辰伶の重箱
-3-
熒惑が壬生の郷から出て行くことが決まったと、それを耳にしたときに辰伶は思い知った。そして気づいてしまった。自分がずっと熒惑に恋していたことに。
満身創痍で昏睡している熒惑の枕元で、一体何日間、辰伶は祈ったことだろう。
「熒惑、逝くな。帰って来い」
熒惑は先代紅の王に死合を挑んで重傷を負い意識不明の状態だ。辰伶は一心に祈った。神を自称する壬生一族が誰に祈るのか、それさえ解らずに辰伶は祈った。
その祈りが誰に通じたのか、熒惑の命までは取られなかった。しかし熒惑は先代紅の王の命令で鬼眼の狂の監視に行くことが決定していた。
熒惑が行ってしまう。幼い頃に辰伶が魅了された美しい紅い眼を持つ漢のもとへ。
かつては辰伶と狂の強さは互角と言われていた。公正さのない傍目の評であったから、実際の所は知れない。ともかく、狂の強さが周知された今でこそ、それは賞賛であるが、昔のそれは辰伶にとって叱責と罵倒の言葉だった。無明歳刑流の長子たるお前が出自も知れない下賤な子供と互角とは恥を知れと、辰伶は父親から散々に罵られた。父親の言葉に従って辰伶は努力した。しかし辰伶がどれだけ努力しても『互角』の評価を覆すことができなかった。狂よりも勝っているとはついぞ言われることは無かった。その漢に会いに熒惑が行ってしまう。
「熒惑、行くな。帰って…きてくれ…」
何を求めてか、熒惑がゆっくりと手を伸ばした。辰伶が咄嗟にその手を握り返すと、熒惑が目を開けた。
「…あ?」
目覚めてすぐの熒惑はここが何処でどういう状況か解っていないようだった。瞳だけをキョロキョロと動かして周囲を見ている。その目が辰伶に気づいた。
「何、勝手に握ってるの。放してよ」
「な、お前が手を伸ばすから…」
「誰がお前に手を握って欲しいなんて頼んだの?」
「それはそうだが、そんな言い方…」
「痛いんだよ。放してよ」
辰伶は慌てて手を放した。こんな状態でも拒絶されてしまう己の手が悲しい。
「何で辰伶が居るの?」
「お前が大怪我をして意識不明だと聞いたから…」
「まさかと思うけど、心配したとか?」
「悪いか」
熒惑は瞳を眇めた。
「知らないの?俺、先代紅の王に戦いを挑んだんだよ」
「…知っている」
「だったら解ってるよね。俺はお前の大好きな壬生に叛逆したってこと。叛逆者の怪我の心配?余裕だね。むしろ俺が死ねば良かったって思…」
瞬間的に辰伶の掌が跳んでいた。パンと弾けるような音が鋭く高く鳴った掌に鈍く響く痛み。何の考えもなく手が出ていた。熒惑が掌で頬を押さえている。
「乱暴だなあ。まあ、叛逆者の扱いなんて…」
熒惑が死ねばいいなんて思えるわけがない。熒惑が壬生の郷からいなくなることを考えるだけで、苦しくて堪らないのに。視界が歪んで熒惑の顔が見えない。行かないで、帰って来て、傍にいてと、口に出来たらどんなにいいだろう。どれも無明歳刑流本家の長子に相応しくない言葉だ。
2人は沈黙した。それを破って、熒惑がぽつりと言った。
「…鬼眼の狂の監視任務で、壬生の郷を出ることになった」
「…知っている」
「期限とか細かいことは何も聞いてないから、追放ってことかなって思うけど、まあ、面白そうだから行って来るよ」
「…そうか」
狂に会ったら、熒惑はきっと狂に惚れ込んでしまう。辰伶は直感していた。熒惑と狂は同じ種類の魂を持っている。この2人は同類だ。だからきっと熒惑を狂に盗られてしまう。辰伶はそれをずっと恐れていた。この日まで恐れてきた。
狂に勝てたら熒惑を盗られずに済むかも。狂より強くなれば、熒惑は自分を見てくれるだろうか。そんな望みをかけて努力したが『互角』止まりだった。やっぱり狂には勝てないのだ。熒惑を盗られてしまうのだ。
本当は辰伶にも解っている。例え、狂に勝ることができても無駄なのだ。これはそういう次元の話ではない。狂に会ったら熒惑は帰って来ない。狂という漢がどれだけ刺激的で魅力的な存在であるかということで、それに勝てる気が辰伶はしなかった。外の世界に憧れるのと同じような気持ちで、辰伶自身も狂に魅かれているのだから話にならない。熒惑を止められるわけがない。仕方がないではないか。
仕方がない。そう言って、辰伶は幾つの想いを諦めてきただろう。諦めることに慣れてしまった。諦めでもう心が麻痺してしまっていた。
諦めることに慣れているのに、熒惑に2度と会えなくなると思うと、辰伶は麻痺したはずの心が潰れそうに痛んだ。それならいっそうのこと、心など潰れて無くなってしまえばいいのにとさえ思った。
「…帰るよ」
「え?」
「何年かかるか解らない。俺の任が解かれる日がくるかどうかさえ解らないけど、その日が来たら一度くらいは帰るよ。お前と死合する為に。……何度目になるかな。その時は俺は外の世界で強くなってるから、絶対に俺が勝つ」
「お、俺だって強くなる。貴様には負けん」
「そう。約束だね」
「貴様のようないい加減な奴の約束などあてになるものか。でも、待っている」
いつまでも、例えそれが一生涯かかったとしても信じて待つ。熒惑が壬生の郷を出て行ってしまっても、この世のどこかで生きているならずっと待っている。生きてさえいてくれれば、傍にいてくれなくてもずっと愛し続ける。