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いつか光になる為に

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 流麗に文字を綴っていた万年筆のペン先が、不意に動きを止めた。吹雪の厳しい眼がこれまでの軌跡を数度辿り直す。不機嫌そうに眉を顰め、苛立たしげに原稿用紙を破り捨てた。新たな用紙の升目を最初から埋めていくが、数行書いたところで溜息をつき、吹雪は筆を置いた。

 毎月依頼されている舞踊の機関誌への原稿を執筆しているのだが、今日は文章が上手く纏まらない。朝から何時間も机に向かっているが、徒に原稿用紙を燃えるごみに変えただけだ。

 これ以上続けても益はないと見切りをつけたところへ、部屋の扉がノックされた。

「入りますよ」

 声に続いて入室してきたのはひしぎだった。

「お忙しいですか?」
「いや、今日はもうやめだ」

 吹雪は机の上を片付けにかかった。ひしぎは書きかけの原稿用紙を一瞥して言った。

「内職は感心しませんね」
「これは内職ではない。家業だ」
「喩えですよ。学生が授業中にこっそりと他教科の宿題をすることを『内職』と言いませんでしたか?」
「宿題は家でやるものだろう」
「だから…ああ、もう、噛み合いませんね。だから、喩えですよ。壬生の執務室で、壬生とは関係ない私的な仕事をするのは感心しないと言っているんです」

 これには何も言い返せなかった。吹雪も最初は自宅で執筆していたのだが、全く捗らなかった為、気分転換に場所を変えてみたのだ。何処か静かで集中できる場所は無いかと探して辿り着いたのが、壬生の己の執務室だった。

 結果として、これは全く無駄だった。場所や環境が吹雪の作業を妨害している訳ではないのだから。数日前から吹雪には1つ腑に落ちないことがあり、独りになるとそれについて深く考え込んでしまうのだ。

「ところで、俺に何か用でもあったのか」
「無理矢理に話を変えましたね。まあ、いいですけれど。これを見て下さい」

 ひしぎは1枚の紙を吹雪に差し出した。古代の漢字のような複雑な文字で書かれた札が、紙面の真ん中辺りに歪んで印刷されていた。

「一見して呪符だが、これがどうした」
「私の執務室のファックスに送信されてきたのですよ。貴方に見て頂きたいのは、送信元です」
「送信元?」

 ひしぎが指し示す先に注視する。その両の眼が僅かに瞠目したのを、ひしぎは見逃さなかった。

「やはりそうですか」

 ファックスには差出人の署名は無かったが、ヘッダー部の情報から、それが吹雪の弟子の辰伶の家から発信されたものであることが解かった。

「…何をした」
「え?」

 突然、吹雪はひしぎの胸倉を掴み上げた。

「ひしぎ、貴様、辰伶に何をしたんだ!」
「…あの、ですから……吹雪…?」
「あの辰伶がだぞ!?素直で純粋で心正しい辰伶が、相手を呪詛せずにいられなくなるほど恨むなんて。貴様、こんなものを送られるような、どんな非道なことを、俺の大事な弟子にしでかしたんだ!」
「随分な言われようですが、彼とは貴方を介して以外に接点がありませんから、個人的に会う理由も用事もありませんよ。(辰伶に関しては)私は潔白です。(他の件なら心当たりが無いでもないですが)
「……」

 吹雪はひしぎを解放した。ひしぎは溜息をつきながら、乱れてしまった襟を直した。

「辰伶に関する限りは、俺の誤解のようだから謝る。疑って悪かった」
「解かって頂ければ結構です。落ち着いて下さい。送信元が辰伶の家だからといって、これを送信したのが彼と特定されたわけではないでしょう」

 言われてみれば、その通りだ。吹雪は自分の短絡的思考を恥じた。辰伶は妖魔の襲撃による怪我の為に入院しており、自宅には居ない筈だった。

 過去にも辰伶は妖魔に害されたことがあったので、吹雪は辰伶が起居する離れに結界を張っておいたのだが、この襲撃事件はまさにその離れで起こった出来事だった。離れの建物の西側半分と、隣接していた温室が炎上し焼け落ちた。同時に結界も消えた。

