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いつか光になる為に

-3-


 プレートの部屋番号をよく確認する。間違いない。吹雪は控えめにノックをした。中から了承を得て、静かにドアを開けて入室した。同時に明るく弾んだ声が病室に響いた。

「吹雪様、来て下さったのですか」

 殆ど音も無くドアを閉めると、吹雪はベッドの上で上半身を起こしている愛弟子に声をかけた。

「調子はどうだ」
「はい。今はとても良い気分です」
「そうか。手術は成功したと聞いたが、一向に退院の話を伝え聞かぬのでな」
「ご心配かけまして申し訳ありません。お気遣いありがとうございます」

 吹雪は手にしていた四角い箱を辰伶に手渡した。

「見舞いだ」
「ありがとうございます。何だか甘い匂いがしますね」
「どうやらケーキらしい。出掛けに持たされた。甘いものは苦手ではなかったな」
「はい、好きです。開けてもいいですか?」
「ああ。ただし、姫時と時人の作だから、味の保証はせぬぞ」

 辰伶は瞳を輝かせて箱を開けた。

「手作りケーキなんて初めてです。すごく嬉しいです。奥様とお嬢様に、辰伶がとても喜んでいたと、お伝え下さい」

 病室は個室で、辰伶の他には誰もいなかった。吹雪は辰伶に尋ねた。

「付き添いの者はおらぬのか?」
「ここは完全看護ですから。先ほど家の者が来て、洗濯物を持って帰りました」
「そうか」

 いくら設備が調った病院とはいえ、こんな幼い子供が1人で入院などしていて、親は気にならぬものだろうかと、吹雪は思った。昔、1人娘の時人が病気になったときなど、自分も妻も心配で気が気でなかったものだ。姫時などはそれこそ片時も離れず看病したものだった。

 病室には簡素な本箱が持ち込まれていて、ぎっしりと本が詰め込まれていた。これだけが辰伶の入院生活を慰めているのだろう。

 そこへドアをノックする音がした。辰伶が答えると、勢いよくドアが開閉され、花束を抱えた少女が入ってきた。

「クラスを代表して、お見舞いに来ましたわ」

 辰伶の幼馴染でクラスメイトの歳子だ。歳子は吹雪の存在に気付いて、途端に緊張した面持ちになった。

「お、おじゃまします…。あの、これ、クラスの皆から…」

 歳子は吹雪を気にしながら辰伶のベッドの傍に立ち、花束を差し出した。

「ありがとう。綺麗だな」
「それから、ノートの写しと、プリントと…」

 歳子も壬生一族の者であり、当然ながら太四老である吹雪のことは見知っていた。そもそも辰伶と歳子の縁も、互いに壬生一族であるというところから始まっている。辰伶は水派、歳子は木派と、それぞれ流派が違うが、水派と木派の頂点が吹雪である為、何かと顔を合わせる機会が多い。また、やはり歳が近いということで、互いに大人たちよりも話がし易かったのだ。

 闊達で奔放な性格の歳子も、吹雪の前では覇気を失うらしい。歳子に限らず、吹雪には必要以上の緊張感を相手に抱かせる雰囲気がある。吹雪に対して素のままでいられる人物は珍しい部類に入る。

「丁度いい。歳子、ケーキを切り分けてやってくれぬか。辰伶と一緒に食べるといい」

 吹雪の言葉に歳子はきょとんとして、その目は無意識に辰伶を頼った。

「吹雪様からお見舞いにケーキを頂いたんだ。折角だから、一緒に食べよう」
「ご馳走になります。包丁は…?」
「果物ナイフなら、そこの台の上にあるが…」
「いいわ。これで切ってみるわ。潰れちゃっても許してね」
「吹雪様も召し上がりますでしょう?」

 辰伶の誘いに、吹雪は手を軽く一振りした。

「また後でな」

 子供たちだけを残して、吹雪は病室を出た。ドアが閉じられると、歳子は張り詰めていた気を解いた。普段の彼女の顔になる。

「このケーキ、手作りっぽいわね」
「姫時様と時人様が作られたそうだ」
「誰?それ」
「知らないのか?吹雪様の奥様とお嬢様だ」
「そういえばそんな名前だったかしら。はい、切れたわよ。このお皿とか、使っていいのよね」
「ああ、適当に使ってくれ。歳子は姫時様に会ったことないのか」
「見たことくらいあるかもしれないけど、覚えないわ」
「とても綺麗な方だぞ。それに、とても優しいし…」
「あっそう」

