未来半分

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 熱が引いても未だに過敏なままの肌に、ゆるゆると愛しい人の掌が這う。
 温かくて、優しくて、堪らなく心地よい。
 彼の指が背中の中心を滑り降りて、体の奥に残る悦楽の記憶を探り当てる。
 自分の唇が漏らしたのは声なのか溜息なのか。
 笑った彼の喉が密やかに振動している。

 螢惑は意地が悪い。

 でもそれが堪らなく可愛らしいとも思い、小憎らしく震えた喉元に口付けた。
 軽く、擽るように。
 この柔らかな肌にいっそ噛み付いてやろうか。
 そんな企みを気付かれたか、顎を抱えるように引き上げられ、彼の唇が寄せられた。
 うっとりとした気分で瞳を閉じると…

「辰伶、辰伶」

 押し殺した声で名を呼ばれ、辰伶はハッと目を覚ました。手からシャープペンシルが滑り落ちてノートの上を転がる。

「どうした、辰伶。具合でも悪いのか」

 数学教師が心配そうに見ていた。のみならず、クラス中の衆目を集めており、辰伶の頬は火のように熱くなった。何という失態。授業の真っ最中に居眠りしてしまうなんて。

「…すみません」
「寝不足か。勉強熱心もいいが、根を詰めないようにな」

 そう言われて、辰伶は居た堪れない気持ちになった。確かに、夜遅くまで勉強しているのだが、そもそも寝不足の本当の原因と理由は…

 先ほどまで見ていた夢の淫らな内容を思い出し、辰伶の心は羞恥にのた打ち回った。変な寝言を漏らさなかっただろうかと不安になる。

 異母弟である螢惑との、他人には決して明かせぬ関係。片親とはいえ血を分けた兄弟でありながら、2人は精神的にも肉体的にも情を交し合っている。道ならぬ恋のシチュエーションに酔うつもりは無いのだが、現実問題としてこのことが家人に知れたら2人は引き離されてしまう。

 それでも自分はまだ良いと、辰伶は思う。今でさえ冷遇されている螢惑は、どんな仕打ちを受けるか解からない。

 恋情でないにしても、辰伶と螢惑が親しくすることを、辰伶の母は快く思わないはずだ。だから2人の逢瀬は勉学指導の為という偽りの下で密やかにされている。それも生活を乱さない範囲でと、辰伶は母からしっかり釘を刺されているので、絶対に学業成績を落とすわけにはいかなくなった。

 だから、情事の後で疲労していようが、辰伶は勉強には手を抜かない。いや、抜けないのだ。授業中に居眠りなど、以ての外だ。こんなことが続いて家に連絡でもされたら、螢惑の元へ通えなくなる。気を引き締めてノートを取ろうとしたところで終業の鐘が鳴った。

 半分もまともに書けていないノートを前に辰伶は困った。仕事の速い日直の手によって黒板は瞬く間に消されていく。冗談でなく困り果てた。さて、どうしたものか…

「辰伶、私のノートで良ければ見るか?」

 彼の心を読んだかのごとく救いの手を差し伸べてくれたのは、隣の席の歳世だった。居眠りしていた辰伶に声をかけて起こしてくれたのも彼女だ。理数系の科目では学年でもトップクラスの成績で、彼女のノートは以前にも見せてもらったことがあるが、よく纏められていて、字も読みやすく綺麗だ。申し分ない。

「願っても無い。恩に着るぞ」
「恩だなんて、こんなことくらい…」
「ねえ、歳世ちゃん。今日、帰りに寄りたいお店があるんだけどぉ」

 そこへ前の席の歳子が割り込んできた。椅子に横座りに、辰伶の机を肘掛にして。辰伶のノートは彼女の腕の下敷きにされてしまった。

「おい」
「あら、ゴメンなさいね」

 一声かけると、気がついて腕をどけた。

「もしかして、お話中でしたぁ?」
「そうだ」
「ふうん…」

 歳子が意味ありげに辰伶と歳世を交互に見る。

「べ、別に…今の時間のノートを…」

 歳世は頬を紅潮させて言葉を濁した。何故歳世が恥ずかしがるのか、辰伶には解らない。授業中に居眠りしてノートが取れなかった自分は恥かもしれないが、少なくとも彼女の恥ではない。

「そうだ。歳世が親切にノートを貸してくれるというのだ。何が悪い」
「悪いなんて言ってまセン。いいの、いいの。辰伶は解からなくても」

 含みのある物言いが辰伶の癇に障った。歳子のこういうところを辰伶は好ましく思えない。なぜ、歳世が彼女と仲が良いのか理解に苦しむ。聡明で慎ましやかな歳世とは違い、歳子は軽薄でお喋りで我侭で図々しい。しかしこれで理数科目に限り全国レベルでトップクラス。辰伶や歳世よりも遥かに上なのだ。何か理不尽に思う。

