辰伶の重箱
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 約束通り熒惑は狂の監視任務が解かれた後、壬生の郷に帰って来てくれた。それから色々あって、壬生の郷は崩壊し、辰伶は多くの大切な人々を失ってしまったが、熒惑と心が通じたことが辰伶の心を強くした。

『辰伶が俺の故郷だから、どこへ行っても、約束通り辰伶のところへ帰る』

 そう言って熒惑は再び郷を出て旅立って行った。本当は傍に居て欲しかった。その気持ちは言葉にせずに、辰伶は熒惑の旅立ちを許した。熒惑は『帰る』と言ってくれたのだから、信じて待っていればいい。一抹の寂しさを抱えて、時々「嘘つき」なんてこぼしながら、一途に直向きに待っていればいい。

 旅立つ前夜、熒惑は辰伶にたった1つのとっておきの場所をくれた。長く熒惑を恋い慕っていた辰伶は、それが「恋人」というポジションであることにすぐには気づけないでいた。

 諦めることに慣れ過ぎて、期待に裏切られることに慣れ過ぎて、夢とは文字通り夢であって決して現実にはならないもの。叶わないから夢。辰伶にとって夢とはそういうもの。憧れとは手の届かないものだった。だから、まさか熒惑と恋人の関係になれるなど、夢にも思っていなかったし、欠片も期待していなかった。

 思えば、片想い期間が長すぎた。自覚するのも遅かった。いつから恋していたのか解らないくらい、熒惑ばかり追っていた。今でも、辰伶の心を占めているのは唯の1人だけ。

「だがまてよ、熒惑は『今の所は』俺1人だと言った。まさかあいつ、どこかで浮気を…」
「してないよ。ずっと辰伶1人だよ」

 背後から抱きしめられた。振り向くと、辰伶が求める姿がそこにあった。

「ただいま」
「お帰り、ケイ……ほたる」
「呼びにくいなら熒惑でいいよ。辰伶だけは熒惑って呼ばせてあげる」

 辰伶は首を振った。ほたるが選んだ道を否定したくない。

「ほたる、お帰り」

 見慣れぬ衣装を着て、壬生を出る前よりも髪が伸びていて、身長も高く…と思ったら下駄が更に高くなっていただけだったが、まごうことなく辰伶の恋しく愛しい人物だった。

「辰伶こそ浮気してなかった?ちゃんと俺の恋人だって自覚ある?」
「当たり前だ」
「…ふうん」

 つい先ほど恋人と自覚したばかりだという事実を、辰伶は清々しいほどにすっかり忘れていた。実は熒惑は少し前からここに到着していて、落ち着きなく立ったり座ったりと不審な動きを繰り返していた辰伶の様子を、(カワイイなあと思って)ずっと見ていたのだが、何も言わないことにした。

「まあ、俺のせいも少しはあるかもね。ずっと『うざい』とか『嫌い』とか言ってたし…あ、そうか。『好き』って言ったこと1回も無かったっけ…でもさ、辰伶だってまだ俺に『好き』って言ってくれたことないんだけどなあ…」

 熒惑が述懐している間も、辰伶は熒惑の帰郷をまだ信じられない思いだった。約束を信じてはいたけれど、熒惑はいつも突然過ぎるのだ。

「何コレ。邪魔」

 そう言って熒惑、否、ほたるは辰伶の眼鏡を外して深く口付けた。辰伶は現実感が乏しいまま、頭の芯を溶かされてしまい、その間にほたるは消えてしまっていた。今のは夢か幻だったのか。

 辰伶が呆けている間に、ほたるは庵一家や灯など旧知の人物たちに挨拶回りに行ってしまっていたのだ。そして半壊したまま放置されていた元宿舎に住みついてしまった。

「だってここは俺が俺の力で初めて手に入れた場所だからね。それなりに愛着っていうか、思い出もあるし。…て、言っても、お前が五曜星選抜試験を受けれるようにしてくれたんだから、俺だけの力じゃなかったわけだけどね」

 ほたるが郷に帰って来た時には、これから一緒に暮らせると、半ば思い込んでいた辰伶は溜息をついた。

 本当に、ただ信じて待っていれば良いのか?それだけで良かったのか?

 ほたるを取り巻く仲間たちの中で、自分は異端な気がするのは何故だろうと辰伶は考えた。ほたると狂は同類だが、自分はそうではない。彼らと何が違うのか。

 言ってみればそれは、ほたるのどこに魅かれたのかということでもある。ほたるは自由気侭で、自分勝手で、自分の欲求を満たすことに躊躇がない。それが腹立たしくて、一方で眩しくて、羨ましくて…熒惑のように生きてみたいと思ったのだ。

 自由な熒惑が好きだから、旅立つ背中に手を伸ばせなかった。その背に縋って「傍に居て」とは言えなかった。

 そんな日々が幾日か過ぎた。噂ではほたるは知り合いをあちこち訪ねて食事にありついているらしい。

「他人からもらったものは食べないんじゃなかったか?」

 辰伶は少しばかりの嫌味を込めて聞いてみた。恋人であるはずの辰伶の家には一向に食事をねだりに来てはくれないのに。ほたるは色々とケリをつけたと言っていたけれど、やはり無明歳刑流本家には足を踏み入れたくないのだろうか。

「そんな意地を張ってた頃もあったね」
「それでもその頃のお前には大事なことだったんだろう?」
「そうだね。それを破ったら俺が俺じゃなくなるような気がしてた。でも、ゆんゆんの家でご飯食べたら、そう言えば昔はよくゆんゆんの家でご飯食べてたなあって思い出して、そうしたらどうでも良くなった」

 これも遊庵がらみかと思うと、辰伶は気落ちした。家族の絆が強いのは当然として、その絆はほたるにとっては恋人のそれよりも強いのだろう。それとも、自分が無明歳刑流本家の辰伶である限りだめなのか。

 ずっと待っていて、辰伶はもう待ちくたびれてしまった。

 以前の辰伶であれば諦めていただろう。しかしほたるから『とっておきの場所』をもらった辰伶は強くなっていた。『傍に居て』と言えないなら、自分が『傍に居る』と言えばいい。辰伶はほたるに重箱を差し出した。

「これ…」

 ほたるにも見覚えがある。五曜星時代に辰伶が毎朝持ってきていた重箱だ。

「一緒に飯でもと思って」
「いいね。良い天気だし、外で食べよう。とっておきの場所に案内するよ」

 ほたるは腰を上げると、酒壺をひょいとぶら提げて歩き出した。その後を重箱を抱えた辰伶がついて行く。

 そのまま、2人は行ってしまった。


 ほたるが着の身着のまま挨拶もせずにふらりと旅に出てしまうのは毎度のことだ。しかしまさか辰伶まで重箱1つを持ったきりで行ってしまうとは。この天然兄弟の旅立ちは壬生ではいつまでも語り草になった。


おわり