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いつか光になる為に

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 猫がいる。庭に座り込み、その琥珀色の瞳は一点だけを視凝めて動かない。動こうとしない。ひたすらに、ひたむきに…

 池に架かる廊橋に吹雪が姿を現すと、猫は弾かれたように何処かへ隠れてしまった。それを横目に吹雪は廊橋を母屋から離れ屋へ渡った。

 あれはこの無明歳刑流本家の屋敷で昔から飼われている猫だ。それが普通の猫でないことを吹雪は知っている。半獣半妖。家人達は知らぬようだが、あれは立派に化け猫だ。太四老たる吹雪の力を警戒してか、不用意に姿を見せようとはしない。さしたる力は無いが、利口な半妖魔だ。

 その用心深い半妖魔の猫が、吹雪の接近を感知するのが遅れるほど熱心に視凝めていたのは、離れ屋の建物だった。ここには吹雪が強力な結界を張っており、どんな妖魔も決して入ることができない。半妖魔である猫も同様だ。

 離れ屋の廊下で、吹雪は辰伶と行き会った。吹雪を見るなり、辰伶の顔は親愛の笑みに輝いた。

「吹雪様、いらっしゃっていたのですか」
「お前の様子を見に来たのだよ」
「私の為にですか。わざわざありがとうございます。どうぞこちらへ」

 辰伶は吹雪を、応接間を兼ねたリビングへと案内した。

「どうだ。順調に快復しているか?」
「はい。吹雪様のお陰です。妖魔に狙われているなんて、全く実感がないのですが」

 手術後の辰伶の快復を妖魔が妨げているというのは確信ではなく、飽くまで推測でしかなかった。それでも吹雪は無明歳刑流本家に対する己の影響力と発言力を行使し、辰伶を退院させて自宅で療養させた。

 結果として、その判断は正しかった。辰伶の部屋を母屋から離れ屋に移し、結界を張って妖魔の来訪を遮断したところ、辰伶の体調は目に見えて良くなったのだ。

「私は一体どこで妖魔の恨みを買ってしまったのでしょう」
「近頃は俺の妖魔退治の助手として頻繁に同行させていたから、そのどれかの時かもしれぬな」

 辰伶は吹雪に応接のソファを勧めた。吹雪はゆったりと落ち着いた色調のソファで寛いだ。テーブルを挟んで真向かいに辰伶は座った。

「こうしていても全く普通で、何だかもうすっかり良くなった気がします」

 そう言って辰伶は、少し期待を込めた眼差しを吹雪に向けた。

「いつごろ私は……外に出られるのでしょうか」

 健康状態でいうなら、立ち歩くことに全く問題ないほどに、辰伶は回復していた。しかし吹雪は辰伶の外出を禁じ、行動範囲は結界が施されている離れ屋の内に止めさせていた。

「心急くのは解かるが、今しばらく辛抱しろ。用心に越したことはない」
「はい。吹雪様がそう仰るなら」

 師匠の言葉に全幅の信頼を置いて、辰伶は頷いた。しかし僅かに伏せた睫の先に、辰伶が隠し損ねた深い落胆が影を落とすのを、吹雪は見落としはしなかった。この子供が時折見せる諦観の瞳は、人形に嵌め込まれたガラス製のそれを思い起こさせる。己の望みが叶わない時は、心を納得させるのでなく、感情を切り離して置き去りにするのが、この子供の処理の仕方なのだろう。

「勉強…ますます遅れてしまいますね…」

 入院、そしてまだ暫くの療養で、恐らく進級は諦めざるを得ない。まるで自分独り取り残されていくようで、辰伶には辛いのだろう。

 沈みがちな気持ちを振り切るように、辰伶は唐突に言った。

「吹雪様はコーヒーはお好きですか?」
「嫌いではないな」
「実は最近、コーヒーを上手く淹れる練習をしているのです。コーヒーがお嫌いでないのでしたら、お召し上がり頂けませんか?まだまだ未熟で、偉そうなことは全く言えないのですが」
「コーヒーの味を批評する能力はないが、折角だから成果を見せてもらおうか」
「はい。心して淹れて参ります」

