25: 願い


 秋は辰伶の最も好きな季節だ。夏中ギラギラしていた太陽もその覇気を和らげ、乾いた風は肌に心地よい。赤や黄色に染まった森を歩けば、豊穣な秋の実りの採集に忙しない小動物たちが、岩陰に木の枝に見え隠れする。

 空は高い。果てしなく青い。幼い頃、その青色に焦がれて、大きな岩の上に爪先立って遥かな空へと両手を差し伸べた。何度も、何度も、どんなに手を伸ばしても、その青に指を染めることはできなくて、大空は辰伶にとって憧れだった。その空が四季の中で一番綺麗な秋が好きだった。

 辰伶は真っ赤に色づいたもみじの一枝を、太四老の吹雪に届けた帰りだった。吹雪は辰伶の武術の師であり、最も尊敬する人物である。

 辰伶が献上したもみじを見ても、吹雪はにこりともしなかった。枝ぶりも色づきも何も褒めはしなかったが、それでも傍の者に言いつけて花器に生けてくれた。辰伶にはそれで十分だった。

 太四老の長であった村正が壬生の郷を出て行ったのは、ほんのつい1ヶ月程前のことだっただろうか。どういう気の迷いだったのか、壬生一族の忌み子であった鬼の子を連れてのことだ。いつでも誰にでも笑顔を絶やさぬ村正の人柄を多くの者が慕っていた。壬生にとって村正の出奔は衝撃だった。

 吹雪を尊敬するのと同じくらいに村正を慕っていた辰伶も、村正の行動に酷く驚き悲嘆した。そして直ぐに吹雪のことを想った。吹雪と村正は同じく太四老の位にあり、良き理解者であり、友人だったと伝え聞く。自分でさえこれほど落胆したというのに、ましてや友であった吹雪はどれほど悲痛な想いをされていることだろう。当の吹雪は表立ってその心を曝す事はないが、推し量るに余る。

 そんな師を慰めるためなどと言ってはおこがましいが、辰伶はとにかく何かをせずにいられなかった。だから吹雪が美しいもみじの枝を手にとって眺めてくれただけで、辰伶には十分だったのである。


 土手に咲く萩の花も時期的にもう終わりがきている。赤紫の花びらは枝にあるよりも、土手や下の小径に撒き散らされている。萩の花びらに彩られた小径で、辰伶は微かに生物の気配を感じた。立ち止まって耳を澄ます。

「気のせいかな?」

 土手を見上げると、萩の藪が風の仕業でなく密かに騒めいた。

「何?イタチ?」

 野生動物の気配に似ている。しかし、どこかそれとは違う感じがする。何かいる。じっと動かない。好奇心を刺激された辰伶は、緩やかな土手を登って、好き勝手に伸びた萩の藪をそっと掻き分けた。

 生い茂る萩のしなやかな枝に守られるようにして、一人の少年が眠っていた。辰伶よりもやや年少と思われる。身体を小さく丸めて、警戒心の強い野生動物のようだ。下駄の脱げかけた白い足も。縮こまった頑なな腕も。

 少年は全身が傷だらけだった。腕も、足も、顔も、目に見えるところの肌は擦り傷や切り傷に覆われている。軽いものから血の滲んでいるもの。色の変わった打ち身の痕。着物も土や埃に汚れている。

「どうしたの?君」

 辰伶の呼びかけに、少年の目蓋がピクリと動いた。ゆっくりと開く。

「…何?」

 まだ夢を見ているような眼差し。気だるい声。

「どうしたの?怪我をしているね」
「…俺……」

 少年は上体を起こして、髪を梳かし上げた。

「ああ…俺、寝ちゃったんだ」
「寝てた?」
「うん。ここに隠れてたんだけど、いつの間にか寝てたみたい」
「かくれんぼ?こんな傷だらけで?」
「かくれんぼじゃないけど……」

 立ち上がった少年は、辰伶よりも少し背が低く小柄だった。そして驚くことに、彼の着物の右の片袖は真紅の血に染められていた。その色に辰伶は息を呑んだ。

「君の怪我、酷いんじゃないの?早く手当てしなきゃ」
「いい」

 素気ない。これ程の流血を、まるで大したこととは思っていないようだ。

「いいって……ちゃんと傷を洗わないと。…そうだ、川へ行こう」
「嫌。水は嫌いだから」

 少年は土手を下ってさっさと行ってしまう。辰伶は慌てて後を追った。

「駄目だよ。傷口はきれいにしておかないと。大丈夫、水は怖くなんかないから」

 ピタリと足が止まった。険しい瞳が辰伶を振り返って睨みつける。

「怖いなんて言ってない。嫌いなの。だから洗わない」

 辰伶の言葉は、彼の幼いながらのプライドを刺激してしまったらしい。

「ごめん。でも、本当に洗ったほうがいいよ。傷が膿んで腕や足が腐っちゃったらどうするんだ」
「…困るかも」
「困るよ。歩けないし、物も掴めないし」
「うん。逃げられないし、闘えないし」
「だからね、川へ行こう」
「嫌」
「君…」