 断じて自惚れで言うのではないのだが、吹雪は己の結界が破られたことが腑に落ちなかった。どんな強力な妖魔も、その結界に侵入するのは不可能だ。

 ただし、その結界は飽くまで妖魔の侵入を阻むものであって、人間には何の効力も無い。そして、外からの攻撃には幾らでも耐えうるが、内側からはさほどでもない。それらを考え合わせると、1つの疑念が湧き上がって来る。妖魔の手引きをした者が存在する可能性だ。

「辰伶の周囲は不穏だな。念のために確認してみるか」

 吹雪は辰伶の入院先に連絡をとった。辰伶の様子を尋ねると、長く保留音を聞かされた後に、看護士だか事務員だかが困惑した声で彼の不在を告げた。無断で病室を抜け出してしまったらしい。

 酷く厭な予感がする。吹雪は席を立つと、壁に掛けてあった外套を外し、小脇に抱えた。

「辰伶の家に行くのですか?」

 無言で部屋を出て行こうとする吹雪に、ひしぎは訊ねた。

「お供いたしますよ」

 親友の声は心強かった。2つの長身が肩を並べ、間に会話は無く先を急いだ。

 そして、吹雪は愛弟子の命を失わずに済んだ。しかし、一足遅かったのである。

 辰伶は母親を亡くし、その左手の甲には血のごとき赤い痣が刻まれた。辰伶の人生を紡いできた糸車は壊れ、狂った歯車が別の運命を回し始めた。

 誰にも知られず、静かに、ゆっくりと。


 逆戻りとなった病院で、辰伶はおとなしく治療を受けていた。医師に従順というよりは、むしろ全くの無気力で、物事への興味や関心、意欲を無くしているようだった。2週間もして、傷の癒えた辰伶は退院したが、それで終わった訳ではなかった。

 辰伶の手の痣は妖魔の幼生だった。壬生一族が持つ妖魔を退治する力を喰らって成長するそれは、やがて宿主の心臓を食い破って成体となる。除去する方法は無く、その成長を阻止する為には、辰伶の力を封印せざるを得なかった。

 封印は吹雪が行った。最も将来を嘱望した愛弟子の才能を、自らの手で摘み取らねばならぬ日がこようとは。惜しんでも惜しみ尽くせない。悔やんでも悔やみきれない。吹雪は己の力の無さを呪い、憎み、罵倒した。

 運命は容赦なく非情だった。一週間も待たずそれは明らかとなった。養分となるべき辰伶の力を封じられて、妖魔の幼生は成長を止めたが、代わりに辰伶の生命力を喰らい出した。このままでは肉体が衰弱し、やがては死に至るだろうと、ひしぎは一切の感情を交えずに己の見解を吹雪に伝えた。

 吹雪は方針を変えることにした。妖魔の幼生が辰伶の生命力を喰らい出さないギリギリで、最も遅く成長させる。辰伶が最も長く生きられる方法を探した。いずれにしても、その先に見えるのは死の一文字。悪足掻きでしかないかもしれないが、それでも吹雪は精一杯運命に抗することを選んだ。

 そんな周囲の様子を、辰伶の眼は静かに見ていた。ある日、吹雪を前にして居住まいを正し、辰伶は言った。

「以前、吹雪様より賜りました舞を、謹んでお返し致します。どうか、より相応しき舞手によって、末永く演じられますよう」

 辰伶は手の痣を理由に、もう人前では舞えぬからと、彼の半身ともいうべき舞を、吹雪に返却した。だが、それは真の理由では無いだろう。妖魔退治の力を失ったことで、もう人々の倖せの為に尽くせぬと、辰伶は思ったのだろう。