 歳子の白けた答えにも、辰伶は全く頓着しない。自分の想いでいっぱいの辰伶は、歳子の態度にどのような意味があるか考えるどころか、気付きもしない。ケーキを一口食べて、辰伶は夢を見るように言った。

「姫時様って、素敵な方だよな」
「……歳子にだって、これくらい作れますわ」

 辰伶には決して聞こえないように、歳子は口の中で呟いた。


 時間をつぶす為に、吹雪は病院を出て近くの喫茶店にいた。コーヒーを傍らに、店に入る前に書店で購入した書籍を眺めている。

 文字に集中していた吹雪の意識が、不意に乱された。衝立を隔てた隣の席には若い女性グループが陣取り、遠慮や慎みを欠いた声が吹雪の領域を盛大に侵犯してくる。吹雪の眉が僅かに顰められた。軽く頭を振って、再び書物に集中しようとするが、上手くいかない。

 吹雪は書物を閉じてコーヒーを飲んだ。カップを乾して店を出るつもりだ。騒々しいのを好まぬ気質もあるが、それよりも吹雪は他人の話を盗み聞きするという行為が嫌いだった。しかし吹雪の耳は己の信条に反して無視しえぬ単語を拾ってしまった。

 彼女たちが話題にしているのは、辰伶が入院している病院のことだった。その女性たちは病院の関係者なのか、それとも入院患者の身内なのか、或いは全く関係の無い単なる噂好きなのか判らない。内容的には病院にありがちな怪異譚だった。曰く、深夜に某病棟の廊下で子供を見かけた看護婦が声をかけると、その子供は近くの病室のドアに吸い込まれるように消えてしまった。その病室を中心とする周囲の部屋に入院した患者は回復が異常に遅い。某病室は幽霊に呪われている…

 その某病室というのが、まさに辰伶が入院している部屋なのだ。高々噂話であり、吹雪が気に留める必要などないかもしれないが、しかし辰伶の回復が捗々しくないのも本当だった。何か心に引っかかるものがあった。


 長い廊下の先に扉がある。病室の扉だ。通り抜けて中に入る。

 白い壁の明るい病室。子供が寝ている。これは辰伶。

 ベッドの傍らにいるのは、歳子…ではない。帰ったらしい。辰伶の傍には別の子供がいる。

 …子供…なのか…?

 辰伶を覗き込んでいる。愛しげに。眠っている辰伶を眺めて、『それ』は労わるような手つきで、辰伶の前髪を優しく梳いた。

 …―― ・・・・ …

 『それ』は辰伶に何か呟いた。空気が振動しない。音声でない声で、『それ』は辰伶に語りかけている。

「…う…ん……」

 辰伶の口から小さく呻き声が漏れた。具合が悪いようだ。『それ』は心配そうに辰伶の手を取った。辰伶の手を、2つの掌で優しく包み、ひたむきに語りかける。

 …―― ・・・・ …

 辰伶が薄っすらと目を開けた。仄赤く熱を帯びた瞳はぼんやりと紗が掛かり、まだ半分夢の中にいるような風情だ。辰伶の唇が微かに動いた。

「……」

 『それ』の言葉に何か返し、辰伶は微笑んだ。『それ』も辰伶に微笑み返した。言葉と微笑を互いに交わしていた。

 不意に、『それ』はこちらを見た。次の瞬間、病室から『それ』の気配は消えていた。

「……?」

 辰伶は『それ』を探し求めるように何か呟き、再び眠りに落ちた。


「…感づかれたか」

 吹雪は自らの意識だけを辰伶の病室に飛ばし、身体は喫茶店に在りながらその光景を視ていた。意識のみで気配さえも消していた吹雪の存在に『それ』は気付き、一瞬の内に逃げてしまった。

 辰伶の傍に在った妖しきもの。不完全な、妖魔というにはどこか不完全で奇妙な存在だ。太四老たる吹雪にも、それが何なのか掴めなかった。もっとも、妖魔というものに確たる定義などなく、その専門家ともいえる壬生一族さえも、全てを把握している訳ではないのだが。

 『それ』は辰伶に好意を持っているらしかった。辰伶も『それ』に対して好意的だった。だからといって、『それ』が辰伶にとって良いものとは限らない。辰伶の回復が順調でないことの原因が『それ』にあるのなら、その余波が周囲の病室にまで及んでいるというのなら、『それ』は寧ろ悪いものであると言える。

「…先ずは辰伶を退院させることだな」

 吹雪は席を立った。冷めたコーヒーが飲み残された。


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