幸せの距離
-2-
辰伶が目覚めたのは病院のベッドの上だった。どういう状況にあるのか、すぐには認識できなかったが、腹部に鈍く違和感があることに気づくと、次第に意識がはっきりしてきた。辰伶に色々と処置を施した医者と看護師が病室を出て行くと、辰伶の母と2人きりになった。どうやら個室らしい。
「具合は如何ですか?」
「痛みはあまりありませんが、違和感が酷いです」
「麻酔が効いているのかもしれませんね」
「切れたら痛いでしょうね」
「覚悟することです」
2人は声を立てずに笑った。軽口によって作られた穏やかな空気が、躊躇うことなく辰伶に疑問を口にさせた。
「螢惑は?」
「遠くへやりました」
「そうですか……」
この度の刃傷沙汰は事件にはなっていないということだ。病院の院長に話を通して、警察に通報しないようにしたそうだ。世間体を気にしただけかもしれないが、螢惑が前科者にならないことに、辰伶は安堵した。
あの時、庵家にじゃがいもを届けた辰伶は、いつものように螢惑の住む離れに行った。普段は辰伶の方が先に居て、アルバイトを終えた螢惑が帰宅するのを迎えることが多いのだが、そんな事情でこの日は螢惑が帰り着く方が先だった。ドアが開いていて、話し声がした。その不穏な内容に慌てて部屋に駆け入ると、父親に対峙する螢惑がナイフを握っていた。辰伶の窮地を救ってくれたあのナイフ。それを目にした辰伶は無我夢中で飛び出していた。
「螢惑を何処へやったのですか?」
「螢惑さんに会いに行くのも、連絡をとることも許しません。あなた達を引き離したのは、螢惑さんに対する罰です」
辰伶は敵意を込めて母を睨んだ。母は平静を崩さず、その視線を受け止めた。
「螢惑が一方的に悪いのではありません。罰というなら俺だって…」
「一歩間違えば、あなたは死んでいたかもしれないのですよ」
「そんなこと、どうでもいい」
「良くありません。冷静に、逆の立場で考えてごらんなさい。あなたを殺してしまっていたかもしれないのですよ。螢惑さんが罪の意識に苛まれてどれほど苦しんでいるか、少し想像すれば解るでしょう」
「だったら尚更、螢惑に会って話を…」
「聞き分けのない!」
いきなり母に頬を張られた。怪我人になんてことをしてくれるのだ。辰伶は頬と腹の傷を同時に押さえた。
「螢惑さんみたいな繊細な子が、このままあなたの傍に居続けることは苦痛に違いありません。だから罰を与えて罪を償わせてやるのです」
「……」
「螢惑さんの心痛が癒えたら、向こうから会いに来てくれるでしょう。それまで待ちなさい」
母の措置は螢惑の気持ちを慮ってのことだった。このように言われては、辰伶は反論できなかった。
「螢惑さんも、あなたぐらい図太い神経を持ってたら良かったのだけど」
「図太い…」
「実家の世話になって独り立ちする力をつけるために関係を隠しておこうと画策する根性の持ち主を図太いと言わず何だというのです」
「…返す言葉もありません」
「あなたにしては上出来でしたが」
変な褒められ方をされて、辰伶は複雑な気持ちになった。
「螢惑のことが嫌いじゃなかったんですか」
「しっかりした、いい子じゃないの」
それにしては、母の螢惑に対する態度は、あまり好意的ではなかったように辰伶は思う。そもそも螢惑を離れに住まわせたのも、母に螢惑の姿を見せない為だったはずだ。
「いきなり螢惑さんを連れてきて、さっさと離れに隔離して、それを私の為と言われてもね。螢惑さんをこの家に迎えたいというのなら、きちんと相談してくれれば協力したのに…」
「へそを曲げてたんですね」
「めんどくさい人間だと言う自覚はあります」
事実として辰伶の母がこの家を支えている。彼女の差配なくしてこの家は立ち行かない。だから誰もが彼女の機嫌を損ねないように憶測して動く。そこに生まれたひずみだ。勝手に決めつけず、きちんと話し合って、彼女の意向を確かめるべきだったのだ。