「それから、私を延命させる施術はお止め下さい。この身の内の妖魔がどの程度のものか解かりませんが、世に放てば人々に害をなすでしょう」

 生命力は、幾ら喰らおうとも妖魔の幼生を成長させる糧とはならない。成体になれない幼生は、自らが衰弱死させた宿主の中で絶命するだろう。辰伶は己の肉体と共に妖魔を滅ぼすことを、吹雪に申し出たのだ。

「人々の倖せの為に、この私に最後のご奉仕をさせて頂きとうございます」

 梅雨が終わり、これから夏へと太陽の輝きが激しさを増していく頃だった。

「それがお前の望みなのか」
「はい」

 これが望み?こんな望みがあるものか。絶望というのだ。辰伶は最早人生に何も期待していない。吹雪が人々の倖せの為に創作した舞は、無二の舞手を得たというのに、その舞手すら幸せにできなかった。まるで道化だ。

「本人が望まぬ延命はすまい。お前の意思を尊重する。しかし舞は、返却の必要はない。要らぬなら捨てろ」
「吹雪様、そんな…」
「返すくらいなら、打ち捨てよ。その程度の価値しかない舞だ」

 辰伶は激しく頭を振り、吹雪の言葉を否定した。

「そんなことはありません。吹雪様の魂の入った素晴らしい舞です。だからこそ、埋もれさせたくはないのです」
「ならばお前が舞え。言った筈だ。お前だけだと」

 情けをかけたのではない。舞に込められた吹雪の想いを、辰伶以上に誰が理解するだろう。辰伶以外に誰が表現し得るだろう。その言葉は創作者としての傲慢さだった。

 辰伶は茫然と吹雪を見上げていた。やがて深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 真実、吹雪が自分を弟子として認めてくれているということを、辰伶は理解した。それゆえの感謝の言葉だった。

「もう1つお願いがございます。私の異母弟のほたるのことです」

 明るい色の髪をした細身の少年のことを、吹雪は思い出した。遊庵の弟子。その名を螢惑という少年は、辰伶の異母弟であり、実の名はほたると言った。

「私の死後、遺産は全て彼に渡るようにしたいのです。彼が望むなら、この家屋敷も土地も処分して、お金に換えても構いません。私は長く父親を独占し、その上、彼の母親の命を奪ってしまいました。人の命はお金に換えられるものではありませんが、彼を不幸にしてしまったことへの、せめてもの償いにしたいのです。その時には吹雪様、どうかほたるの後見になってやって下さい」
「承知した」

 まだ十代半ばの若者が、己の死後のことを頼む。その痛ましさに辰伶は気づいていない。己の希望が容れられたことに安堵し、微笑みすら浮かべていた。心に痛みを感じていたのは吹雪だけだった。

 去り際に、辰伶の飼い猫を見かけた。半妖魔のこの猫は辰伶の力を餌としていた。辰伶の力が封印されてからも、ここに留まっていることに驚いたが、半ば予感していたことでもあった。

「…うちに来るか?」

 猫は一声鳴くと、まるで言葉を理解できない普通の猫のように、足早に立ち去ってしまった。それが彼の答えなのだろう。猫は己の信念を全うした。最期の最期まで、辰伶の傍を離れなかった。


 ある夜のことだった。余り常識的とはいえない時間に電話が鳴った。遅くまで書き物をしていた吹雪が受話器を取った。

『……』

 相手は無言だった。悪戯と判断し、電話を切ろうとしたが、不意に直感が鋭く働いた。

「辰伶か?」

 尚も暫く無言だったが、辛抱強く待っていると、押し殺すような嗚咽が微かに聞こえた。泣いて…いるのか?

『…吹雪様……』

 受話器越しに呼ぶ声は掠れて聞き取りにくく、涙に濡れていた。


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吹雪様が書き物にお使いになるのは高級な万年筆に違いない。
同じブランドの物を大学の入学祝いとかで辰伶に贈ったりするに違いない。
辰伶がそれをとても大切にしているので、ほたるはいつか折ってやると思っているに違いない。

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