未来半分
-2-
終業チャイムと同時に螢惑は眼を覚ました。その日の最後の授業が終わり、教室内が開放的な雑音に満たされる。学生の1日は終了した。課外活動を一切行っていない螢惑は、クラスメイトと話をするでもなく、早々と下校してしまうのが常である。極力親の世話になりたくない彼には、忙しくアルバイトをして金を稼ぐ必要があるからだ。
それに、どうしても欲しい物がある。その為にバイトを掛け持ちして、時には夜間帯に及ぶこともある。足りない睡眠時間は学校の授業時間で補填しているので、先生方からの受けは悪いが、螢惑は頓着していない。
このような生活態度であるから、自然とクラスメイトとの付き合いも悪く友人は少ない。その数少ない仲間の1人に、教室を出たところで呼び止められた。ほたると同じ1年生のアキラだ。
「ほたる」
『ほたる』とは校内での彼の徒名である。彼をそう呼ぶのは、極一部の本当に親しい者だけだ。
「何?」
「灯が用があるそうですよ。『尋問室』で待っているそうです」
「…行かなくちゃダメだよね…」
「気持ちは解りますが、行った方が身の為じゃないですか?」
螢惑はふーっと大きく溜息をついた。
「…ま、いいか。今日は夕方のバイト休みだし…」
「そうなんですか?」
「店の改装するからって、1週間休み。だから夜中だけ」
「…前から気になっていたんですが、夜間にバイトなんて大丈夫ですか?未成年だし」
「夜間の方はお金じゃなくて現物支給だから、バイトじゃないって言い切れば大丈夫だと思う。接客とかじゃないから、学校の先生にに見つかることないし……っていうか、ゆんゆんの伝手なんだけどね」
「ゆんゆん?」
「えーと、バスケ部のコーチしてる…」
ああ、とアキラは得心した。
「保健体育の遊庵先生ですね。あの非常勤講師と知り合いなんですか?」
「…前に住んでたアパートで近所だった」
遊庵は螢惑にとって1番古くからの知り合いといえる。出会いは螢惑がまだ小学校にあがる前だったと思う。昔過ぎて知り合いになった切っ掛けは覚えていないが、遊庵には弟妹が多くあったから、そのあたりで繋がったのかもしれない。気付いたときには、螢惑は当たり前のように遊庵の家で飯を食べていた。母親がアパートに恋人を連れ込んでいる間はずっと遊庵の家にいた。血縁も何もない螢惑を、今でも当たり前に迎え入れてくれる。遊庵とはそういう人物で、その家族もそういう人たちだ。
「それなら如何わしい職場ということもなさそうですね。…現物支給って、何を貰っているんですか?」
「……晩メシと技術とそれから……まだナイショ」
隠す程の物ではないのだが、ふと思って内緒にした。まだ辰伶にも明かしていないのだ。最初に見せるのは辰伶がいい。辰伶でなくてはいけない。
「だったら、灯の前ではバイト関係の話題は極力しないことです。特に、今から『尋問室』ですからね」
「そうだね」
灯は2学年上の、彼らの仲間だ。『尋問室』とは第2生物室の準備室のことなのだが、灯が専ら私用している部屋である。部屋主の灯は『灯のサロン』と呼び、螢惑たちは陰ながら『尋問室』と呼ぶ。
「ようこそ、『灯のサロン』へ」
長身の美人がニッコリ微笑む。螢惑と、今回は関係の無いアキラにも緊張が走った。心象的には体感温度が2〜3℃ほど確実に下がっている。豊かな長い髪をたおやかに揺らして2人を招き入れる優美なこの人物の本名は「灯吉郎」、女生徒の制服を着ているが男である。
灯はこの学校の陰の「女」帝として君臨し、一般生徒は勿論のこと、教師からも畏れられている。一生徒である灯がこの部屋を半ば公然と私物化しているのを、誰も咎めようとはしない。彼「女」には誰も逆らえないのだ。
