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外の世界
(『罰』の数年後)
外の世界から1通の書簡が届いた。差出人は決まっている。異母弟の螢惑からだ。思いつきのみを行動原理としているような彼は、半年近くも音沙汰なしかと思えば、ひと月に10通もの手紙を寄越したこともある。今回の手紙は前回から半月ほどだから、普通にまめなペースだ。
『今、すわ湖。そばがおいしかった。わさびの葉っぱをしょうゆで漬けたのがすごくイイ。柿を吊るしてたのが面白かったから手伝ったら干からびた柿くれた。辰伶にも1個あげる』
手紙には干柿が1つ添えられていた。挨拶もろくになく文章が始まるところは相変わらずで、本当にあいつらしい。話題はフラフラと脈絡無く移り変わり、あいつが目にしたもの、耳にしたもの、そして感じたことが短い言葉でつらつらと取り留めなく書き連ねてあるだけなのだが、不思議とその光景が目に浮かぶようで微笑を誘われる。そして、最後はいつも同じ文で結ばれている。
『今度一緒に来ようね』
優しい言葉。深く胸に染み入る。かつてこの漢とは本気で殺し合ったこともあった。互いに相容れぬ存在として、憎しみだけをぶつけ合っていた。そして、長年の確執にけりをつけた後、まだ正面から向き合えず、互いに背を向け合ってぽつりぽつりと語り合った時に、螢惑は言った。俺が昔憧れていた壬生の外の世界――人間の世界は決して美しいものではないということ。汚い世界だけど、それでもそこでしか得られないものがあるということ。
『1度くらいお前も行ってみるといいかもよ。オレが案内してやってもいいし…』
あいつがあんなことを言うなんて、本当に驚いた。そして、この壬生の地を大きく変えてしまったあの戦いが終わった後に、螢惑は同じ言葉をもう1度俺にくれた。
しかし俺はそれに応じられなかった。あの戦いで中枢機関を失った壬生一族は、混乱の渦へと投げ出されるのは必至だった。そんな時に壬生の郷を離れるわけにはいかなかった。郷の状態が落ち着くまで、正しき方向へと歴史が歩みだすまで……それは生き存えてしまった俺の義務だ。太白の遺志を継ぎ、歳世の魂に報いる為に、俺は壬生の地に残ることを決意した。
俺がそう言うと、螢惑は『あ、そう』と短く返事をし、大して気を悪くした様子も無く旅立って行った。それからこうして折に触れて手紙をくれるようになった。
『今度一緒に来ようね』
文字を指でなぞる。嬉しさと温かさと、そして一抹の寂しさを指先に感じながら。螢惑は今頃はどの辺りに居るだろう。奴のことだから、きっと元気だろうと思うが…
手紙だけでなく、螢惑自身が郷を訪れて、俺を外の世界へと幾度と無く誘ってくれた。しかし、俺は旅立つ螢惑の隣に己の姿を描くことが、どうしてもできなかった。
かつて俺は、2つの憧れを持っていた。1つは壬生の外の世界。もう1つは俺の師であった人。
壬生の外の世界への憧れは父上によって否定された。俺は壬生の為だけに生まれてきたのだと。無明歳刑流を継承し、壬生一族を守る為だけに存在するのだと。…それだけの存在に過ぎないのだと。
ああ、でも。図らずとも、父上の言葉は正しかったのだ。俺が夢に憧れなどしなければ、壬生のことだけを考えていれば…
俺は吹雪様に憧れるあまり、真実を直視することを拒否し、結果として重大な過ちを犯した。…大切な戦友を失った。そして真実を知った後も、まだ捨てきれずに未練を残していた。夢への憧れに、俺の目は曇っていた。
だからもう、俺は憧れを持たない。同じ過ちを繰り返すわけにはいかないから。壬生のことだけを考えて、俺は生きる。
俺が壬生の外へ行くことは生涯無いだろう。別に悲嘆することも無い。俺には血を分けた弟がいるから。ああ、不思議だ。彼が心のままに旅の空の下にあるということが、こんなにも俺の心を慰めてくれる。彼のことを想うだけで、心が柔らかくなってゆく。
それはきっと、螢惑が俺の憧れそのものだからだろう。…多分。
『鎖』へ続きます。
05/6/15