「だから、辰伶さんが、螢惑さんと仲良くしたいと、はっきり言ってくれたのはとても良いことでした」
そもそも彼女は辰伶と螢惑の関係をとっくに知っていた。辰伶が螢惑の勉強をみていると下手な言い訳をした時には感づいていたし、2人が庭でキスしているところも目撃していたそうだ。しかし、辰伶が螢惑の為に慎重になるのも理解できることだったので、知らぬフリをしていてくれたのだ。
「辰伶さん、あなたは跡継ぎをつくる気はないということですか?」
「はい」
「それではこの家の家督を譲るわけにはいきませんよ」
「解っています。家を継がせてもらおうとは思っていません」
「あなたの覚悟は解りました。あなたの相続の権利を全て剥奪します。でも、あなたが私の息子であることは、一生変わらないのだということは、覚えておきなさい」
まるで死刑を宣告するような厳しさで言われたが、内容的には、辰伶をこの家から自由に解放した上で、なおも親子の縁は切らないというのだから、情に溢れた優しいものだった。
「意外と甘いのですね」
「母親ですから」
母はさっさと病室を出て行ってしまった。まさか、息子に対して照れているのだろうか。螢惑が評した通りに繊細な人だ。
辰伶は間違いに気づいた。誰よりも母を味方にせねばならなかったのだ。いや、母が味方だったことに気づかねばならなかったのだ。
退院して怪我が完治しても、辰伶に自由はなかった。登下校は車で送迎され、外出は監視つき、交友も制限された。
「見透かされたか…」
螢惑には会いに行くなと諭されたが、辰伶はそれを聞くつもりはなかった。母はああ言ったが、螢惑本人から聴いたわけではない。それこそ勝手な決めつけで、もしかしたら螢惑は辰伶に会いたがってくれているかもしれない。
そう思った辰伶は、怪我が治って動けるようになったら螢惑を自力で探しだすつもりだった。それを読まれての、軟禁状態だ。
「螢惑…」
初めてデートした時の写真。螢惑は辰伶ばかり写していたから、螢惑の写真は2人で撮ってもらったこれしかない。
『好きだよ』
写真の螢惑から声が聞こえたような気がした。辰伶を虜にしてしまう魔法の言葉。思い出すたびに、辰伶は螢惑に恋してしまう。永遠に恋に落ち続けてしまう。
そんな高校生活が終わり、辰伶は大学に進学した。さすがに監視も緩くなり、行動の自由は格段に広がった。
さあ、螢惑を探しに行こう。
行動開始しようとした矢先だった。あれほど厳しく隠されていた螢惑の居場所を母から教えられた。またしても辰伶は見透かされていたのだ。
「アメリカ…」
螢惑は海外に留学させられていたのだ。念の入ったことだ。絶対に2人を会わせるものかという執念を感じる。それが何故今になって明かされたのか。
留学先のアメリカで螢惑は行方不明になってしまった。下宿先のアパートを飛び出した螢惑がどこへ行ってしまったのか、辰伶の母も追跡できなかったそうだ。
それを聴いて辰伶は、螢惑を探す為に闇雲に飛び出せなくなった。広いアメリカを当てもなく探すなんて現実的ではない。自己満足ぐらいはできるだろうが…
この家の庇護下から飛び出した螢惑は、どうして会いにきてくれないのだろうと辰伶は思った。まだ罪悪感が螢惑を苦しめているのだろうか。だったら哀しい。
そうだとしても、辰伶は諦めようとは思わなかった。何故なら、朔夜の占いの結果は既に変わっているのだから。
辰伶の未来が朔夜の占い通りなら、仕事はうまくいき、金に困ることもなく、大きな病気も怪我もしない。辰伶は腹部に残る傷痕を撫でた。この怪我を負ったときには、未来は既に変わっていたということだ。
螢惑が自分の意志で帰ってきてくれるまで、辰伶はこの家で待ち続けることを決心した。辰伶が居場所を変えてしまったら、螢惑とすれ違ってしまうかもしれないから。どんなに離れていても、今は会えなくても、螢惑と共に描く未来だけは絶対に諦めない。
『好きだよ、辰伶』
写真の螢惑から、今日も魔法の言葉が聞こえる。
おわり