楽園生まれの恋人

-4-


 辰伶はジュゴンの抱き枕に背を向けて、さっさと土産売り場を出て行ってしまった。早足な背中を追って、俺は声をかけてみた。

「買わなくて良かったの?」
「…あんなもの、別に欲しくなんかない」
「ふうん…」

 本当は欲しかった癖にムキになっちゃって。辰伶ってこういうところが凄く解りやすくて、ホント、可愛いと思う。そういう態度をとられると、有無を言わさず腕の中に抱き込みたくなるけど、ダメダメ。今日はHいことは無し。そんなこと、辰伶と取り決めた訳じゃないけど、俺は決心している。カラダだけが先走ってる関係だから、今日のデートでココロを追いつかせる。多分、辰伶もそう望んでる。俺だって、辰伶の身体だけじゃ嫌だ。心も全部欲しい。

 でもこのハードル、結構高いなあ…。だって、辰伶の仕草の1つ1つが俺を刺激するから、体が勝手に反応しちゃうんだよね。辰伶はもっと自分の魅力を自覚して、自重するべきだ。

 辰伶が可愛いから叶えてあげたいけど、ジュゴンの抱き枕は許さない。ただの枕の癖に、毎晩辰伶と同衾して抱き締められて寝るなんて、厚かましいにも程がある。辰伶の抱き枕は俺だけでいい…

「…ごめん」
「何か言ったか?」
「ううん」

 小さな謝罪は辰伶の耳には届かなかったみたい。聞こえないように言ったんだから、当然だけど。本当にごめんね。全然自覚なかったけど、俺って独占欲が強い。周りからは淡白だって言われてるし、自分でもそう思ってた。特に恋愛なんかに執着なんてしないはずだったのに。

 自分勝手でごめんだけど、でも、辰伶にはデートを楽しんで貰いたい。何か辰伶の好きそうなものは…

「あ、ねえ、3時からイルカのショーがあるみたいだよ。行く?」
「10分前か。時間的にちょどいいが、席があるかな…」

 フードカウンターで飲み物とスナックを購入して、ショースタジアムに入った。開演間近だから、やっぱり観客がいっぱいで、前の方には全くと言っていいほど空席は無かった。でもベンチシートだし、後ろの方の席なら割と余裕で座れる。適当なところで腰を下ろした。

「あ、ほら。始まるぞ」

 飼育員の合図で、イルカが3匹泳いできて、一斉にジャンプした。客席から歓声と拍手が沸きあがる。辰伶も眼を輝かせて手を叩いた。

「すごいな」

 子供のような混じり気の無い笑顔で辰伶はイルカの演技を賞賛する。ああ、綺麗だ。凄く綺麗…

 俺はトイレにいく振りをして席を立ち、少し離れたところでカメラを構えた。ショーに夢中になっている辰伶は気付かない。そのまま気付かずに、楽しんでいて欲しい。楽園に生まれて、楽園で育ったように、無邪気に笑ってくれたらいい。

 辰伶がずっと綺麗でいられる方法を、俺は知りたい。彼の笑顔をファインダーに収め、俺は何度もシャッターを切った。


 イルカのショーを堪能した後、俺達は館内の展示を全て見尽くして、最後にもう一度ジュゴンの水槽を訪れた。やはりジュゴンの泳ぎが1番好きだ。ゆったりと優雅で、いつまでも眺めていたくなる。

 パシャリ

 シャッター音に我に返った。何気に音の方を見ると、螢惑がカメラのレンズを真っ直ぐ俺に向けていた。え、と思う間もなく、写真を撮られた。

「……撮るなら撮ると言え」
「辰伶があんまりイイ顔してるから。でもさ、そんなに色っぽい目つきで、俺以外の男を見ないでよ」
「男って、俺はただジュゴンを…」

 はたと気付いた。そういえば、ジュゴンの『ケンイチくん』はオスだった。

「…俺はジュゴンを恋愛の対象にする趣味は無いぞ」
「うん。俺もジュゴンが恋敵なんてやだなあ」

 天然め。

「お前こそ…」

 それを言うなら、お前こそ、

「……『アカリちゃん』というのは、お前の何だ」
「え?」

 嫉妬まるだしのセリフを言ってしまったことが恥ずかしくて、居た堪れなくなった俺はその場から一目散に逃げ出した。

「あ、辰伶」

 館内をほぼ全力で走ったから、衆目を集めてしまったことだろう。そんなことを気にかけなかった訳ではないが、それ以上に、螢惑の前で醜態を晒した無様な自分を消してしまいたかった。

 折角の初デートで、俺は何をしているのだろう。折角、螢惑が誘ってくれたのに。折角、楽しい時間を過ごしていたのに台無しだ。

 水族館の出口を飛び出した処で、後ろから腕を掴まれた。

「待ってよ、辰伶」
「は、放せ」

 腕を捩って振っても、螢惑の手を外すことができない。力の差は無いはずなのに、どうしてだろう。振り解けない。

「放してあげるから、逃げないで聴いて」

 俺は逃亡を放棄した。少し低めの、螢惑のこの声に、俺はとても弱い。俺が抵抗をやめたにもかかわらず、螢惑の手は依然として俺の腕を強く掴んだまま、熱っぽい瞳で言った。

「俺が抱きたくなるのは、辰伶だけ」

 その声でそのセリフは反則だ。螢惑は己の魅力を自覚して自重するべきだ。

 螢惑の声には不思議な魔力があるに違いない。初めて『好きだよ』と言われた時から、解けない魔法をかけられてしまったようだ。でなければ、こんなにも螢惑が愛しい理由が解らない。

「どうしよう……俺……」
「何がだ?」

 螢惑には珍しく途方にくれたような、少し情けない声で言う。

「今日は…今日だけはH無しのつもりなのに。初デートなんだから我慢しようって、決心してたんだけど……」

 俺は螢惑の手首を強く掴んだ。螢惑は驚いた顔で俺を見上げたが、構わず引きずるようにして、俺は歩き出した。この時の俺が何を考えていたかなどとは、頼むから聞かないで欲しい。考える余裕なんてある筈が無い。そこにあったのは衝動だ。周囲が見えなくなってしまう程の衝動と、焼け付くような愛しさだった。

「ちょ……辰伶、ここって……ラブホ…」
「解っている」

 言うな。何も言うな。自分が何をしているか十分承知しているから、俺を正気に戻すな。俺は今『恥』という単語と激戦中なのだから。…ん?部屋を選べばいいのか?よく解らん。

「…あのさ、辰伶。灯ちゃんは、ただのツレ達の中の1人だよ」
「解っている」

 畜生、俺だってこんなところに入るのは初めてなんだ。手続きがよく解らなくて、手間取ってしまう。

「今日のデートに寝坊しないように、電話で起こしてくれるように頼んだから…」
「解っている」
「お礼にお土産買っていかないと恨まれると思って……てゆーか、辰伶、聞いてないよね…」
「解っている」

 後になって今の自分の行動を激しく後悔する事になると、正確に未来を予知することができた。だが、それさえどうでもいいと思った。どうなっても構わないから螢惑が欲しい、螢惑に求められたいという欲望が、全てに勝っていた。


⇒5へ