「…え…と……何の用?」
「以前、恋人との初デートに遅刻しないよう、電話で起こしてあげたでしょ。あのお礼がまだ貰ってなかったわね」
辰伶と水族館に行った時のことだ。言われてみて螢惑は思い出した。
「…あなた、そんなことを灯に頼んだんですか?」
アキラが呆れて言うが、螢惑には重要なことだったのだ。どれ程の代償を払っても、初デートで遅刻して辰伶をガッカリさせたくなかった。…結局、遅刻はしたのだが。
「全く迂闊ですよ。そんなことで、灯に弱みを握られるなんて」
「弱みだなんて、ちょっと『秘密のお話』が大好きなだけよ」
灯は他人の秘密を聞き出すのが好きだ。この学校の生徒や教師の殆どが、灯に何かしらの秘密を握られている。だから、誰も彼「女」には逆らえない。
「ほら、さっさと何かあんたの秘密、教えなさいよ」
「うーん…教えてもいいんだけど……何が俺の秘密なの?」
「何…って…」
「隠してることなんてさ、別に無いんだよね」
アキラは内心ハラハラしながら2人のやり取りを見ていた。今しがた、螢惑の秘密を(その内容までは知らないが)聞いたばかりである。果たしてその秘密を、螢惑は灯から守り通すことができるのか。それにしても隠し事は無いなんて、さすが鉄面皮。大胆な嘘をつく。
「秘密主義者のあんたが何言ってんの」
「えーと…別に秘密主義じゃないよ?」
「仲間にだって、滅多に自分のこと話さないじゃない」
「だって、聞かないから」
「は?」
「聞かないから、言わないだけ。俺は隠していることなんてない」
あ、とアキラは思った。自分は思い違いをしていた。螢惑は上手く惚けているのではない。本当に、秘密のことなんてすっかり忘れているのだ。そうだった。螢惑は天然ボケだった。
「ふ〜ん……じゃあ、聞けば何でも答えてくれるのね」
「うん」
「だったら、そうね……この間の初デートの後、あんたたちどこまで進展したの?」
ギョッとして、アキラは螢惑の顔を視凝めてしまった。螢惑の恋人とは、一度だけ偶然に顔を合わせたことがある。話こそしたことはないが、その人物は…
「進展っていうか……あっ!」
「な、何よ」
「秘密あった!俺と辰伶のこと、秘密にしてる!」
灯とアキラは呆気に取られていた。その視線の先では、螢惑が1人で得心している。
「シンレイって、誰?」
「ほたるの恋人ですよ。ほら、ほたるのケータイの待ちうけになってる…」
「ああ、そういえば見せてもらったわね。…ちょっと、どこが秘密なのよ。全然隠してないじゃない」
「あ、そうか。これって俺の秘密じゃなくて、辰伶の秘密だ。辰伶は俺と付き合ってること、周りに隠してるから」
灯は不審をますます深くした。螢惑に秘密は無い。しかし、そこには確かに何か秘密のにおいがするのだ。
「どうして、相手はあんたのこと隠したいの?」
「うーん…あっちはばれると色々大変だから。俺は平気だけど」
「…当たり前でしょう。無頓着なあなたの方が変…」
思わず呟きを洩らしたアキラは、己の失態に気付いて言葉を切った。しかし既に遅かったようだ。会話の的を得ない天然ボケよりも、事情を把握しているらしい第三者から聞きだした方が早いと、灯はターゲットを切り替えてきた。
「どうしてほたるが変なの?」
「……」
「へーえ、そう。アタシには言えないの。そんなにスゴイ秘密なのね。アキラ、ほたるの代わりに答えなさい」
「い、いいのかよ、ほたる…」
アキラには関係ないことだから、話したところでアキラ自身にダメージはない。それでも一応は仲間である。他人の、しかも仲間の秘密を本人の了承無しにペラペラと喋るのは、アキラには抵抗があった。動揺も露わにほたるを伺い見る。
