楽園生まれの恋人
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辰伶が予想した通り、俺達が昼飯を食べだしたころからレストランは急に込み出して、お金を払って店を出る頃には空席待ちの列が出来ていた。良かった。俺、行列に並ぶのって嫌いなんだよね。
「さて、どこから回ろうか」
辰伶は水族館のパンフレットを、俺にも見えるように広げた。そういえば、ここは見学順路とかが全然決まってないんだっけ。
「辰伶は何が見たいの?」
「何って…全部見たいんだが…」
「ああ、うん。俺が聞きたかったのは、辰伶が一番見たいと思ってるのは何かってことだけど。辰伶って天然だね」
「ちょっとした見当違いを天然ボケ扱いするな。それに、そうだとしても、お前にだけは言われたくない」
「何で?」
パンフレットを覗き込むふりで、辰伶に頭と肩を寄せて密着する。さてと、バカップルコースに突入するか。
「じゃあ、あっちからね」
辰伶の手をしっかり握って、強く引っ張る。辰伶はよろめいて、俺を少し見上げる加減になった。大きく見開いた瞳がなんだか幼くてそのまま抱きしめたくなったけど、今日はH無しの予定だから我慢。俺は無暗に引っ張り回して辰伶を困らせ続けた。辰伶はこういうデートがしたかったんでしょ?
「け、螢惑…」
「あ、見て。ジュゴンのケンイチくんだって。ケンイチくんは泳ぐの苦手なのかなあ。酸素ボンベつけてるよ」
「…それは水槽を清掃している人だ」
「え、そうなの?」
水槽の底に張り付くようにして掃除している『ケンイチくん』を遮るように、目の前を大きな胴体が横切って泳いでいった。
「君がケンイチくんなんだ。ごめんね、人違いして」
「やはりお前にだけは、天然呼ばわりされたくないな」
「何で?」
本当に何でだろう。皆からそう言われる。
螢惑の天然ボケに呆れながら、人魚の正体とする説の1つにジュゴンがあったことを、俺は思い出していた。子に乳をやるジュゴンの姿を見間違えたというのだが、こうして実際のジュゴンを見る限り、如何に泥酔して前後不覚になろうとも、この生物と人間の女性を間違えるなんてありえないと思う。
…しかし、素面で水族館の係員を見てジュゴンと思う奴も世の中には居るわけで、俺は人間の感覚や感性について少し懐疑的な気分になった。
主観は人それぞれとして、美女には見えなくてもジュゴンは十分に可愛らしい。顔は愛嬌があると思うし、泳ぐ姿は実に優雅で綺麗だ。俺はすっかりジュゴンの虜になってしまった。一通り見終わったら、最後にもう一度見に来よう。
施設はテーマごとに幾つも部屋があり、珊瑚礁の海や、極地の海、或いは陸の水辺の生物などを、俺たちは巡った。特別企画展示のクラゲは水の流れに乗って浮遊しているだけなのに、何故か見ていて飽きない。世界中のカエルの水槽が並ぶエリアでは、朽木や葉に紛れたカエルを見つけ出すのについつい真剣になってしまった。
「ほら、辰伶。奥の垂れ下がった葉っぱに張り付いてる」
「…解かっている」
俺がどんなに目を凝らしても見つけられないカエルを、螢惑があっさりと見つけてしまうので何だか悔しい。そんな俺の心を見透かしたのだろうか、螢惑が笑みをこぼしたので、余計に悔しくなった。悔しいが、俺は滅多に見られない螢惑の笑顔が好きだ。今日の螢惑はいつもよりもよく笑うから、その度に幸せな気持ちになってしまう自分の単純さが本当に悔しい。螢惑を好き過ぎるのが悔しい。
「あ、お土産売り場だ。ちょっと見ていい?灯ちゃんにお土産買ってかないと…」
「…灯…ちゃん?」
「うん。朝、起こしてもらったし、恨まれるから」
「……」
螢惑の口から俺の知らない名前が出たからといって、何も動揺する必要などないのだ。解かっているのに、アカリという人物と螢惑の関係を尋ねることができない。螢惑はアロマキャンドルを見ている。中にイルカの入った海のイメージのゼリーキャンドル。ああいう可愛らしいものを好む娘なのだろうか…
いかん。不毛な思考に嵌まり込む前に切り替えよう。俺は見るともなしに店内をぶらついた。ふと、ジュゴンの大きなぬいぐるみが目に付いた。近づいて手にとってみるとそれは柔らかなタオル地の抱き枕で、この水族館のオリジナル・グッズだ。幸せそうに眠るジュゴンの表情に心が和んだ。
「それ、買うの?」
いつの間に背後にいたのか、突然の螢惑の声に驚いて、俺は慌てて商品を元に戻した。
「いや、これは…ちょっと手にとってみただけで…」
「ごまかさなくていいよ。欲しいんでしょ?……意外だけどね。辰伶にこんな可愛い趣味があったなんてさ」
「……」
「買わないの?」
そう言って螢惑は勧めるのだが、その声も視線もどこか白々しく乾いている。ぬいぐるみなどを欲しがるなんて、女子供みたいだと言っているようだ。実はちょっと欲しいかなと、一瞬だけ思わないでもなかったのだが、とても買い辛い雰囲気になってしまった。
「ふかふかで可愛いよね。ほら、我慢しないで買ってくれば」
やっぱりこれは挑発だ。どうしてこれを買う邪魔をするのか。螢惑は俺に何か恨みでもあるのか?