 なんて頑ななのだろう。それでも放っておけなくて、辰伶はすっかり困ってしまった。その様子を見遣って、少年はぽつりと言った。

「水は嫌。でも、湯ならいい」

 辰伶は少し驚いて少年を見返した。

「湯?お湯ならいいの?でも、傷口に沁みるよ」
「痛くても湯がいい」

 これは、少年なりの譲歩ということだろう。

「わかった。用意してあげるから、待ってて」

 辰伶は屋敷へと、走って帰った。早く戻らないと、きっとあの少年は消えてしまう。そんな思いが辰伶を駆り立てて、一息の休みもつかずに走りきった。

「ええと、何が要るのかな。手桶と手拭と……それから傷薬も…」

 辰伶は息を切らせながら用意したものを掴んで、すぐにまた取って返した。果たして少年は、辰伶が戻ってくるのを待っていた。辰伶の心に小さな喜びが花開く。

「お待たせ」
「走ってきたの?」

 息を調えて微笑む。少年はふいと視線を逸らした。

「さあ、行こう。こっちだよ」

 辰伶は先立って歩いた。後ろからぶっきら棒な下駄の音がついてくるのを確認して安心する。藪椿の群落を抜け、岩の崩れを跳び進み、山藤の巨大な根を伝って下りると、低い滝の下に出た。渓流に差し伸べられた枝から落ちた真っ赤な楓の葉が流れ行く。

「水は嫌いって言ったのに…」
「いいから、こっちに来て」

 辰伶は岩陰から身を乗り出して手桶に川の水を汲んだ。それを少年の前に持っていく。手桶からは白い湯気が立っていた。少年は不思議そうに凝視する。

「驚いた?ここ、お湯が湧き出てるんだよ。すぐに川に混ざっちゃうから、誰も気づいてないけど。僕だけの秘密」
「秘密なのにいいの?」

 秘密だったのは、教える相手がいなかったからだ。いままでこの場所のことを『秘密』とすら思ってはいなかった。共有する相手がいてこそ、秘密は魅力的に輝く。

 少年は手桶の湯に手を浸した。そして片肌を脱ぎ、怪我をしていた右腕の傷を晒した。

「それって…」

 一目で刀傷と見て取れた。背も肩も傷だらけで、新しいものも古いものもある。とても尋常な様子とはいえない。辰伶は言葉を失っていた。少年の身体は、その生き様の激しさを何よりも雄弁に訴えかける。

 少年は無言で傷を洗っていた。痛いとも沁みるとも言わない。手桶の湯はすぐに赤く染まってしまった。辰伶が汲みなおそうとすると、少年はそれを制して自分で湯の湧き出る場所へ行った。

「薬も…持ってきたから。洗い終わったら手当てしよう」
「……」
「着物、汚れちゃってるね。ついでに洗ってしまおう」
「……」
「血の染みだけでも、落としておいたほうがいいよ」
「……そうだね」
「ああでも、血の染みはお湯では落ちないか。これは水じゃないと」
「水は…」
「分かってる。洗ってあげるよ。脱いで」

 空が青い。見上げれば、対岸の大楠の黄緑色の葉がキラキラと光を反射させている。あの楠は本当はもっと高いところに植えられていた。山の崩れに押し流されて、今ではこの崖っぷちに根を張っている。今にも崩れていきそうな岩をがっしりと抱え込んで。もう誰もこの楠のことは知らないだろう。しかし楠は緑に輝く枝を大きく張り出し、大空を受け止める。なんて伸びやか。なんて自由。

