未来半分
-5-
夕暮れて薄暗くなった離れの螢惑の部屋。照明をつけようともせずに、螢惑はベッドの上で片膝を抱えていた。後悔している。辰伶と付き合うようになってから、何度も後悔をしている。それより以前は己の行動をろくに反省することもなかったのに。何度味わっても、後悔は苦い。
あの時は、とにかく頭に血が上っていた。気づいたときには、辰伶に暴力をもう奮ってしまっていた。ガラスの砕ける音と辰伶の掌に流れた血。辰伶の血の色が、螢惑の頭を一気に冷やした。独り薄闇の中で、螢惑は繰り返し思い出す。
螢惑の知らない女と、辰伶がデートしていた・・・とは、冷静さを取り戻した今なら思わない。辰伶が彼女を腕に抱いていたことは、恋愛がらみでは決してなかったと、雰囲気で解る。そう、螢惑には解るのだ。螢惑と抱き合っているときの辰伶とは、あれは全く違ったから。
何だか胃が重いような気がして、螢惑は大きく息を吐いた。大体だ、もしもあれが浮気(ことによると本気)だったとして、そんなにも怒るようなことだろうか。醒めた気持ちで螢惑はそんな風に考えた。だって・・・
「・・・恋愛感情なんて、どうせいつか醒めるものなのに・・・」
恋愛というものについて考えていると、己の死んだ母親のことに、螢惑の思考は必ず至る。辰伶の父親に捨てられてから(そういえばあれは自分の父親でもあったと、螢惑は思い直した)、彼女は何人もの男性に恋をした。どの相手のことも、『今度こそ本当の相手で本物の恋だ』と、彼女は螢惑に打ち明けた。それはきっと嘘では無かった。彼女にとっては全てが本当に本物の恋だったのだろう。そして、その全てに敗れた。彼女は恋に敗れては、螢惑の父(そういえば辰伶の父でもあるな、と螢惑はいちいち思い直す)を思い起こして恋しがり、悲嘆に暮れていたものだった。
誰だって心は変わる。それは本人にさえ止められない。どうしようもないことだ。つまり、永遠の愛なんて全く保証できはしないのだ。なのに、失った愛に執着して、それを取り戻そうなんて、螢惑の母のように死ぬまで足掻き続けるなんて、そんな人生は御免被る。
2人の関係を、辰伶が周囲には秘密にしていること。それについて、灯が何か言っていたが、螢惑は不安にも不満にも思ったことはない。どうせいつか消えて無くなるものだと思っているから。そしてそれはきっと辰伶から、辰伶の理由で解消されるのだろう。でもきっと、傷ついて辛い想いをするのも辰伶になるのだろう。理由も根拠もなく、螢惑はそう決め込んでいる。恋愛がらみで、自分が傷つくことなんてあるはずはない・・・と。
螢惑の思考を破って、控えめなノック音が部屋に響いた。誰何するまでもない。この部屋のドアを叩く人物なんて1人しかいない。
「入りたいなら入れば」
聞く者の気分を逆撫でするような言い方を、わざと選ぶなんて、酷く子供じみている。そんな自分に、螢惑は苛立った。じっと見つめる先で、ドアノブが静かに動いて、音もなく辰伶が入室してきた。
「電気をつけてもいいか?」
「ああ、うん・・・」
スイッチはドアのすぐ横にある。辰伶の手は迷うことなくそれを押す。途端に部屋が明るくなった。辰伶はそのまま真っ直ぐ部屋を横切って、窓のカーテンを閉めた。
「螢惑・・・」
名前を呼んでみたものの、そこで辰伶の声は途切れた。言うべき言葉を探しあぐねているようだ。
「今日はバイトは?」
「夕方のはしばらく休み。夜のも今日は休む」
そしてまた途切れた。幾ばくかの沈黙の後にポツリと螢惑は問いかけた。
「・・・怪我は?」
「怪我?」
「手・・・さっき、喫茶店で・・・グラスで・・・」
「ああ」
辰伶は左の掌を一瞥した。
「何ともない・・・こともなかったが、治療?・・・してもらったらしい。お前の・・・友人に」
『友人』という単語を、少しぎこちなく辰伶は口にした。その複雑な彼の心境に螢惑は微塵も気づかない。
「灯ちゃんが?・・・何か秘密、聞かれた?」
「秘密?」
辰伶の様子から、法力治療の対価を灯が求めなかったことを、螢惑は察した。そんな特別扱いは、螢惑の知る限りでは、灯がご執心の狂という男に対してのみだ。あとは余程好みのイケメン相手か。
(灯ちゃん・・・辰伶のこと、気に入ったのかな?)
