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いつか光になる為に

-8-


 吹雪はずっと辰伶を見てきた。彼がまだ年端もいかぬ幼い時分から、今日まで。彼のことは、恐らく彼の実の両親よりも理解しているだろう。それ程までに辰伶を見続け、辰伶という人間を知っていた。

 彼はどんなに厳しい修行にも泣き言を言わなかった。冷え切った両親の間で傷つき、心を乱したこともあったが、それでも涙をこぼしはしなかった。辰伶は人前で泣いたことなど1度も無かったのだ。

「辰伶、何があった」

 その辰伶が、受話器の向こうで涙を流し、声を殺すようにして泣いている。只事ではない。急きたてず、辰伶の言葉を待った。

『……死にたく…ないです……』

 小さく掠れた声だった。

『…もっと…生きたい……ずっと……ほたるのそばに……居たいです…』

 涙に詰まった声が、受話器から途切れ途切れに流れてくる。

『…吹雪様…私は…』
「生きたいか」
『…生きたい…です…』

 辰伶の切なる想いに、吹雪の魂は激しく揺さぶられた。

「生きたいのなら、何とかしてやる」
『……ふぶき…さま…』
「必ず、俺が何とかしてやる。必ずだ」

 吹雪の言葉を聴いて、辰伶は幾らか落ち着いたようだった。深夜の非礼を詫び、静かに電話は切られた。

 その夜は、吹雪は眠ることができなかった。


 その週末、辰伶が吹雪を訪ねてきた。憑き物でも落ちたかのような、すっきりとした顔をしていた。

「先日は取り乱しまして、深夜にご無礼致しました」

 すっかり普段の彼に戻っていた。否、以前よりも穏やかに落ち着いて、瞳は清々しく澄んでいた。

 暑い日だった。風通しの良い縁端に並んで腰掛け、シャワーのように降り注ぐ蝉の声に耳を洗われた。

 辰伶は仔猫を連れてきていた。黒い毛皮に金の瞳。それを愛おしそうに抱きかかえて、幸福に満ちた声で言った。

「ほたるがくれたのです。この猫を私に」

 少し前に辰伶は長年飼っていた愛猫を亡くした。それですっかり気力を無くしていたのを、異母弟のほたるが見兼ねて、この猫を拾ってきてくれたのだという。

 勿論、吹雪の眼はごまかせない。吹雪はその猫に見覚えがあった。正確にはその猫の魂に。外見は何の変哲も無い小さな仔猫だが、中身は辰伶が長年飼っていた半妖魔の猫だ。恐らくはほたるは承知だろう。気づかぬは飼い主の辰伶のみ。

 吹雪の鋭い視線に晒されても、半妖魔は普通の可愛らしい仔猫を演じ続けていた。相変わらず惚けるのが上手い。だが、辰伶に対して害意があるわけではないので、吹雪もそ知らぬふりをした。

「吹雪様、謎が1つ解けましたよ」
「謎とは?」
「謎という程、大したことではないのですが……ああ、やっぱり『謎』と言っては語弊があるかもしれません。これまで気にも留めていませんでしたので。昔、私が入院生活を送っていた時のことですが…そういえば、私は何度も入院していましたね。初めて入院した時のことです。父が私に誕生日のプレゼントを下さったのですが…」

 何か良いことでもあったのだろうか。辰伶は普段になく陽気で多弁だった。無理にはしゃいでいるのでもないらしい。屈託の無い子供のように明るく朗らかだ。あの深夜の電話がまるで嘘のようだ。

「私の誕生日は2月14日なのですが、父は1日間違えて覚えていました。何故だと思います?実は、弟のほたるの誕生日が8月13日だったのです。14日と13日。きっと混ざってしまったのでしょうね」

