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いつか光になる為に
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宴の席の賑わいから外れて、吹雪は独り夜風を求めて庭に下り立った。酒は嫌いではないが、酔いの心地よさを仄かに感じる程度で、いつも切り上げることにしている。理性を欠いた声で喚きたてるのも、誰彼構わず寄りかかってだらしなくうろつき回るのも、彼の好むところではない。第一に、味も解からずに飲まれたのでは、酒も気の毒というものだ。
この日、吹雪は舞踊の公演会で舞台を務めた。この宴はその慰労として、吹雪とは遠縁であるが付き合いの深いこの家の主が開いたものだ。謂わば吹雪は宴の主役という立場であったが、酒気払いに一時中座し、自分の家ではないが勝手知ったる屋敷の庭を漫ろ歩いた。
皓々と地上を照らす月の明かりで歩くのに不自由はなかった。松の梢に懸かる月は真円に近く、木にも岩にも、蒼い光が黙して宿る。対照に影は黒々と確かな輪郭を描き、物の形に奇妙な凄みをつけている。鈍色の、まるで水の底のような風景。
庭池に架かる石橋に、吹雪はひっそりと立った。磨かれた鏡面のように静まり返った池の、月光に輝く水面は吹雪の足の下を潜って遥かに庭奥へと続く。緩やかな築山を眺め、ふと返す視線を母屋と離れ屋を繋ぐ渡り廊下に留めた。子供がいる。池に架かる廊橋を舞台にして、独り幼子が一心に舞っている。舞扇の代わりに、葉の茂った小枝を手にして。
吹雪は驚いた。幼子が舞っているその舞は、吹雪が今日の舞台で披露したものだ。ただ同じというだけなら、その偶然を心楽しく思うだけだったのだが、この演目は吹雪の創作で、人前で舞ったのは今日が始めてだった。この子供はその舞台を見ていたのだろうが、それにしてもただの1度見ただけで所作を殆ど覚えてしまったということになる。
舞扇に見立てられた小枝が翻されるたびに、その光沢のある葉が月光を照り返す。弱年ゆえの未熟さはそこかしこに見られるが、吹雪はその舞に並々ならぬ才能を感じ、無言で見入っていた。子供は舞うことに夢中で、吹雪が見ていることに気付く素振りもない。
暫くそうしていて、吹雪は微かに不穏な気配を察知した。視線は子供の舞へ注いだまま五感を研ぎ澄まし、気配の元を探った。子供が舞台にしている廊橋の下の水面近くに、黒い靄のようなものが凝り、怪しく蠢いている。妖魔だ。それは闇の世界に棲息する実体無きものたちで、その多くは人間に悪い影響を及ぼし、時には生命さえ脅かす。黒い靄は細く長く立ち上り、見る見る子供の足元に蟠った。下等な妖魔だが、しかし普通の人間には妖魔の姿を見ることはおろか、気配を感じることさえできない。
吹雪は妖魔退治を生業とする壬生一族の一員で、太四老という地位にある極めて高い能力者だった。太四老たる彼にとって、そんな下等な妖魔ごときを滅することなど容易い。気負いも何もない。淡々と、吹雪は妖魔を排除すべく術を施行しかけて、ふとそれを止めた。
子供は舞の所作の流れに乗って、故意か偶然か、手にした小枝で妖魔を払った。その枝の先から白い蝶がひらりと飛んだ。ひらり、ひらり、まるで手品のように、無数の蝶が生まれ、薄闇の中へ羽ばたき消えていく。白い羽が淡く光を帯びて、まるで月の欠片が飛散しているようだ。
「……」
子供は舞いながら、下等とはいえ妖魔を浄化してしまった。そんな大層なことをしたという自覚があるのか無いのか、舞は乱れることも途切れることも無く、まだ続いている。
吹雪は全てを興味深く見ていた。この家には跡取りとなるべき子供が1人いたということを、己の記憶に確かめた。
「…シンレイ……確か『辰伶』といったな…」
