予兆
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螢惑と親しく交流したいと、辰伶は母にはっきりと宣言した。辰伶の母にとって螢惑は夫の不貞の証であるのだから、それは子として母に対する裏切りも同然だった。しかし螢惑と共に歩む為には絶対に避けられないことだ。
辰伶は母が嫌いではない。この世に生命を与えられ、大切に、献身的に、十分に愛情を注がれて育てられ、その恩は一生かけても返しつくせるとは思えない。その母の心を傷つける行為に心が痛まなかった訳ではない。感謝、親愛、尊敬など、言い尽くせない想いをひっくるめた母への慕情だが、それでもそれと螢惑に対する恋情を秤にかけることはできなかった。どんなに大切に思うものよりも、螢惑を選びたい。今度こそ螢惑に手を伸ばしたいと辰伶は思った。
「今度こそ?…おかしなことを」
辰伶は離れの炊事場で螢惑の為に弁当を作っている最中だったが、ふと覚えた感覚の奇妙さに、つい声にして呟いてしまった。まるで過去には螢惑と共に生きることを諦めてしまったことがあるような、そんなありえないことがあったような感触。
もしかしたらそんなことがあったのかもしれない。あの占師は、辰伶と螢惑の縁は前世のそのまた前世の、途方もなく遥かな過去から遥かな来世へ続いていると言った。2人は結ばれぬ代償によって、人生で為すべきことを成し遂げる宿命であるのだと。前世の辰伶は螢惑と生きることを諦めて、生涯を他の何かに費やしたのかもしれない。それが今生まで心に残ってしまっているのかもしれないと、辰伶は空想した。
「そうだとしても、だったらどうするというでもないし…」
あの占師は未来読みであった。彼女の兄、過去見の占師に視て貰えば解るそうだが、辰伶はそれが必要であるようには思わなかった。前世というものがあったとしても、それはそれだ。今の自分とは違う。知ったところで何の意味もないと辰伶は結論付けた。
前世で叶えられなかったから今世で執着するというなら、今生で螢惑と結ばれたら満足してしまって来世以降はどうでもよくなってしまうことにならないか。来世でも螢惑に恋するとは限らないが…
「それは無いな。螢惑よりも魅力的な人間が存在するはずがない。螢惑が俺に恋してくれるかどうかは解らんが…」
螢惑は夜のバイトに行ってしまって今はいない。辰伶はそれが少し不満だ。螢惑が生活費を稼いでいるのは夕方のバイトの方で、夜の方は代価を金銭で受け取ってはいない。夜のバイトの代価の1つは中古のカメラ現物で、それは既に手にしている。その他には写真撮影の技術と晩飯。螢惑には辰伶と過ごす時間よりも他に手に入れたい何か夢があるのだろう。庵家での団欒も、きっと螢惑には大事なものの1つなのだ。
辰伶は何を捨ててでも螢惑を手にしたいが、螢惑にとっては辰伶が全てではないかもしれない。いつか螢惑はこの家を飛び出して彼が志すどこかへ行ってしまうのだろうと辰伶は思う。だから、その時にはそれがどんな場所であっても、螢惑についていけるだけの能力を辰伶は身につけなければならないと思っている。料理もその1つだし、将来の経済力に直結するであろう、学力もそうだ。今すべきことは、何一つ疎かにできない。
勿論、健康や体力も重要だ。しかし、それについては、いささか怠ってしまっている感がある。螢惑との情事には双方歯止めがきかないし、色々なことに手が抜けない分、睡眠時間は常に不足しがちだ。螢惑は気遣ってくれるが、弁当作りはやめたくない。今の辰伶が螢惑の為にできる精一杯の気持ちで、何よりも辰伶が楽しくてやっているのだから。
「前世で添い遂げられなかったのだとしたら、それは恐らく努力が足りなかったのだ。大体、生涯かけて成し遂げねばならんような使命がそうそうあってたまるか。しかも螢惑と引き換えにしてまでなんて」
努力あるのみ。辰伶は一途に直向きに螢惑の為に弁当を作った。その背後から不穏な影が近づくが、弁当作りに没頭する辰伶は気付かない。突如として背中から抱きすくめられ、辰伶は驚いて身を捩った。螢惑ではない。
「誰だ!何をする!」
「危ねえなあ。そんなものを無暗に振り回すんじゃねえよ」」
男の声。拘束を振り解くことができないので顔は見えないが、声は辰伶の家に雇われている使用人のものだ。男は辰伶の手から包丁を取り上げてまな板の上にに置いた。
「何のつもりだ」
「騒ぐんじゃねえぞ。人を呼ばれて都合が悪いのはそっちだからな」
「どういう意味だ」
「お前たち兄弟がここで何をしているか詳しく言ってやろうか」
「……っ」
男は『兄弟』という単語を奇妙に強調して言った。この男は知っているのだ、辰伶と螢惑の関係を。辰伶は血の気が引いていくのを自覚した。
「……金銭か?…言っておくが、俺はまだ扶養されている身だ。大した金額は用意できないぞ」