 誕生日を他人の、しかも異母兄弟のものと間違えられて、それを嬉々として語る辰伶の心情が、吹雪には理解できなかった。率直に辰伶に尋ねてみた。

「間違えられたことに憤りはないのか。俺にはお前が謎だ」

 辰伶は悪戯っぽく笑った。

「私が謎ですか。では、ヒントです。私はこの時を除いて、誕生日を間違えられたことはありません。毎年きちんと当日に父からのプレゼントが届いていました」
「ますます解らんな」
「ヒント2です。プレゼントを父から手渡しされたのも、この時だけです。いつもは私の乳母だった女性の仲介でした」
「…そうか。いつもプレゼントを用意していたのは、乳母殿だったわけか」
「そうです。乳母が私の為に、父からと偽って用意していたのです。ですが、私が入院したこの時だけは、本当に父が用意して、父自身が渡したものだから、間違ってしまったのですよ」

 吹雪は思い出した。辰伶はあの時、父親が誕生日プレゼントをくれるなんて驚いたと言った。それまでのプレゼントが、心優しい乳母の嘘によるものだと知っていたのだろう。誕生日を間違えたことは、贈り主が間違いなく父親であるという証明であり、それ故に辰伶は嬉しかったのだ。

「すぐに解りました。今までの頂いた品物と傾向が全然違っていましたから。父はこういうことが苦手なのです。それまで父は完璧な人間で間違うことなど無いと思っていましたから、こんな他愛の無い失敗をするなんて、おかしくて、おかしくて…」
「しかしその間違いが、父親の隠し子の誕生日に由来するというのは、面白くないとは思わないのか?」
「父が、ほたるのことを少しは気にかけていたということです。それが嬉しいのです。これで私は、父に対する蟠りを捨てることができると思います」

 いつの間にか語りが少し熱っぽくなっていたことに気づき、辰伶は照れくさそうに視線を膝に落とした。仔猫が甘えるように鳴いた。

「こんな気持ちになれたのは、全てほたるのお陰です」

 辰伶は手の中の仔猫を、宝物のように大切に撫でた。

「ほたるから仔猫を手渡されて、私は思い出しました。あの時、ほたるは私のことを『要る』と言ってくれたのです」

 辰伶の言う「あの時」とは、辰伶の左手に妖魔の幼生を植えつけられた時のことだ。辰伶の母親は妖魔に魂を売り渡し、夫と夫の愛人を呪い殺し、その子供であるほたるを害そうとした。辰伶が全てを失うこととなった忌まわしい事件だ。

「私は母に対する父の裏切りが赦せませんでした。父の相手の女性のことも憎みましたし、その子供にも敵意を抱きました。それは、ほたるにしても同じことでしょう。同じはずなのに…」

 青い空に白く聳える入道雲。見上げた辰伶は眩しそうに眼を細めた。

「私のことなど必要ないと言った母に、ほたるは言ってくれました。私の母が私を必要としていなくても、ほたるは私の命を必要としていると。多分、状況の勢いで言ったのだろうと思います。それにしても、私はほたるの母を死なせてしまった身です。そんな私を「要る」と断言してくれたほたるは、心が広いとか、優しいとか、そんな言葉では言い尽くせません。私は、私を「要る」と言ってくれたほたるを、幸せにしたい」

 辰伶は吹雪に向き直り、迸る感情のままに言った。

「そう思ったら、死ぬのが恐くなりました。もっと生きたい。ずっと生きて、ほたるの傍にいたい」

 人を幸せにすることでしか心が満たされない辰伶が、やっとその対象を手に入れたのだ。死の運命を見据えながら、その魂は生命力に輝いていた。

「それが叶わないなら、残された時間は全て、ほたるの幸せに捧げます」
「それがお前の真の望みなのだな」
「はい」

 どこまでも光を求めて、真っ直ぐに伸びることをやめない。若木のようにしなやかな精神を、この弟子は持って生まれた。いつかその梢で眩い日差しを受け止め、煌く光を遥かな空へ返すことを夢見ている。そんな姿勢が、吹雪には光そのものに見えた。

 最高にして最後の弟子。吹雪は辰伶をそう定めた。


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