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生きていくこと
(『敬愛』のもう1つの続き、のような?)
村正が壬生の郷を出奔する数日前のことである。偶然にも、辰伶は村正と話をする機会があった。その時はまだ村正の考えなど、辰伶には知りようもなかったから、普段のように挨拶をし、普段と変わりなく言葉を交わした。
いや、今になって当時を思い返してみれば、普段通りであったのは最初の内だけで、話し込む内に辰伶は何とも形容しがたい心象を抱え込むこととなった。形容しがたいものを敢えて例えるなら、それはゆらゆらと揺れることでバランスを保つやじろべえに似ていたかもしれない。
その時の村正から感じたものは、これまでのような優しさや温かさばかりではなく、ふとすれば、まるで剣を持って対峙しているような緊張感さえ漂わせることもあった。穏やかな物腰は変わらぬまま、村正は辰伶に1つの問いを投げかけた。
「貴方は、壬生をどう思いますか?」
簡潔ではあったが、それが軽々しい問いではないことを、辰伶は本能で感じ取った。村正が求めているのは耳障りが良いだけの虚言や虚飾に塗れた言葉ではない。誠実に率直にその想いを語ることを欲していた。
それに対して辰伶は、何も答える事ができなかった。真剣に考えれば考えるほどに、明確な回答が自分の中に何も見出せなかったからだ。では、壬生のことなど何とも思っていないのかといえば、決してそうではない。辰伶は壬生の為に生き、壬生の為に死ぬことを、己の存在理由としていた。にもかかわらず、明確な回答どころか、漠然とした想いすら語れなかった。村正の問いに対して、ただ白紙だった。
「訊き方を変えましょう。貴方は壬生の何を、どういうところを愛しているのですか?」
その問いも辰伶には非常に難しかった。そんなことは今まで考えたことも無かったからだ。
「どこなどと特定できません。壬生の全てです。私は壬生の為に存在するのですから」
まるで答えになっていないような答えに村正が満足するとは思えなかったが、それが辰伶にとって精一杯の答えだった。その回答が辰伶の本心に一番近かった。
「そうでしたね。貴方は、吹雪の弟子でしたね」
「……」
吹雪の弟子であることは、辰伶にとっては誇りだった。少なくともマイナスに思ったことは無い。しかしこの時だけは、村正のその言葉に堂々と頷くことができなかった。村正が賞賛として言ったのではないことくらい、辰伶にも感じ取れたからだ。
「貴方の純粋さを、私はとても好ましく思います。でも、貴方の純粋さは、いつか貴方自身を傷つけるかもしれません」
何かがおかしい。漠然とそう感じたが、それを口にできなかった。辰伶は得体の知れない不安の影を、村正に見た。村正と吹雪が不仲であるなどと冗談にも耳にしたことがない。しかし、これではまるで…
「最近、私はこんな風に思うのです。人は生きることに理由や意味を求めたがりますが、本当はそんなものが無くても、生きることそのものが喜びなのではないかと」
村正の瞳が少し憂いを帯びた。
「ああ、辰伶。ここは良い風が来ますね。どうぞ、私の隣にお掛けなさい」
川縁の土手に生い茂る緑色の草の上。勧められるままに辰伶は村正の隣に腰を下ろした。尊敬する師の吹雪とはまた違う、村正の温かい人柄を、辰伶は慕っていた。もしも吹雪と村正の間に不和が生じた場合、間違いなく辰伶は吹雪の側につくことになるだろう。それはこの温かい微笑を失うということだ。
「そうそう。良いものを持っていました。今しがた、知人から蓮の実の蜜漬を頂いたのですよ。甘いものは嫌いではなかったですよね」
村正は手にしていた甕の封を開け、辰伶に差し向けた。辰伶は懐紙を取り出し、それに蓮の実を受けた。
「どうぞ。お上がりなさい」
そのように村正に言われたが、辰伶は特別な趣向を除いては、屋外で物を食べたことがなかったので少し戸惑った。しかし村正が素の指で蓮の実を摘まみ、そのまま無造作に口にするのを見て、辰伶もそれに倣った。
「いただきます」
蓮の実を口にすると、たちまち蜜の甘さが広がった。初めて口にしたが、美味しいと思った。
「お口に合いましたか。それは良かった」
村正が微笑んだ。そういえば、この方はサトリの能力を持っていたのだと、辰伶は思い出した。ならば今の村正への不信と不安は手に取るように解かってしまっただろう。それでもこの人は、変わらずに微笑みかけてくれる。辰伶の心境は一層、複雑になった。
村正は辰伶の想いには一切触れず、全く別のことを話した。
「物を食べるということは、生きることの基本ですからね。だから私は美味しいものを楽しく食べることが好きです」
楽しく食べる。そんなこと、辰伶は考えたことも無かった。食事が楽しいなどと思ったことは無い。しかしこうして村正と並んで、行儀も何も考えずに蓮の実を摘まむという行為は、辰伶にとって新鮮で、楽しいことだった。
