16:独りの夜
まさか… あの方は――…
推測からするなら、あの方は間違いなく……いや、今は結論を下すまい。吹雪様に反抗しこの地下牢で朽ち果てる筈だった命をこうして存えた以上は、俺は俺の為すべき事を為さねばならん。
「…『過ちて改めざる、是を過ちと謂う』…」
何だか俺は笑いたくなってきた。衛霊公第十五。論語なんて幼年の頃から、それこそ暗誦できるほど繰り返し読まされて、もうすっかり頭に入っていると思っていた。それが今になってその言葉の意味を知るなんて。
「…学而にも似たような言葉があったな。『過てば則ち改むるに憚ること勿れ』だったか。同じ言葉が子罕にも重複してある」
その気になれば、今でも暗誦できそうだ。これも教育熱心な父のお陰だ。子供の頃、覚えが悪いとペナルティとしてよく蔵に閉じ込められた。燭台と数本の蝋燭、そして1冊の漢籍を渡されて。暗いだの腹が減っただのと言っていられない。父が指定したところを暗記できなければ、蔵から出して貰えないのだ。お陰でよく覚えたが、あれは結構キツかった。
冷たい石畳。少し黴臭い薄闇。この地下迷宮は俺の遠い記憶を刺激する。
初めて蔵に閉じ込められたのは何歳の頃のことだっただろうか。この時ばかりは本気で泣きたくなった。武術の稽古の後で疲れていたし、夕食前だったから腹も減っていたし、冬も間近で夜はとても冷えた。蝋燭の灯程度では手元を照らすのが精々で、真っ暗な蔵の中を照らし渡すことなどできる筈も無い。殆ど闇と隣り合わせの状態だった。
そんな中にたった独りで閉じ込められ、心細くて堪らなかったが、泣いたり怖がったりしている場合ではなかった。朝までに学而編を訓読し暗誦することを父に命じられていたので、俺は論語を開き必死になって文字を追った。
ところが身体はすっかり疲労していたので、少し読み進めただけで意識が飛びそうになった。睡魔と格闘しながらなので、同じところばかり読む破目になってちっとも先へ進まない。暗記どころか、一通り読むことさえ難しかった。
「…それに、意味が全然解らないし…」
当時の俺はまだ返り点・訓読も覚束ず、ましてや意味などさっぱり解らなかった。内容が解らないから余計に眠くなる。眠気に対抗するために声に出して読むことにした。
「しのたまわく、ていし…いりてはすなわちこう、いでてはすなわちてい、……つつしんで…しんあり……ええと……ひろく?…ひろくしゅうをあいして…じん…じんに…あれ?ええと…」
割と最近に習ったところなのだが、読み方がどうしても思い出せない。暗誦どころではない。俺は絶望的な気持ちになった。その時、蔵の奥から何者かの声がした。
「子曰わく、弟子、入りては則ち孝」
驚いて周りを見回す。蔵の中は音を反響させてしまい、声のする方向は解らなかった。その声は尚も聞こえてくる。少し硬質なよく通る声だ。
「出でては則ち弟、謹んで信あり、汎く衆を愛して仁に親づけ、行いて餘力あれば以って文を学べ」
俺が苦心していたところを、その声はスラスラと読み下した。
「誰?」
闇の奥で、何かを引き摺るような音がした。いや、その音は床の上を這って、俺の方へ近づいてくる。俺は未知のものの存在に身体を硬くしていた。やがてそれは蝋燭の灯の輪の中へ姿を現した。
「蛇?」
それは一匹の真っ白な蛇だった。
「今の声って…」
「勿論、ワシじゃよ」
目の前で蛇が口を利いた。俺は驚きにただ目を瞠るばかりだった。
「邪魔する気はなかったんじゃがの。オヌシがあんまりつっかえるから苛々して、つい…のう」
「すみません。…論語、詳しいんですか?」
「ワシは漢学者じゃからのう。専門家よ」
蛇なのに…
「オヌシ、名前は?」
「辰伶。あの、貴方は…」
「ワシはこの蔵の主よ」
蔵の主・・・ヌシ様は鎌首を擡げ、書見台を覗き込んだ。
「ほれ、続き」
「え…」
「第7章、『子夏曰く』から」
促されて俺は書見台に向き直った。
「しかいわく、けんをけんとして………すみません。解りません」
「『賢を賢として色に易え』じゃ」
「色にかえ、父母につかえてよく…その…力を……つくし?……で良いでしょうか、ヌシ様」
「正解じゃ。ならばその次も読めるじゃろう」
「はい。…君につかえてよくそのみをいたし……」
爬虫類に漢文の読み方を教わっている図というのは、想像するだに奇妙な光景である。しかしヌシ様は自らを漢学者と称するだけあって、返り点・訓読の指導は適確だった。
「言葉の意味よりも先ず返り点・訓読を覚えることじゃ。何度も何度も繰り返し読み、訓読体のリズムに慣れよ。それから注釈書を読め。そして、後は人生を豊かに生きることじゃ。さすれば、自ずと意味が解る。論語とは、そういう書物なのじゃよ」
