自身の命だって、辰伶は要るって言ってる。何でもかんでも、自分を基準にして価値判断しないで欲しいよ」
母の仇であるとか、自分を庇って倒れた異母兄の為とか、そういうことが核になっていたのも確かだが、ほたるの怒りはそれを超えていた。
「俺は赦さない。辰伶には悪いけど、俺は赦さないから。後で辰伶に恨まれたって、俺はあんたを消す」
炎が咬みつくように女へと奔った。それが標的に喰らいつく寸前で、炎は弾かれるようにして四散し、消えた。
「お止めなさい。螢惑」
女の背後から、黒い服に身を包んだ漢が影のように姿を現した。
「お前、誰? 邪魔するならお前も燃やすけど」
「ひしぎ様…」
突然現れた漢の名を呼んだのは辰伶だ。その名はほたるにも覚えがあった。確かひしぎも太四老の1人だ。
「もう必要ないですよ。よく御覧なさい」
女の瞳から光が消えうせ、その場に崩れ落ちた。女は事切れていた。彼女の身の内に巣くっていた妖魔も、気配が消えうせていた。
「…母上」
苦痛に耐えながら、辰伶は床を這いずって母の元へ行った。やっとの思いでその手を取ると、それはとっくに冷たかった。いつから死んでいたのかさえ解からなかった。
失意からか、辰伶の力が尽きた。それを力強い腕が受け止める。辰伶の霞む視界に、彼には見慣れた人の姿が映った。
「吹雪様…」
辰伶がこの世で一番敬愛して止まない師の姿が、そこにはあった。
「吹雪様……吹雪様……」
譫言のように、師の名を繰り返し呼ぶ。吹雪はその手を辰伶の瞼の上に置いた。辰伶の四肢から力が抜けて、まるで眠るように意識を失った。まだ顔色は悪かったが、呼吸は楽になっていた。
途中からすべてを一歩退いたところから見ていたほたるは、事態が収拾されたことを悟り、ひしぎに話しかけた。
「すごいタイミングだったけど、あんたたち何しに来たの? モ…吹雪はともかく、なんで太四老のうちの2人までもここにいるの?」
太四老に対してこのようなぞんざいな口を利く漢は珍しい。ひしぎはちらりとほたるを見遣った。
「これに見覚えありませんか?」
ひしぎはほたるに一枚の紙切れを見せた。
「あ、コレ、俺がゆんゆんに送ったFAXだ。何であんたが持ってんの?」
「なるほど。遊庵宛てだったんですか。私の執務室に入ってきたんですが、遊庵と番号が1番違いですからね」
どうやらほたるはFAXを送信するときに、番号を間違えたようだ。遊庵へ送るはずが、彼の同僚のひしぎのところへ誤って送ってしまったのだ。
「用件も無ければ送信者の名前も無い。一体どこの粗忽者がこんなものを送ってきたのかと発信元を見てみれば、吹雪の弟子の自宅から発信されているじゃないですか。辰伶のことは私もよく知っていますが、彼は礼儀正しい人ですから、どんな急用だとしてもこんな送り方はしません。送られてきたのも怪しげな札ですし。不審に思い吹雪と共に来てみたのですが、納得しました。遊庵の弟子ならしょうがないですね」
「それって、俺がバカにされてんの? ゆんゆんがバカにされてんの?」
「バカになんてしてませんよ。感心したんです。吹雪と辰伶。遊庵と貴方。世の中は巧くできてますね」
「やっぱりバカにされてるような気がする…」
何故ここに遊庵は居ないのだろう。辰伶を労わる吹雪の背中を見ながら、ほたるはそんなことを思った。遊庵が懐かしくなるなんて、そんな気持ちになったのは初めてのことだった。
辰伶は入院していた病院へ逆戻りとなった。もともと医師の許可無く抜け出してきたのだから当然の処置だが、今回の件で辰伶の身体は酷く衰弱していた。退院許可が下りるまで2週間を要した。辰伶は大人しく治療を受けて、今度は正式に退院した。
辰伶の母親の死体は冷凍保存され、辰伶の退院を待って葬儀が執り行われた。もともといつから死んでいたのか解からないので、葬儀が遅れることについて誰も何も意見しなかった。それよりも、息子である辰伶に見送らせてやりたいと、誰もが心から思ったのだ。
件の札については、ひしぎが説明をしてくれた。この札に術を送ると、その時に札を手にしていた者に妖魔の幼生が寄生する。この妖魔の幼生は宿主の体内で成長し、成体となると宿主の心臓を食い破って出てくるという性質があることが解かった。