 数分後、2つのコーヒーカップが乗った盆を両手でしっかりと持って、慎重な足取りで辰伶はコーヒーを運んできた。子供の体躯に盆が不釣合いに大きく見えて、そのアンバランスさがハラハラと危なっかしいが、何だか微笑ましい。淹れたてのコーヒーの香気がたちまち部屋中に満ちた。

「お砂糖やミルクはいかが致しましょう」
「不要だ」

 吹雪の手が優雅に動いて、コーヒーカップを口元へと運んだ。良い香りだ。一口啜り、吹雪はコーヒー通ではないので良いとか悪いとか細かいことは全く解からなかったが、率直に美味いと思った。

「美味いな」
「ありがとうございます」

 辰伶は自分のカップに角砂糖を3つ入れた。3つは多くないかと見ていると、更に辰伶はミルクもたっぷり注いだ。それではコーヒー牛乳だろうと、吹雪は思った。まだ味覚が子供で、コーヒー独特の苦味が得意でないのかもしれない。どうして好きでもないコーヒーの勉強を始めたのだろうか。吹雪の疑問を察知したかのように、辰伶は言った。

「父はコーヒーが好きだったんですよ。ご存知でしたか?私は最近知ったのですが」

 辰伶の父親であるこの家の当主がコーヒー好きであることは、実は知人の間ではよく知られていることだった。無論、吹雪も知っていた。その息子である辰伶が最近まで知らなかったということに、吹雪は苦いものを感じ取り、黙ってコーヒーを啜った。

「父はよく、この離れ屋の1番西の部屋に居るのですが、そこからは母の温室がとてもよく見えるのです。その事に気付いたら、何だか父のことが少し解かったような気がして、とても嬉しくなってしまいました」

 父上はちゃんと母上が好きなんですね…そんなことを呟く辰伶は本当に嬉しそうに微笑んでいた。

「私がその部屋に入っても、父は特に何か話すということもないので、私も黙って父と一緒にコーヒーを飲むんです」
「…そうか」

 この子供はいつも一途で純粋だ。しかしそれはいつも空回りしてしまっているように見える。誰かがこの子供の気持ちを受け止めてやらねば、せっかくの良い芽が枯れてしまう。

 否、と吹雪は思った。吹雪が思う程に、この芽は弱々しくなどはないのかもしれない。歪んだ鉢を自らの根で割り、光を求めて真っ直ぐに伸び続ける精神は、むしろ強靭に違いない。哀れみの情ごときでは、辰伶には何の影響も及ぼすことはできない。

 吹雪はこれまでも師として幾人も弟子たちを指導し育ててきた。それぞれ困難なことはあったが、分けても辰伶は対処に困る状況が多い。この弟子は手は掛からないが、その代わりとばかりに色々と悩ませてくれる。

「遅れましたが、吹雪様、入院中は度々お見舞いに来て下さいまして、ありがとうございました。奥様のケーキ、とても美味しかったです」
「大したことはない」

 いや、姫時のケーキのことではなく、何度も病院に足を運んだことを『大したことはない』と言ったのだと、吹雪は聞かれてもいないのに、心の中で妻に言い訳をした。

「入院中はとても退屈でしたから、本当に嬉しかったです。本を読むか、日記を書くことくらいしかすることがなくて。そうそう吹雪様、私は入院をしてから、毎日欠かさず日記をつけています」
「良い心がけだ」
「父が見舞いを兼ねてと、誕生日のプレゼントとして私に日記帳をくれたのです。驚きました。父が誕生日プレゼントをくれるなんて。父が私の誕生日を覚えていたこと自体が驚きです。尤も、1日間違っていましたが。そのことを父に言ったほうが良いのかどうか迷いましたが、結局、黙っておきました。面白いですね」

