幸せの距離
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辰伶は自室で1人、写真集を眺めていた。美しい外国の風景。この写真集は螢惑からの誕生日プレゼントだ。螢惑自身は辰伶からのプレゼントを頑として受け取ってくれなかったが、だからといってその当てつけに、プレゼントを拒否したりはしなかった。プレゼントを贈りたい気持ちも、それを選ぶ苦労も身に染みていたからだ。
螢惑が辰伶の為に選んでくれたのが嬉しくて、丁寧に、大切にページをめくる。この地上に存在するのが信じられないような自然の造形美。その全てを、いつか共に見に行きたいのだと、螢惑はそう言ってくれた。
「世界にはこんな美しい景色が存在するのだな…」
行ってみたい。螢惑と2人で。そこにはきっと見たこともない美しいものがあるに違いない。辰伶は子供の様に憧れを膨らませた。
「さて、時間だ」
辰伶は写真集を閉じ、大事に書棚に収めた。今日はスーパーの特売日。タイムサービスのじゃがいもを庵奈に頼まれていた。昨今では学校帰りだけでなく特命が来る。辰伶は静かに闘志を高めた。特売は戦場、情けは無用と、庵奈の教えを反芻する。
つい先日も、庵奈に頼まれた数量限定のトイレットペーパーを提げて歩いていたら、見知らぬ女子高校生に「そんなものを持たないで!」「イメージを壊さないで!」と号泣された。意味不明だが、きっと彼女は自分が買えなかった特売品を辰伶が手にしているのを見て悔しかったのだろうと、辰伶は思う。1人につき2パックまでの頼まれ物だったので、申し訳ないが分けてやるわけにはいかなかった。勝者には目玉商品、敗者には涙。特売は非情だ。
庵奈に便利に使われていることに、辰伶は気づいていない。
ただいま
おかえりなさい
この平凡なコミュニケーションを、螢惑に思い出させてくれたのは辰伶だ。螢惑の母親が生きていた頃でさえ、帰宅した螢惑の呼びかけに応える声は無かった。「ただいま」なんて、そんな日本語が存在することさえ半ば忘れてしまっていた。螢惑が忘れるべくして忘れてしまった言葉だった。
おかえり、螢惑
ただいま、辰伶
辰伶がくれた日常が愛しい。「おかえり、螢惑」と言ってくれる人がいる場所が螢惑の帰る場所、螢惑の家だ。
「ただいま」
自室のドアを開けながら、いつの間にか自然と口から出るようになった。
いつも必ず返る声が、今日は返らなかったが、珍しく自分の方が帰宅がが早かったのかと、螢惑は特に気にもとめなかった。しかしドアを開けた姿勢のまま、そこから一歩も動けなくなった。辰伶がいない。代わり迎えたのは、螢惑を睥睨する冷たい目。今まで一度もこの離れに訪れたことなどなかった父親の姿があった。
「何してるの…」
螢惑の問いに答えず、父はコルクボードに止められている写真を一瞥すると、それを乱暴に引き剥がして、螢惑に突き付けた。螢惑と辰伶が微笑んでいる、初めてデートした時の写真。
「本当だったとはな。あの男が言ったのは」
誰が何をと尋ねるまでもない。辰伶を強請ろうとした使用人が、父に2人の関係のことを告げたのだ。螢惑には脅しが通用しなかったので、ターゲットを父親の方に変更したのだろう。
「あいつは?」
「解雇した。あんなチンピラの戯言で動揺するような家ではない。醜聞の1つや2つ世間に流れたところで、庶民には数ある娯楽の1つだ」
父はこの家の当主として、ゴシップの影響の程を冷静に見切っていた。庶民という言葉にもにじみ出ている傲慢さで、ゲスな脅迫者など歯牙にもかけない態度だ。
「復讐のつもりか?」
「どういうこと?」
「辰伶を誑かしたのは、この家に対する復讐のつもりかと聴いている」
螢惑の頭にカッと血が昇った。父の言葉は螢惑と辰伶に対する侮辱だ。復讐なんて下らない理由で、螢惑は辰伶を求めたのではない。辰伶だって、螢惑の復讐心を憐れんだのではない。純粋に互いの魂を欲しただけだ。
「誑かしても、誑かされてもない。俺たちは…」
「くだらん」
父親は憎々し気に、写真を2つに引き裂いた。その瞬間、螢惑の怒りと憎しみが爆発した。
「殺すっ!」
螢惑はナイフを握りしめて父親に突進した。
「だめだ、螢惑!」
ナイフは父の身体に達する前に、飛び込んできた辰伶の全身で止められた。殺意に昂ぶる螢惑の背中を、抱きしめる辰伶の腕が優しく労わる。
「落ち着け、螢惑。こんなこと、お前はしなくていいんだ。実の親を殺すなんて、そんな哀しいこと、しなくていい…」
なだめるように、静かにゆっくりと囁かれる辰伶の声に、螢惑は冷静さを取り戻してきた。強張っていた手からナイフが離れる。
「辰伶……」
辰伶の身体が預けられてくるのを、螢惑は受け止めた。抱きしめる腕に重みが増していく。
「辰伶っ!」
螢惑のナイフは辰伶の腹部を刺し貫いていた。赤い血が2人の服と床を汚していった。