「でも、辰伶が居眠りなんて驚きました。まあ、貴方のことですもの、どうせ勉強に真剣になり過ぎて夜更かししたとか、そんなところでしょう」

 歳子の口ぶりに、辰伶は馬鹿にされているような気がした。

「睡眠時間を削ってまで勉強しないと授業についていけないほど学習能力が低いといいたいのか」
「それは穿ち過ぎというか、被害妄想入ってますわよ。辰伶のことですから、恋の悩みで夜も眠れな〜いなんてことあるわけないわよね、という程度よ。辰伶に限って恋愛に心を悩ますなんて…」
「……あるぞ」

 ガタガタッと大きな音を立てて、歳子と歳世が立ち上がった。2人とも目と口をポカンと開いて。何をそんなに驚くことがあるのか、辰伶は呆気にとられた。

「まさか、辰伶の口からそんな冗談が聞けるなんて…」
「冗談ではない。俺にだって、付き合っている相手くらい…」

 ガタガタガタガタガターン・・・

 クラス中の生徒が椅子や机を蹴倒す勢いでこっちを見た。だから、何なのか。辰伶は内心うろたえた。

「付き合ってるって……今現在恋人同士ってこと?」
「あ、当たり前だ」

 身を乗り出して聞き込む歳子の勢いに呑まれ、辰伶は答えた。

「この学校の生徒? 同じ学年?」
「学校は…佐邨井高校…」
「他校生ね。可愛い系? 綺麗系?」
「綺麗系…かな? いや、可愛いとも思う」
「どこで、どうやって知り合ったの?」
「どうって……ええい、そんな事、どうだっていいだろう!」

 語れるか!と、辰伶は心の中で一喝した。恋の相手は血の繋がった異母弟で、綺麗で一見冷淡そうに見えるが実は情熱的で、強情で我侭なのは誰にも流されない強い意思を持つからで、好き勝手に生きてるようでも本当は深く自分の事を想ってくれている、辰伶にとって唯一無二の、世界で一番大事な存在だなんて、太陽よりも輝かしく、天使よりも愛くるしく、宝石よりも魅惑的な螢惑のことを、そんな軽々しく他人に話せる筈がない。

「どうして隠すんですかぁ?」
「プライベートだ。貴様に報告する義務は無い」
「いいじゃない。ケチねえ」
「俺がどこの誰と付き合おうと自由だ。なあ、歳世……歳世?」

 いつの間にか歳世の席は空になっていた。

「歳世ちゃんなら帰りましたわ。早退するって」
「体調でも悪かったのか?」
「顔色変わってましたもの。…あれは重症ね」
「重症だと!? 1人で大丈夫なのか? 付き添いは?」
「むしろ独りにしてあげた方がいいかも」
「友達がいの無い奴だな」
「男が女の友情に口出ししないで下さいな。それより、ノートはいいんですか?」
「あっ!」

 そうだった。今の騒ぎですっかり忘れてしまっていたが、歳世からノートを借りるところだったのだ。目的のノートを借り受ける前に、歳世は帰宅してしまった。後日にすればいいのだろうが、出来れば習ったことはその日のうちに内容を消化しておきたい。これでも名立たる進学校。1つ理解が滞ると、たちまち授業からおいて行かれてしまう。取り戻せないことはないが、大変な労苦であることは必至だ。

「良かったら、私が貸しましょうか?」
「……お前が?」

 歳子のノート。繰り返すが理系科目は全国レベルでトップクラスの彼女の数学のノートは、内容的には悪くはない。しかし、彼女の独特な丸っこい文字は、読むに耐えない程、辰伶には我慢ならないものだった。

「遠慮する」
「あら、これでも?」

 眼前に広げられたノートに、視線をお座成りに走らす。瞬間、辰伶は瞠目した。

「これは…」
「よっくご覧になって」
「これは……歳世のノートじゃないか!」
「そうでーす。歳世ちゃんの鞄の中から抜き取っておきましたぁ」

 信じられない事をする女である。いくら友達だからといってこれは無い。親しき仲にも礼儀ありだ。

「非常識だろう。そんな無断で…」
「で、要るの? 要らないの?」
「…………」

 答えを出すのに長い時間は要らなかった。辰伶は無言で歳世のノートを受け取った。歳世から借りる話自体はまとまっていたのだし、許可を貰ったものと思って良いだろう。良い筈だ、と辰伶は自分を納得させた。

「じゃあ、ノートのお礼に、今日の帰りにお茶を奢って下さいね」
「はあ? 礼を要求するのか。貴様のノートじゃないくせに」
「それが手に入ったのは誰のお陰かしら。どんなサービスにも代金は付き物ですわ。あ…と、お金の方が良かったかしら」
「こんなことを商売にしているのか…」

 呆れ返って溜息がでる。しかし、はたと思った。考えようによっては、これは…

「歳子、茶でもスイーツでも何でも奢ってやる。少し相談に乗って欲しいことがある」
「内容によっては相談料取りますわよ」

 辰伶は了承した。高校生の身分で金銭のやり取りをするのは感心すべきことではないが、ともかく裕福に育った辰伶は金で買える物に対して出し惜しみしない性質だ。

「あ、歳世ちゃんにも何かお礼下さいね。お茶とか映画とか」
「そうだな。もともと彼女のノートだし」
「これが女の友情なのです」
「何か言ったか?」

 歳子はクスリと笑った。

「独り言よ」


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