「え?何?何が俺の秘密なの?」
窮地に陥っているはずの螢惑は、素で何も解っていない。アキラは理不尽な気持ちになった。
「ほらほら、言っちゃいなさいよ。それとも、代わりにアキラの秘密を教えてくれてもいいのよ?」
ここに至って、アキラの中の何かが吹っ切れた。どう考えても己が不利な立場に立たねばならない理由が無い。いくら仲間の為でも、払う価値の無い犠牲は払うべきでない。螢惑も秘密にする気はないようだし、螢惑の気の毒な恋人には螢惑が謝ればいい。
「男なんです」
「誰が?」
「辰伶って人は…ほたるの恋人は男なんですよ」
「え!?」
「…あれ?知らなかった?……写メ見せたよね?」
螢惑は携帯電話の待ち受けにしてある辰伶の写真を、2人の前に晒して見せた。灯はひったくるようにそれを手にすると、食い入るように写真を眺めた。
「顔が綺麗に整いすぎてて、全然気付かなかったわ……言われてみれば、辰伶って名前も女っぽくないわ。アキラ、よく気付いたわね」
アキラも実際に本人を見るまで疑いもしなかった。女っぽいわけではないが、男臭さを感じさせない。だが、中性的というわけでもなく、男として見ればやはり納得するのだ。男女の性の生臭さの無い、純粋な美しさが辰伶の容姿や雰囲気に備わっている。そしてそれは螢惑にも言えると、アキラはふと思った。この2人は似ている。外見は似ていないが、何かが似ている。
携帯電話を螢惑に返して、灯は言った。
「よく解ったわ。相手が秘密にしたがる理由も。…でも、どうして隠さなきゃいけないのかしらね。相手が男でも女でも、人を好きになるって素敵なことなのに」
「…素敵なこと…なのかな?」
「素敵じゃない。アタシは狂のことが好きなアタシが好きよ。恥じることじゃないわ。ほたるは?」
「俺は…」
素敵なことだろうか。辰伶に対して容赦なく激情をぶつける自分の姿を、螢惑は醜いと思いこそすれ、素敵とは思えなかった。
「…とにかく、辰伶にとっては秘密なんだから、他には言いふらさないでね。俺はいいけど、辰伶は大変なことになっちゃうから」
「解ったわ。でも…あんたはいいの?」
「何が?」
「不安じゃない?辛くは…ないの?」
「……」
螢惑は踵を返した。
「辛いのは、辰伶の方だと思うから…」
ぽつりと呟き、そのまま振り返らずに部屋を出て行った。灯とアキラはかける言葉もなく、その後ろ姿を見送った。
「本気なのね、ほたるの気持ち」
「でなければ、同性と付き合うなんてできませんよ」
「あら、解らないわよ。好みのタイプが見つかれば2股3股なんてのもいるじゃない」
「本気だろうと遊びだろうと、他人の恋愛に首をつっこむのは野暮ですよ。相談でもされない限り、関わらないことです」
「それもそうね」
「相談されても困りますけどね」
全く、変態は灯1人で十分だったのにと、アキラは心の中で愚痴る。同性を好きになる気持ちが、やはりアキラには解らなかったし、あまり考えたくなかった。かといって、螢惑や灯との間に距離を置こうとも思わないのだ。その性癖が自分に向けられているのでなければ問題ない。
「さてと、あたしらも帰りましょうか。ねえ、アキラ。望の店に寄っていかない?」
「望さんの、ですか。構いませんよ」
望は灯の知人で喫茶店を営んでいる。表通りから1本入ったあまり目立たない立地ながらも、女子高生の間で口伝に広まり、一定の人気を保っている店である。レトロで落ち着いた内装が懐古的で安らぐと、年配者にも好感を持たれている。
「しばらく行ってないと、アレが飲みたくなるのよね」
「朔夜さんのアレですね」