「肉体は心よりも、切実に生きる喜びを知っているのでしょう。だから、辛いことや悲しいことがあっても、お腹が空くんでしょうね。どんなに心が人生に絶望しても、肉体は生を渇望する」
「生への渇望…ですか」
「壬生一族は不老長寿を手にしたことで、それを忘れてしまったのかもしれません。肉体が生きたがっている内はいい。肉体さえも生への渇望を忘れてしまったら、おしまいです」
それは辰伶が生まれて初めて耳にした壬生一族に対する批判の声だった。それを言ったのが太四老の長である村正で、またその声音が余りにも柔らかかったから、普段の辰伶であればそれが批判であることなど気づきもしなかっただろう。村正への不信と不安ゆえに気づいた。気づいてしまった。
「人生の意味を問う前に、人生そのものを愛しなさい。何の為に生きるのかと考えるよりも先に、生きる喜びを知るべきなのです」
もう、これ以上、この人の隣にいてはいけないのかもしれないと辰伶は思った。自分の中の何かを壊されてしまうような気がして、辰伶の心は村正の言葉を理解することを恐れた。
「私は…生きる意味があってこその人生だと思います」
「いいえ。先ずは、命あることが嬉しいと、ただ感じることですよ。そうすれば自ずと生きる意味も解かります」
「生きる意味など、最初から決まっています。私は壬生の為に…」
「ストップ、辰伶。それはまたの機会にしましょう。ほら、こんなに風が気持ちいい」
またの機会。それがあると、村正は本心から思って言ったのだろうか。サトリの能力のない辰伶には解からない。それでも少なくとも、その機会があることを村正は望んでいたのだろう。本心から願って下さったのだろう、辰伶の為に。
「私は、壬生が好きですよ」
その言葉は、きっと真実。
「それでも私は、壬生を愛しているのですよ…」
それが村正の、真実。
己の師であり、太四老の長でもある吹雪に刃を向けた辰伶は、叛逆者として吹雪に処分された。…された筈だったが、何の因果か命を存えることとなり、そしてどういう巡り会わせか地下迷宮にて異母弟の螢惑と再会した。
再会して幾らか会話をしたが、直後に樹海の住人と小さな戦闘となって中断された。戦闘が終わって、螢惑が呟くように言った。
「ねえ、『生き恥さらしてる』なんて、お前、生きてて嬉しくないの?」
その言葉は嘗ての村正との会話を思い出させた。生きていることを嬉しいと思うこと。亡き村正の思い出が辰伶の心に小さな痛みを齎した。
恐らく村正は、鬼目の狂の中に生への渇望を見たのだろう。かつて辰伶が狂の紅い目に見たのも、それだったのかもしれない。
鬼とも称された紅き目。一族中から忌み嫌われながら、常に生きていくことを正面から見据えていた紅い目。生きる為に、命を懸けられる漢。それが鬼目の狂だ。狂は存在するだけで、人々に強烈なインパクトを与える。ある者は強烈に嫌悪し、ある者は強烈に惹かれる。そして、狂という漢の魅力に憑かれた者たちが彼の周りに集う。
だから村正は狂を『希望』と呼んだのだろう。あの日の村正の言葉を、辰伶の魂は漸く理解した。もっと、早く理解しておけば良かった。後悔の棘が辰伶の胸に突き刺さる。
「螢惑、今、何と言った?」
「え?俺、何か言った?……確か、『辰伶の死に損ない』だっけ?」
「…悪かったな。命根性が汚くて」
「そういう捻くれた言い方って良くないよ。生きてて良かったって、素直に言えば。生きてれば、また強い奴と戦えるんだから。こんなザコじゃなくてさ…」
螢惑は足元に転がる異形の屍骸を蹴飛ばした。
「吹雪とだって、やれるじゃない」
「…そうだな」
そうだ、と辰伶は噛み締める。吹雪を倒し、壬生を正すことこそ、己が命を取り留めた意味だと確信する。生き存えた限りには、真っ当すべき使命がある。
「本当に…生きていて良かった…」
空虚な呟きを漏らし、ギリッと奥歯を噛み鳴らす。
生きる喜びを知るより先に、生きる意味を選んでしまったからには、その生き方を徹底して貫くのも良いかもしれない。辰伶は自嘲した。ここまで来たら、これはもう意地だ。どうしたって自分は、壬生の為にしか生きられない。他の生き方など知らない…
生への渇望が無くとも、この命は壬生の為にある。村正の言葉を理解した上で、尚、それが辰伶の出した答えだった。
「辰伶、お前…」
それ以上、螢惑は言葉を繋げられなかった。地下迷宮の薄闇へと赴く異母兄は、悲壮なまでに美しく背筋を伸ばし、決然と石畳を踏みしめる。その後姿は潔すぎてどこか危うい。手を伸ばせば触れられるほどの背中に、螢惑は距離を感じていた。
まだ、彼が遠い。
おわり
…おかしい。予定では辰伶が生きる喜びを知ってスッキリ終わる筈だったのですが、どこで間違ったのでしょうか…
05/7/27