辰伶の重箱
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 熒惑は他人からもらったものを食べない。毒殺を警戒してか、他人から施しを受けるのが嫌なのか、その本当の理由を辰伶は知らない。出会った最初から彼はそうだった。

 出会いは遥か昔に遡る。その頃はまだ辰伶は熒惑が自分の異母弟だということを知らなかった。

 名家の長子に生まれた辰伶は幼い頃から暴漢に襲われることが度々であった。対立する流派からの襲撃であることもあったが、その殆どは同門の、同じ無明歳刑流派内でその地位を争う親類縁者からであった。その日も危うく誘拐されそうになったところをなんとか逃れて、知らない森に迷い込んでしまった。そこで熒惑に出会った。

 細かいことは忘れてしまったが、辰伶が記憶する限りでは、それが熒惑との初めての出会いだった。

 熒惑は見ず知らずの自分に、夜の森の危険を忠告して、一緒に夜を明かしてくれた。それは辰伶に心強さと新鮮な喜びを齎した。親戚さえも敵になるのに、彼は出会ったばかりの見ず知らずの他人である辰伶に、無条件で味方してくれたのだ。後にそれが自分の異母弟と知って、辰伶は熒惑に深い慈しみと憧憬を抱いた。

 あの時も、熒惑は辰伶が差し出す食物を受け取ろうとはしなかった。小さな栗の実を齧るだけで、あれだけでは絶対に腹が満たされるはずがないのに。辰伶が用意した焼き魚は、熒惑が熾した焚火で焼いたものだから、彼にも食べる権利はあるのに。辰伶だって熒惑の焚火にあたらせてもらっているのだから、一方的にあげるのではなくて、これは交換のようなものだ。そうだ、交換ならば彼だって…

「とりかえっこならいいでしょ?」

 それでようやく食べてもらえた。思えば熒惑に何かを食べて貰うのは本当に難題だ。

 2人が五曜星になってからのことだ。辰伶は毎朝、重箱に料理を詰めて、熒惑の宿舎へ行った。昔、熒惑と協力して夜を明かしたことが忘れられなくて、もう一度一緒に飯を食べたかったからだ。

 熒惑はいつも寝ていた。声をかけたり体を揺するくらいでは全く起きない。それで辰伶は少々強引に起こすことにした。水龍で熒惑に水をぶっ掛けて叩き起こした。当然熒惑は怒って辰伶に重箱を叩き返した。それで喧嘩をする毎日だった。

「いいかげん、料理を持ってくるの止めたら?俺は絶対に食べないから無駄だよ。勿体ないし、食べ物を粗末にするとバチが当たるよ」
「勿体ないと思うなら素直に食べろ」

 熒惑から何度も言われたが、辰伶は料理を持って行くのを止めなかった。一緒に飯を食べたいというのが一番の目的だが、喧嘩の後に一緒に風呂に入るのを楽しみにしていたというのが本音だ。風呂ではお互いの髪を洗ったり洗われたり、それが嬉しくて、辰伶は重箱を持って行くのを止められなかった。

 辰伶が散々苦労して、それでも全く食べて貰えなかったというのに、熒惑が庵家ではさも当然のように飯を食べて、しかもそれが昔からだと知った時には、辰伶は胸がモヤモヤした。絶対に誰からも食物を貰わないと思っていたから、ある意味気楽に構えていたのに、例外があったなんて。

 でも、遊庵なら仕方がないと辰伶は思う。幼かった熒惑を無条件で助けてくれた人物だ。それについては実の兄として感謝している。そんなことに嫉妬するほど心が狭くないつもりだ。何と言っても熒惑の実の兄なのだから。ああ、感謝しているとも!

 その通り、それは些細なことと言えた。それよりもよほど辰伶が衝撃を受けて焦燥に駆られたのは、熒惑が狂の監視任務で郷を出ていくことが決定した時のことだった。


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