その時間帯は客の殆どが学校帰りの高校生だった。あまり忙しい様子はなく、カウンター内では少女と呼べるほどの若い女性店員がのんびりと皿を磨いていた。灯とアキラの2人がカウンター席を選んで座ると、店員は手を止めて親しげに微笑んだ。
「いらっしゃいませ」
「朔夜1人?」
「兄さまは私と入れ替わりに出かけました。1時間もすれば戻ると思います。ゆやちゃんが学校から帰って来るまでは私1人です」
彼女は店主である望の妹で、名は朔夜という。灯と同じく高校三年生で、20代半ばの青年である望とは少し年が離れている。朔夜の下にはゆやという妹がいて、こちらはアキラと同じ1年生だ。両親は既に無く、兄妹3人で仲良く喫茶店を営んでいる。
朔夜はおっとりと話しながら、それ以上におっとりとした手付きで急須を用意し煎茶を淹れた。灯がカウンターに座った時は必ずこれと決まっている。
「どうぞ。ゆっくりしていって下さい」
灯とアキラの前にそれぞれ置かれた湯飲みには、どんよりと濁った濃い緑色の液体がほっこりと湯気を立てて澱んでいた。どうやって淹れたらこうなるのか皆目検討がつかないが、原材料は間違いなく煎茶の茶葉と普通の湯。それと知らなければ絶対に飲み物とは思えないそれを、灯たちは美味しそうに啜り、ほうと息をついた。
「心が安らぐわ…」
「見かけの凄さからは信じられない美味しさですよね」
「これも裏メニューっていうのかしらね」
そうして2人がのんびりしている間にだんだん客が増えてきて、いつしかテーブル席はすべて埋まってしまっていた。余り機敏とは言えない朔夜の手際ではだんだん回らなくなってきているようだ。見かねたアキラが腰を上げた。
「手伝いますよ」
「いいえ、お客様なんですから、どうぞゆっくりしてて下さい」
「ゆやさんか望さんが帰って来るまでの、少しのことですよ。エプロン貸して下さい」
「すみません。御厚意に甘えさせて頂きます」
アキラは学校の制服の上着を脱ぎ、エプロンをつけた。そうして客席へ運ぶためのお冷を受け取ったところで、ふと、たった今店に入って来たばかりの客を見て動きを止めた。
「灯、あれ」
囁くような小声で灯に注意を促す。アキラの密やかな仕草を受けて、灯はそれと解らぬようなさり気なさで、アキラの目を一瞬だけ釘付けにした人物を見遣った。
「……!」
驚きが声になるのを、灯は辛うじて堪えた。入って来たのは他校の制服を着た高校生の男女2人。女子生徒の方は知らない顔だが、片割れの男子生徒の顔には記憶がある。先ほど螢惑に見せられた携帯電話の待ち受け画面の写真の顔と同じ。螢惑の恋人で、名前は確か辰伶だ。
辰伶の連れの女子生徒はテーブル席が空いていないのを見て取ると、カウンター席の方へ促した。灯との間に空席を2つおいた向こうに2人は座った。
試しにアキラはお冷を運びがてら、さりげなく辰伶と目を合わせてみた。特に反応はない。どうやら辰伶はアキラのことは覚えていないようだ。
席が近い灯には、2人の会話がよく聞こえた。互いに気を使わずぞんざいに話す様子は、彼らが親しい間柄であると推測された。見ようによってはデート中のカップルにも見える。
(気に入らないわね…)
螢惑の恋人でありながら、他の相手と2人きりでデート紛いのことをする。それは螢惑に対する裏切り行為だ。或いは同性を恋人に持っていることを隠すためのカムフラージュか。いずれにしても、その不誠実さに灯は腹を立てた。秘密にするのは仕方ないにしても、そんなふうに誤魔化すのは卑怯だ。
螢惑の想いが真っ直ぐで、相手の立場や気持ちを深く思いやっていることを知る故に、辰伶に対する灯の心証は悪くならざるを得なかった。
灯は2人に気付かれないように、その様子を携帯電話のカメラに収め、こっそり螢惑へメール送信した。