勿論、灯は例の騒動に責任を感じて、無償で辰伶の治療を行ったのだ。しかし、螢惑にその発想は無かった。
「彼女が灯さんか。以前から、何度か、お前から、名前だけは聴かされていたが・・・美人だな」
灯は『彼女』ではなく『彼』であるのだが、そんなことは辰伶は知らない。そんな小さな誤認などよりも、螢惑は辰伶が灯を『美人だ』と褒めたことに、感情の全てを捕らわれた。だから、辰伶の声音に生えていた棘が見えなかった。
「そうだね。灯ちゃんって、結構美人かもね。それにすごく優しいし・・・」
俺と違って・・・という一言を飲み込んで、螢惑は俯く。そうか・・・辰伶は灯ちゃんみたいなタイプが好きなのか。灯ちゃんは狂が好きだけど・・・イケメン好きだから、辰伶にも脈はありそうだなあ・・・
思考の沼に沈んでゆく螢惑を、辰伶は無言で見下ろしていた。その瞳の奥に隠れて、昏い熾火が揺らめく。
「俺は占いなんて信じない」
その声も内容も唐突に過ぎた。螢惑が思わず見上げると、見下ろす辰伶と視線が合った。
「だが、色々と考えさせられるものはあった。俺は・・・」
「ちょっと待って、意味が解らない。・・・占いって何?」
「喫茶店の占い師の占いだ」
「え?・・・っと、朔夜?・・・の占い?・・・のこと?」
朔夜の占いのことなら、螢惑は灯からよく聞いていた。彼女の視る未来は絶対なのだと、灯は言う。先読みのあの女は、辰伶に何を告げたのだろうか。辰伶の素振りからするに、ろくな内容ではなかったのではないかと、螢惑は想像した。
「螢惑、この際だからはっきり言っておく。将来、俺はこの家を出る」
「・・・え?」
「俺は俺の自由を贖えるだけの力・・・能力、経済力を得て自立する。そして、お前が何処へ行ってしまおうとも、必ず追いかけて、お前の隣に居座ってやる。・・・家族や友人たちと絶縁することになっても」
情熱の彩を纏わぬ辰伶の言葉は、ひたすら現実的で、しかし一途だった。「夢」ではなく、「予定」を辰伶は語っているのだ。今の2人の関係を、夢幻のように、曖昧に捉えていた螢惑は、まるで深い眠りの底から引き出されたような気持ちになった。
「お前・・・自分で何言ってるか解ってるの?何でそんなこと急に・・・」
「急じゃない。ずっと前から決めていた。・・・ただ、決意を口にしてしまったら、叶わなくなってしまうような気がして、言わなかっただけだ」
ふと、辰伶はひとつ頭を振った。
「・・・言うつもりは無かった。決心したことを、実現さえすればいいのだと思っていた。だが、それではお前を苦しめることになると、気づいた。歳子のこと、誤解して俺を殴ったのだろう?」
螢惑は無言で頷いた。
「お前が時々激昂したり、俺に無理を強いたりするのは、俺がお前を不安にさせていたからなんだな。・・・悪かった」
「ゴメン・・・乱暴なこととかして・・・ごめん・・・」
「お前を失う前に、俺の考えをきちんと伝えなくてはならないと気づいた」
ベッドの上で膝を抱えている螢惑の傍らに、辰伶は腰かけると、その両腕でそっと彼を抱きしめた。
「・・・バカじゃないの?辰伶が家を出るまで何年かかるか知らないけど、それまで俺たちの心が変わらないとでも思ってるの?」
「俺は変わらない」
「俺が変わるかも」
「それでも・・・例え俺たちの関係が終わってしまったとしても、家を出る予定は変えない。どんな未来が待ち受けていても、それをお前のせいにしたりはしないから。俺は今の自分の心に全てを懸ける」
「・・・潔過ぎだよ、辰伶は・・・」
「そうでもないさ。今すぐ家を飛び出すことは、さすがに出来ない。まだこの家の庇護から出るわけにはいかない。螢惑と俺と、2人共を幸せにできるほどの力は、まだ無いから。その為には周囲を偽ったり、俺たちの関係を隠したりもする。だけど必ず、最後には螢惑を選ぶから・・・俺を信じていて欲しい」
螢惑の胸は強く締め付けられた。もういい、と思う。ここまで辰伶が言ってくれたなら、辰伶を信じることを、自分に許してもいいと思った。例えどちらかの心が変わってしまったとしても、この瞬間の真実に少しも偽りは無い。螢惑はそう信じられた。
「螢惑・・・」
「・・・ん?」
「今日は父も母も用事で家にいない」
「そうなんだ。・・・で?」
「だから・・・今夜は向こうに帰らなくても・・・この部屋で、朝まで一緒でも・・・大丈夫なわけで・・・」
「へえ、珍しいね。・・・で?」
「だから・・・どこまで言わせるんだ!」
「え?どこまでって・・・え?どこ?」
天然か・・・と、辰伶は舌打ちした。そして、己の唇を螢惑のそれに重ねた。軽い口づけは、一度離れた後に深く求め合うそれに変わり、2人はどちらからともなくベッドに倒れ込んだ。