ほたるのとっておき
-3-


 熒惑は先代紅の王に死合を挑んだ。しかし全く死合にならなかった。圧倒的な力の差だった。

 敗北は死。しかし熒惑は清々しい気分だった。やりたいことをやって人生を終えるのだから満足だった。

「熒惑、いかないで!」

 この声を知っている。

 暗闇の中で、小さな辰伶が大きな目一杯に涙を浮かべて、熒惑を見ている。

「いかないで!帰って来て!」

 小さな辰伶が必死に走ってくるけれど、2人の距離は縮まらない。熒惑は必死に手を伸ばした。その手を握り返されて、熒惑は目が覚めた。

「…あ?」

 体中が痛い。熒惑は今の自分の状況を思い出した。熒惑は先代紅の王に死合を挑んで負けたのだ。そしてここは、宿舎の寝所だ。怪我の手当てがされている。

 気づくと傍らに辰伶がいて、熒惑の手を握っていた。

「何、勝手に握ってるの。放してよ」
「な、お前が手を伸ばすから…」
「誰がお前に手を握って欲しいなんて頼んだの?」
「それはそうだが、そんな言い方…」
「痛いんだよ。放してよ」

 熒惑がそう訴えると、辰伶は慌てて手を放した。熒惑は指先から温もりが失われたのを感じた。

「何で辰伶が居るの?」
「お前が大怪我をして意識不明だと聞いたから…」
「まさかと思うけど、心配したとか?」
「悪いか」

 熒惑は瞳を眇めた。

「知らないの?俺、先代紅の王に戦いを挑んだんだよ」
「…知っている」
「だったら解ってるよね。俺はお前の大好きな壬生に叛逆したってこと。叛逆者の怪我の心配?余裕だね。むしろ俺が死ねば良かったって思…」

 その瞬間、熒惑は頬を張られた。

「乱暴だなあ。まあ、叛逆者の扱いなんて…」

 これが妥当だよねと、辰伶の偽善を冷笑してやるつもりだった。しかしそれ以上言葉が出なかった。辰伶は大きな瞳一杯に涙を溜めて、熒惑を睨んでいた。いかないでと泣いていたのは、夢の中の幻のはずだ。

(幻…だよね?)

 目の前の現実の辰伶の瞳が同じ言葉を訴えているように見える。あれは夢?それとも…?

「…鬼眼の狂の監視任務で、壬生の郷を出ることになった」
「…知っている」
「期限とか細かいことは何も聞いてないから、追放ってことかなって思うけど、まあ、面白そうだから行って来るよ」
「…そうか」

 熒惑が見たところ、辰伶は狂という漢を強く意識している。

(辰伶が俺だけを見ていればいいのに)

 狂に注がれる辰伶の視線を、自分に向けさせたいと思っていた。その自分が狂に会いにいくことになるなんて、それにはどういう意味があるのだろう。少し面白いと思った。

「…帰るよ」
「え?」
「何年かかるか解らない。俺の任が解かれる日がくるかどうかさえ解らないけど、その日が来たら一度くらいは帰るよ。お前と死合する為に」

 いつからだろう。辰伶は遠くの空ばかり見るようになっていた。口では壬生の為、壬生が全てと言っていたけれど、その癖その瞳に目の前の壬生は映っていないように、熒惑には見えた。

 死合だけが現実だった。その時だけ辰伶の瞳には熒惑が映り、そして熒惑は辰伶しか見る必要がなかった。

 狂の強さがどんなものか知らないが、会ったら死合って勝ちたいと思う。先代紅の王にも、一度は負けたけどいつかもう一度挑んで勝ちたい。強い奴に勝つことだけが、己が存在する意味だから。

 だけど辰伶とは……熒惑は辰伶とだけは、勝ち負けなどと決着をつけて終わらせずに、ずっと死合っていたいと思う。辰伶に勝ったら、さぞや気分がいいだろう。親父が大事に育てた奴よりも、親父が切り捨てた自分の方が強いじゃないか、ザマーミロと、それはさぞかし爽快だろうと思う。しかしそんな欲求よりも、辰伶とは戯れのように喧嘩していたかった。ずっと辰伶と向き合っていたかった。

「何度目になるかな。その時は俺は外の世界で強くなってるから、絶対に俺が勝つ」
「お、俺だって強くなる。貴様には負けん」
「そう。約束だね」
「貴様のようないい加減な奴の約束などあてになるものか。でも、待っている」

 辰伶の目から涙は消えていた。今は静かに微笑みを湛えている。

(泣いた顔も悪くなかったけど…)

 熒惑の中で眠っていた大切な想いが、ようやく目を覚ました。この顔が見たかったのだ。幼い日に出会ったあの頃の束の間の温かい記憶。

 子供の頃はあれほど感情豊かだった辰伶が、いつの頃からだろうか、無感動な取り澄ました顔しか見せなくなっていた。それを崩してやるのが面白くて、熒惑はわざと辰伶を怒らせていた気がする。辰伶が涙を見せた時は、ほの暗い満足感と、もっと泣かせてやりたいと言う欲望を覚えた。しかし本当に見たかったのは、屈託の無かったあの頃の…

(子供の頃みたいに、あんな風に笑えばいいのに)

 熒惑は自分が辰伶に何を求めているのか理解した…ような気がしたが、その想いは壬生の郷を離れて鬼目の狂と一緒に四聖天として過ごす日々の中に埋もれて忘れてしまった。熒惑がその想いを再び抱くには、辰伶とのもっと激しい命のぶつかり合いを必要としたのだった。


 それから色々あって、熒惑は約束通り帰郷したが、とにかく色々あって辰伶が愛した壬生の郷は崩壊した。

 大事なことだけ言うと、辰伶は本心から壬生の郷を愛し、壬生一族を守りたいと思っていた。それならいいと熒惑は思う。父親の呪縛でないなら、辰伶の意志で壬生の為に生きるなら、それでいい。


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