さらにこの妖魔は壬生一族が持つ妖魔退治の力そのものを餌とする。成体となるのに要する時間は、宿主の能力の大きさにもよるが、おそらく10分もあれば成体へと成長するのではないかというのがひしぎの見解だ。
辰伶が助かったのは、妖魔の幼生に寄生された時、餌となる辰伶の能力を、飼猫である半妖獣のアンバーが必死になって喰らっていたからである。そして師である吹雪によって辰伶の能力は一時的に封じられ、幼生は成長を止めたのだ。
妖魔の幼生は赤い痣となって、辰伶の左手に残った。痣(妖魔の幼生)の性質のことをひしぎから説明を受けて、辰伶は自ら能力を一切封印した。それは壬生一族としての将来を断念するということだったが、辰伶は痛ましいくらいの冷静さで受け入れた。
それでもその妖魔の幼生は僅かずつ成長していく。辰伶は月に一度、吹雪の元へ通って、幼生の成長を止める処置を施されねばならなかった。これは太四老クラスの者にしか出来ぬ業で、下手な者が迂闊に術を施せば、返って幼生の成長を促進してしまうのだ。
ようやく春らしくなり、離れ屋の改築工事も完了した。新しくなった一番西の部屋の窓から、ほたると辰伶は外を眺めていた。辰伶の膝では飼猫のアンバーが春の陽気の魔術に捕らえられてうたた寝している。窓の外を指して、辰伶が言った。
「以前は、そこに温室があったんだ。ここを破壊してしまった時に、一緒に吹き飛んでしまったが…」
どういう経緯でこの離れ屋の西側を破壊してしまったかは、辰伶は言わない。ほたるも聞かない。
「母の温室だったんだ。花が好きな母の為に、父が作らせた。母はもの静かで内向的な性格だった。凡そ他人に口答えなど全く出来ないような、少し気の弱いところのある人で、周りの全てに心を閉ざしていたけれど、あの温室の中にいる時だけは幸せそうに微笑んでいた。この家に存在するものの中で、唯一温室の花だけは母も愛していた。そんな母を、父はこの部屋から見ていた」
そして辰伶は、そんな父と母を遠くから見詰めていた。
「父と母はいわゆる政略結婚だったが、…お前の母上殿には申し訳ないが…、父は、母のことを愛していたのだと思う」
ほたるは頷いた。ほたるもそう思ったからだ。ほたるは自分の母が、ほたるの父親である男に愛されていたとは、どうしても思えないのだ。
「この家に嫁いでくる時、母には他に好きな相手がいたらしい」
だから彼女は辰伶の父親を憎んだ。この家を憎んだ。自分が産んだ息子を愛さなかった。そして多分、辰伶の父親にとってほたるの母親は、得られぬ愛の慰めだったのだろうと、ほたるは推測した。揃いも揃って、バカみたいだと思った。
「俺が産まれた時、俺は産婦人科の看護婦の手から保育器に入れられ、そこから乳母の手に渡された。母が俺に触れたことが1度もないというのは嘘じゃない」
遺体になって初めて触れた。冷たくて、硬くて、どこかよそよそしい感触だった。それが辰伶の知る唯一の母親の手の感触だ。
「言っておくが、だからと言って俺が人の温もりや愛情を知らぬというわけではないからな。母の代わりに、乳母から十分に愛情を注いでもらった。だから別に僻んではいないし、自分を不幸だとも思っていない」
それが辰伶の本心なのか、強がりなのか、ほたるには判らない。恐らく辰伶自身にも判らないだろう。判る必要もない。
「こんなこと、お前は信じないかもしれないが、俺はいつも母を幸せにしたいと思っていた。愛されなくてもいいから、母上を幸せにしてあげたかった…」
辰伶は愛しげに愛猫の背を撫でた。ほたるは窓の外を眺めた。沈丁花の香りを風が運ぶ。
「春だね」
「ああ。随分、暖かくなった」
春だね。心の中でもう一度、ほたるは繰り返した。
おわり
…長かった。長すぎて、自分でも何を書いているのか解からなくなりそうでした。これで基礎となる設定が(多分)出揃いましたので、次あたりからようやくストーリーを進めることができます。でも、ちょっと小休止を入れたいかも。
(05/10/4)