 面白くないのだが。吹雪は敢えて黙っておいた。

「吹雪様、私が手術後によく熱を出していたのも、妖魔の仕業だったのでしょうか」
「恐らくは」
「そうですか…。熱に浮かされている間はとても苦しかったのですが、実はとても素敵な夢を見ていたのです」
「どんな夢だ?」
「私に兄弟がいるという夢です」

 その夢を思い出してか、辰伶は何とも幸せそうに微笑を浮かべた。

「ああ、本当に私に弟がいたら……夢ではどちらが兄か弟かはっきりしませんでしたが、私は弟が欲しいので、あれは弟だと思っています。もしも弟がいたら、一緒に遊んだり、勉強を教えたり、本当に心から可愛がるのに…」

 吹雪にも兄弟はいないので、その気持ちは解からなくもない。妻の姫時には村正という兄がいる。吹雪にとって村正は元々は古くからの親友だ。村正と姫時は本当に仲の良い兄妹で、時折羨ましくなることもあった。…が、姫時と結婚することによって、漏れなく村正が義理の兄となった。その時の村正の勝ち誇ったような笑みは、何とも癪に障ったものだった。

「それで、吹雪様…」

 辰伶はよく喋った。自由に外出できないことで鬱屈したものが溜まっているのだろう。吐き出すことで少しでも楽になればよい。弟子の取り留めなく変化していく語りに、吹雪は1つ1つ耳を傾けた。


 日暮れ前に、吹雪は辞去した。離れ屋から母屋へと廊橋を渡りながら、ふと、初めて辰伶の姿を見た時のことを思い出した。この廊橋を舞台にして、辰伶は舞っていたのだ。次に来る時は、久々に稽古をつけてやろうと思う。

 廊橋の真ん中で吹雪は立ち止まり、庭を見据えた。

「…出て来い」

 警戒心を露わに猫が姿を見せた。吹雪がその気になれば、猫がどこに隠れていようとも屠ることは容易に可能だ。この猫はそれが解かっていて、観念しての行動である。それでも用心深く、一定距離以上は近づこうとはしない。

「腹が減っているのだろう」

 この半妖魔は壬生一族の力を食す。この家に棲み、辰伶の力を食していた。力を食すといっても微量だ。辰伶の命はもとより、大して負担になることもない。だから吹雪も放置してきた。

 離れ屋に張られた吹雪の結界に阻まれて、半妖魔であるこの猫は辰伶の傍へ行けず、餌にありつけないでいるのだ。

「辰伶がよいのか」

 猫が辰伶を餌としか見ていないなら、とっくに何処かへ去ってしまったことだろう。飢えてもこの家に留まり続けているのは、猫が辰伶に執着しているからと、吹雪はみた。

「お前は辰伶が好きなのか」

 猫が返事などしようはずもないのだが、吹雪は人間に対するように話しかける。猫は吹雪の言葉を聴き理解しているが、この期に及んでもまだ普通の猫のフリをしている。吹雪は呪文のような言葉を静かに唱えた。

「辰伶がお前を必要としているなら、この結界を通り抜けられるようにした。試してみるか?失敗すれば、半妖魔であるお前は跡形も無く消滅するだろう。辰伶次第だ」

 脅すような吹雪の言葉に、猫は尻尾を一振りした。迷う素振りも見せず、猫は結界に突入した。苦も無く結界を越え、それきり吹雪など見向きもせず、愛する主人のもとへ駆けていった。程なくして、辰伶の華やいだ声が漏れ聞こえてきた。アンバー、何処へ行っていたんだ。最近、ちっとも姿を見せてくれないから、ずっと心配していたんだぞ…

 風雨に耐える強靭な木に哀れみの情をかけるのは感傷に過ぎない。しかし、水は必要だろう。


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吹雪と辰伶は精神的にイチャついてるのがイイ。

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