「解ってるよ。いずれお前が財産を相続したら、特別待遇してくれりゃいい。それまでは小遣い程度で我慢するさ」
「この先ずっと、ゆすり続けるつもりか」
男は低く忍ぶ声で笑った。その卑しく歪んだ調子に辰伶は嫌悪した。
「……解った」
この男は辰伶が螢惑と共に家をでるつもりだとは知らない。その時には螢惑との関係は秘密ではなくなるから、自然とゆすりのネタは消滅する。それまでの辛抱だと辰伶は考えた。
「承知したと言っているだろう。いい加減、放せ」
未だ拘束されたままの状態に辰伶の苛立ちは限界を超え、声を荒げた。しかし男は辰伶が身じろぐことを許さず、辰伶の手首を掴む手には尚強く力が込められた。密着された背中が気持ち悪い。
「口約束じゃ心許ねえからな」
「…誓約書を書けとでも?」
「紙切れなんて下らねえ。もっと確実な担保をもらっとくぜ」
辰伶を押さえつける男のもう一方の手が辰伶の着衣の中に捩じりこまれた。辰伶の素肌の上を隠微に動き回る。男の意図を辰伶は察した。より大きな秘密を共有しようと言うのだ。誰にも明かせない、螢惑にも相談できない秘密で辰伶を縛り、一生付きまとって強請ろうというのだろう。それにかこつけて自身の性癖を満足させたいだけかもしれないが。
比喩表現で為しに鳥肌が立った。しかし辰伶は抵抗しなかった。まだ駄目だ。まだ家を出る力はない。螢惑も守れない。まだ全然力が足りない。家を出るまでの辛抱だ。螢惑との未来を掴み取る為なら、どんな努力も惜しまず尽くすと決心したばかりだ。こんなことは何でもない。こんなことは…
そのように考え、辰伶はこの場を耐え忍ぶことを選んだが、そんな理性では抑制できない衝動が時を置かずに膨らんで、忽ち怒りという単純な感情になった。自分の身体を他人の掌が好き勝手に動き回っている。滾る怒りの前で嫌悪や怯えなどの些細な感情は消し飛び、ひたすら怒りの感情が頭の中を真っ赤に染めた。近くにあった包丁を、意識せず握りしめた。
辰伶の怒りの刃は、しかし間一髪、振るわれることはなかった。辰伶の背中から男が引き剥がされた。何が起こったのかと振り返ると、螢惑が男を床に組み伏せていた。逃げられないよう男の胴に乗り上げ、左手は男の顎を固定し、右手は殺意に光るナイフの先を、男の眼球を今にも抉らんとするかのように突き付けている。
「螢惑…」
「俺と辰伶の関係を世間に言い触らしたいなら、いくらでもすればいいよ。それでこの家が恥をかこうが、どうなろうと俺は知らない。むしろいい気味だし。でも…」
螢惑が指先に力を込めたらしい。男が呻いた。
「辰伶を苦しませた礼はきっちり返すからね。おまえがどこに逃げようと、絶対に見つけ出して両目を抉る。殺す方が簡単だけど、お前は凄く痛い目にあって、長く苦しめばいいと思うから」
「そ、そんなことしたら…」
「警察に捕まる?前科がつく?…そうかもね。でも、俺にどんな重罰が与えられても、お前の怪我の痛みは軽くならないし、失った光は取り戻せない。きっと慰謝料がとれるね。目が見えないと色々不自由になると思うけど、お前の大好きなおカネがいっぱい貰えるからいいよね」
螢惑の声に抑揚はなく、感情の読めない目が冷たく男を見下ろしている。その静かさがかえって、人を殺すことさえ躊躇しないようで、男は背筋を凍らせた。
「実際のところ解らないけどね。傷害罪…で合ってる?俺、未成年だし、恋人を脅迫されたって事情もあるし、どれくらいの刑になるのかなあ。賠償金もどれくらいとれるのか知らないけど……もしかしたらあんまり割に合わないかもね」
はったり…ではないようだ。脅しですらない。本気というよりも本音。2人の関係を、男が世間に公表したら、本当に螢惑は実行するに違いない。それが男にも伝わったのだろう。螢惑が解放したら一目散に逃げだした。捨て台詞を吐く余裕もなく。
逃げ去る男の背中を、その姿が完全に見えなくなっても螢惑は睨み続けていたが、やがてゆっくりと辰伶に向き直った。無言だが、辰伶に対しても激しく怒っているのが解る。
「螢惑…」
怒りに燃える螢惑の目を見て、辰伶に怯えが走った。未だかつて、こんなに螢惑を怖いと思ったことがない。思わず身体が逃げに動いたが、螢惑に腕を掴まれてしまった。力強く、また強引に螢惑の部屋へ引きずり込まれ、ベッドに放り出された。乱暴に組み敷かれる。
「けい…っ」
容赦なく頬を張られて視界が揺れた。その衝撃と精神的なショックで、辰伶は全身が委縮してしまった。上手く動けない。上手く話せない。
「待っ……、やめ…」
螢惑が怒るのはもっともだと辰伶は思ったが、少しだけ落ち着いて欲しくて制止の声を上げた。押し退けるつもりだったのか、縋りつくつもりだったのか、辰伶にも解らない手が、螢惑の肩を掴む前に捕らえられてマットレスに押し付けられる。
「…っ……ちょっと……待って……」
声が届かない。心が通じ合わない。それが辰伶には酷く悲しかった。