この幼き舞手がこの家の跡取り息子であり、またこのような能力を持つのなら、2人はこれから一生を通して長く関わることになる。しかしこの子供とは、尚それだけの縁に終わらないことを、吹雪は予感した。
これが吹雪にとって最初の、辰伶 との出会いだった。そして数日後に2人は師弟として正式に面談した。賢そうな目をした子供は、礼儀正しく落ち着いて挨拶した。年齢以上にしっかりした子供だというのが、吹雪の辰伶に対する第一印象だった。
深くもの思いに沈んでいた吹雪の前に、白くたおやかな手が湯飲みを置いた。控えめに、だが温かく思いやりに満ちてされた行為に、吹雪は我に返って妻の姫時を見上げた。
「何かお悩み事?」
「いや…」
吹雪はゆっくりと茶を啜った。包み込むような香りと湯気に癒される。姫時が淹れる茶が1番美味いと思うが、これは決して贔屓ではないと吹雪は確信している。
「姫時、お前は時人を可愛いと思っているよな」
「まあ」
姫時は吹雪の向かいに座して、自分の湯飲みを手にした。
「時人はあなたと私の娘ですもの。可愛いに決まってます」
「うむ。俺も心から愛しいと思っている。それで、お前が大切に育てている花に時人が触ったら、お前はどう思う?」
「どうって、質問の意味が解かりません。花に触ることに何か問題でも?」
「…問題は無い…と思う」
珍しく歯切れの悪い夫の様子に、姫時は首を傾げた。
「でしたら、どうもこうもありませんわ。…そうね。花が綺麗だから触ってみたかったのね、と思うくらいかしら。やっぱり女の子ね、とか」
「ふむ…ならば男の子だったら?」
「あなた、それって…」
姫時は2、3度忙しく瞬きをした。
「2人目が欲しいってこと?」
丁度、茶を啜ろうとしていた吹雪は咽て激しく咳き込んだ。
「私は勿論、いつでもOKですわよ」
ニコニコと罪の無さそうな顔で微笑んでいるが、姫時は確信犯だった。こんな風に夫をからかうことを面白いと感じてしまう自分を少し反省しながら、しかし吹雪の反応をどうしようもなく可愛いと思えてしまって止められない。
「そういう話ではない。実は最近弟子に取った子供のことだ」
「最近といいますと、無明歳刑流の本家の御子息でしたかしら?」
「そうだ。その…」
「父様、母様、2人だけでずるい!時人に内緒で何食べてるの!」
突然、幼い娘の声が2人の会話に割って入った。庭から父母の姿を見止めた時人は、縁側から上がり込んで、吹雪と姫時の中間に座った。
「お茶を飲んでいるだけよ。時人も欲しい?」
「なあんだ。何か美味しいお菓子でも食べてるのかと思ったのに。お茶ならいらなーい。時人、ジュースが飲みたーい」
「ジュースは無いわねえ」
「じゃあ、お茶で我慢する」
「ハイハイ」
姫時は茶櫃から湯飲み茶碗を取り出し、娘の分を用意した。冷まし易いように、湯飲みに半分くらいにしておく。
「熱いわよ。気をつけてね」
「うん」
時人は大人用の湯飲みを小さな両手で持って、ふうふうと何度も繰り返し息を吹きかけては、そろそろと茶を飲んだ。その様子を、吹雪は目を細めて眺めた。
「それで、その御子息がどうされましたの?」
姫時に促されて、吹雪は話が途中であったことを思い出した。
「うむ、実は今日、妖魔退治の帰りがてらに、無明歳刑流の本家に寄ったのだよ。たまたまそちらの方だったのでな。主は留守だったが、ならば辰伶に会って行こうと思って…」
「シンレイって、この前、うちに来た子よね?」
時人が言うのは、吹雪と辰伶が正式に師弟関係を結んだ日の事だ。どうやらその時に、時人と辰伶は会っていたようだ。
「あの子、ちょっと変よね」
「変…か?」
「おかしなこと聞くのよ。時人が母様と一緒にいるの、普通か?って」
「…意味が解からんな」
「そうそう、時人」
卒然として、姫時は話を切った。
「兄様から、あなたの好きなプリンを頂いたわよ」
「ほんと!?」
「冷蔵庫にあるから、頂いていらっしゃいな」
「うん。いつもお土産くれるから、村正伯父様大好き」