「僕は秋が一番好き」

 洗ってきれいにした少年の着物の水を絞り、木の枝にひっかけて干した。白い着物が風にはためく。

「赤や黄色に染まった山は綺麗だし、面白い木の実や草の実がいっぱいだし」
「…食べ物が多いのは嬉しいけど、俺は春のが好き。一番気持ちよく眠れるから」
「春もいいね。花が一斉に咲いて。梅とか桜とか」
「冬は嫌い。寒いし、食べもの無いし。…うっかりしてると死ぬし」
「僕は寒さよりも暑さの方が苦手だな。冬はそんなに嫌いじゃないよ。雪で何もかも真っ白になると、何だか別世界みたいでわくわくする」
「あ、雪だるまは好き」

 着物が乾くまでの間、傷の手当てをしながらとりとめのないことを話していた。初めは無口だと思っていた少年が意外に話すので、辰伶はとても楽しかった。

「でもやっぱり、秋が一番好きだな。空がとても綺麗だから」
「空?」

 二人して空を見上げる。なんて、青い空。遠くへ雲が行く。

「ねえ、あの遠くの空の下には、何があるんだろうね」
「……」
「どんな世界が広がっているのかなあ」
「……」
「あの空の下に行って見たい。そして…」
「…そして?」

 辰伶は遠い雲へ憧れの眼差しを送った。

「僕は、海が見たい」
「海…」

 海が、見てみたい。


 段々と日が傾いてきた。その頃になると少年の着物もすっかり乾いた。

「送ってあげるよ。どこの家?」

 辰伶がそう言うと、少年は唇を噛んだ。

「…ない」
「え?」
「家なんて、ない」

 驚いて少年を凝視してしまう。

「そんな。じゃあ、君はどうやって暮らしているの?」
「家なんてなくたって生きられるし、生きてれば日は暮れるし、日が暮れれば眠くなるし、眠ればそのうち朝が来るよ」

 淡々とした少年の話し振りに、辰伶は痛いような悲しいような気持ちになる。それと同時に、その内に秘められた強さに、眩しいような憧れるような気持ちにもなった。

「あ、でも冬は寒いから、狐の穴に居候させてもらってる。狐の毛皮はあったかくて好き」
「君は、何て君は…」

 自分よりも幾分小柄な少年。その見かけによらぬ強さに圧倒される。その瞳は金色の琥珀のように澄んで綺麗だ。そんな瞳を、辰伶は前にも見たことがある。つい最近のことだ。宝石のように澄んだ美しい瞳。

「じゃあね」

 少年は背を向け、さっさと歩き出した。

「あ…」

 引き止める言葉が何も出てこない。でも、これだけは、

「僕は辰伶」

 少年の足が止まった。

「君は?」
「……螢惑」

 たった一言だけが、風に乗って辰伶に届いた。再び歩き出した少年は一度も振り返ることはなかった。


 あの瞳。あの澄んだ輝き。辰伶は思い出した。螢惑という少年の瞳は、地下牢で会った鬼の子に似ているのだ。

 鬼の子と呼ばれ、壬生では忌み嫌われていた少年。名前は狂といった。壬生の外へ出たことのある少年と話がしてみたくて、辰伶は地下牢にこっそり忍び込んだことがあった。その時に出会った少年は、大人たちが噂するのとは全然違っていて、紅玉のような美しい瞳をしていた。その上、彼は辰伶の危機を救ってくれたのだった。

 螢惑という少年も、いつか外の世界へ行くのだろうか。壬生の地を出て行った村正のように。鬼目の狂のように。そんな思いがふと浮かんで、辰伶の頭は瞬間的に冷やされた。

 これは、いけないことだ。

 これは間違っている。あの子と鬼の子は同じ。自分は無明歳刑流を継承するこの家を守っていかねばならない身だというのに、家なんてなくても生きていけると言った子の話をしたら、また父の怒りを買うだろう。鬼の子の存在が悪でないと言った時と同じように。

 外の世界に憧れてはいけない。あの子に会ったことは、誰にも言ってはいけない。

 辰伶は空を見上げた。青い、青い空。この美しい空の下で、あの少年はたった独りで生きている。家も無く、全身傷だらけになって。

 ―― あの子に憧れる気持ちは持たない。だけど、

 壬生一族は神を名乗る。人間達は神に祈るが、神は何に祈りを馳せるのか。辰伶には分からない。分からないが、確かにそこに祈りが存在した。

 ―― あの子を傷つけないで下さい。どうか、もう誰もあの子を傷つけないで…

 幼い願いは誰に届くこともなく、青い空へと吸い込まれていく。

 そして、いつか…


 おわり

 辰伶が異母弟のことを知る前という設定。てゆーか、遊庵ちの物置に住んでたという設定が出る前に書いた話。今更、直せないってば…

05/8/3