時人は駆け出しそうな勢いで部屋を出て行った。時人の足音が聞こえなくなるのを待ってか、少し間をおいて姫時は言った。
「こういうことなのよ。私が縁台に腰掛けて、時人を膝に乗せて絵本を読み聴かせていたの。それをかの御子息が茫然と見ていたの。何だかとてもショックを受けたようで」
「ショック…?」
「だから私、訊いてみたの。そうしたら、『母と子というものは、そんな風に話をしたり笑ったりするものなのですか?』と、逆に訊ねられてしまったわ」
「……」
「どうしてそんなことを訊くのかよく解からなくて、『そうよ。お母さんは子供が大好きだから、一緒に居ると笑顔になってしまうのよ』と答えたの。そうしたら今度は、『いつも一緒に居るのですか?』って」
そこでようやく姫時は、その子供が母親との関係で何か問題を抱えているらしいことを察知したのだ。迂闊なことを言って、その子供の心を傷つけてしまってはいけないと思い、姫時は暫し答えあぐねた。すると時人が言った。
『そうよ。時人と母様はいつも一緒よ』
『…どこの家でもそうなんでしょうか』
『そうじゃないの?あんたのところは違うの?』
『……』
時人の無邪気な問いに、姫時はうろたえた。恐らくそうなのだ。この子供は母親を身近に感じられない境遇に在るのだろう。
『……母上に好いてもらうには、どうしたら良いのでしょうか』
『うーん…いい子になればいいのよ。時人はいい子だもの。ね、母様?』
『…そうね。ちょっと甘えん坊さんだけどね』
返答に迷う。母親として娘の気持ちを否定することはできない。しかし時人に同調することは、この子供を否定してしまうことになる。
『時人は母様のお手伝いだってするもの。母様のお花にお水をあげるのよ』
『花に水ですか…』
『あんたは母様が好きじゃないの?』
『…よく判りません』
『あんたが母様を好きじゃないなら、好きになってもらえっこないわよ。時人は母様が大好きだから、母様は時人が大好きなのよ。ねえ、母様』
『え、ええ。そうね…』
好きだと思うから、好かれる。時人が言ったことは1つの真理だ。しかし姫時は世の中がそれほど単純でないことも知っている。母親から無償の愛を注がれて育つ子供がいる一方で、大人の都合で十分な愛情を受けられない子供もいるのだ。
まずいまずいと思いながら、展開はどんどん望ましくない方向へ進んでしまった。子供は酷く落ち込んだ様子で、その場を去っていったのだった。
「そんなことが…」
姫時の話を聴いた吹雪は深く溜息をついた。少し目を伏して、手の中の湯飲み茶碗を視凝めた。
「ダメねえ、私って…」
「否。誰であろうと、容易に捌けるような場面ではなかろうよ。…そうか、それで辰伶は…」
「そういえば、あなたのお話が途中でしたわね」
「うむ。留守の主の代わりに辰伶に会いたいと言ったところ、庭の奥にいるらしいということだったから、ならばと俺の方から赴いたのだが…」
庭池を渡って離れ屋のある奥庭へ、辰伶の姿を探し歩いた。離れ屋の更に奥には、小さな温室があるのだが、突如としてその扉が開閉され、中から女性が姿を現した。彼女は温室の持ち主で、この家の主の妻だった。滅多に人前に出て来ないし、吹雪とは殆ど話をしたことがないが、それでも面識はあった。女性は吹雪に気付き、儀礼的に会釈をして無言で擦れ違った。
女性が去った後、再び温室の扉が小さな音を立てて開いた。中から現れたのは辰伶で、片手で頬を押さえていた。悄然と頭を垂れていたので、すぐ目の前まで来て初めて吹雪の存在に気付いたようだった。吹雪を見るなり辰伶は真っ直ぐに姿勢を正し、行儀良く挨拶をした。吹雪も先ずは他愛の無い事を2、3言って、それから訊ねてみた。
『どうした。頬が腫れているな』
そう言うと、辰伶は反射的に頬に手を当てた。吹雪を見上げる瞳に切羽詰った光が揺れている。
『母に叩かれたか』
吹雪に注がれていた辰伶の視線は徐々に下がり、ついには地面を見てしまった。そしてぽつりぽつりと呟くような声で言った。
『私が悪かったのです。私が母上のお花に触ってしまったから、母上をご不快にさせてしまったのです』
『触った…?花を折ったとか、鉢を落としたのではなくか』
辰伶は頷いた。
『私は花に水を……ただ、母上のお手伝いをして差し上げようと思ったのです…』
吹雪には俄かに理解しにくいことだった。不注意で粗相をしたわけでも、ましてや悪戯をしたわけでもない。ただ花に触ったというだけでこの仕打ち。子供が花に触って不愉快になる親というのが、先ずは全く理解できなかった。
吹雪の話を聴いた姫時は、自分たち母子の会話が、そんな思いも寄らぬ事態を招いたことに暗鬱たる気持ちになった。時人の言葉から辰伶がそのような行動をとったことは想像に難くなく、それが良い方へ展開したなら良かったのだが、結果は聴いた通りだった。そして姫時は辰伶の母について思い出した。
「歳刑流本家の奥方様っていったら、確かあの方よね…」
「知っているのか?」
「高等部で、華道部の後輩でしたわ。余りお話をしたことはないけれど、とても物静かで大人しいというイメージでしたわ。…こういう話はあなたはお嫌いでしょうけど、あの方、他に好きな方がいらしたみたいね…」
「確かに、あまり好かぬ話題だな」
好きな男の子供でないから愛せないという理屈か。吹雪は不愉快になった。子供には全く責任のないことではないか。吹雪は脳裏に今日会った辰伶の姿を描き出した。
理不尽な理由で母に叱られ、その理不尽さも解かっていない子供のすっかり肩を落とした姿が憐れに思えて、吹雪は別の話をした。
『この前の宴の夜は月が美しかったな』
辰伶は吹雪を見上げた。
『はい。丸くて大きくて、とても美しゅうございました』
吹雪はつと、母屋と離れ屋を繋ぐ廊橋を指した。
『あそこで、お前は舞を舞っていたな』
途端に辰伶の顔が真っ赤になった。
『ご覧になられたのですか』
『なかなか達者だったぞ』
『そんな、吹雪様がご覧になられていたなんて、お恥ずかしいです…』
何しろ辰伶は吹雪の舞を見て、吹雪を真似て舞っていたのだから。それを本人に見られていたとあって、辰伶は軽いパニックに陥っていた。
『少し違っている部分があったぞ。ここはこのように手を反すのだ』
『こうですか?』
『そのままの姿勢でゆっくりと回って……目線を少し下げろ。肩も心持ち下げて…そうだ、その感覚だ』
やはり、この子供の舞のセンスは並々ならぬものがある。吹雪は自分の心が普段に無く昂揚しているのを自覚した。吹雪に教えられた通りに所作をこなした辰伶は、輝くような笑みを浮かべた。子供らしい、純粋な笑顔。なんて可愛らしく笑う子供だろうと、吹雪は思った。
『俺はお前の師として妖魔を退治する技を指導する務めにあるが、時には舞も見てやろう』
『ありがとうございます!憧れの吹雪様から舞のご指導を頂けるなんて、信じられないくらい幸せです』
『幸せか。あの舞は俺が創ったものだ。全ての人々に倖せが訪れることを願いながら創ったのだよ』
『皆が幸せになったら、とても素敵です。私もこれからは全ての人々に倖せが訪れることを祈って舞います』
辰伶は瞳を輝かせながら言った。
『幸せの中には、母上の分の幸せもありますよね』
『ああ。きっとあるだろう』
『母上が幸せになるように、一生懸命舞います』
笑顔でそう語る子供の健気な愛情を、その母親は知ろうともしない。せめてこの幼い芽が光に向かって真っ直ぐに伸びていけるようにしてやりたいと、吹雪は思った。
「ところで、姫時。その…2人目だが…」
「私はいつでもOKよ」
照れて視線が逃げがちな夫を真っ向に、姫時はニッコリと笑った。
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