「え?論語は正しく生きる為の道徳書だと聞きました。人生を豊かに生きる為に、論語を読むのではないのですか?人生経験を積んでから理解するのでは、遅くないですか?」
「ううむ。それを言われると痛いのう。人は論語を読むために人生を重ねる訳ではないからのう。目的と手段が逆転しておる」
ヌシ様は首を左右に振った。どうやら苦悩しているらしい。
「しかし、千籍万巻に通じるよりも、人生経験を重ねた者の方が孔子先生の言っておられることの本質を良く掴んでおったりするのも本当なのじゃ。研究者として論語を読む者がしばしば陥る罠での…」
どうやらヌシ様は教育者ではなく根っからの研究者であるらしい。他人に講義をするよりも、自分の学問に熱中するタイプだ。それにしても、ヌシ様は一体お幾つなのだろうか。蛇の年齢はいまいち判らないが、口調からしてかなりの歳月を生きておられるように見受けられた。それ程長きの人生経験(ふと気づいたのだが、蛇にも人生と謂う単語は当てはまるのだろうか?)を以っても、研究し尽くすということがないのは凄い。学問に終わりは無いのだということを、体現されている。
ヌシ様は研究者タイプであったが、それでも指導が下手ということは決して無かった。ヌシ様の指導のお陰で、学而編16章のうち10章までを訓読することができた。暗記は結構得意なので、これくらいの量なら朝までに何とかなるのではと、希望が湧いてきた。しかし俺は、俺の限界をとっくに超えていたのだ。
突如として俺は眩暈に襲われ、書見台に突っ伏すように凭れ掛かった。不思議な白蛇の出現に驚き、そして教えを請う相手ができたことによって一時的に俺の脳は活性化していたが、根本的に身体は疲弊していたのだ。
「あ、すみません。…ええと、続き…どこだっけ」
「バカ者め」
ヌシ様は呆れたようにそう言うと、身をくねらせて蔵の奥へと行ってしまった。俺の不真面目な態度が、折角指導をして下さったヌシ様を怒らせてしまったに違いないと思い、俺は落胆した。ところがそうではなく、程なくしてヌシ様が再び現れた。口に何か袋を咥えている。その袋を俺の前に放り出してヌシ様が言った。
「心身がそんな窮まった状態で学問などしても益は無い。まずは喰え。今日はもう寝よ」
袋を開けてみると、中には干したイチジクが入っていた。
「水は自分でなんとかなるな?」
「何故、俺に水を操る特殊能力があることをご存知なんですか?」
「オヌシはここの家の跡取りじゃろう。ならば水を使えて当然よ。なにしろワシは主じゃからのう。この家のことなら、ワシは何でも知っておるのじゃよ」
ヌシ様は蛇なので表情が全く読めないのだが、大意張りしている様は少し子供っぽいような気がする。口調が古めかしいのでそう思い込んでしまったのだが、ヌシ様は実は意外に若いのかもしれない。それはともかくとして、俺は『跡取り』という単語を耳にして、自分の置かれている状況を卒然として思い出した。
「ヌシ様、ありがとうございます。でも、俺は朝までに学而を覚えなければならないんです。とても寝ている暇はありません。お願いです。あと6章、どうか教えて下さい」
「学問が好きか?」
「正直なところ、あまり…。好きであれば良かったとは思います」
「『之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず』…好きでもないことを、寝食を犠牲にしてまで行っても良い結果は得られんよ」
「でも、俺はこの家の長子です。父上や母上が期待して下さっています。それに応えるのが、子としての務めでしょう」
切実に訴えると、ヌシ様は溜息をついた(ように見えた)。瞬きしない目でじっと見つめられた。
「本当にオヌシらは……。まあいい、気の済むまで付きおうてやるわ」
聞き間違えではなく、その時ヌシ様は確かに『オヌシら』と複数形で言った。この場には俺とヌシ様しか居なかったから、明らかに用法を間違っている。そこが少し引っかかったので、このことは後々までよく覚えていた。
それは措くとして、俺はヌシ様に無理に頼み込んだ手前、体力の代わりに気力を振り絞って、論語を読み進めた。お陰で何とか第16章まで辿りつく事が出来たが、一体どこで意識が飛んでしまったのか、気づいたときには書見台に凭れて眠ってしまっていた。燭台の灯は消え失せ、明り取りの窓から朝日が差し込んでいた。
「しまった!」
慌てて周りを見回したが、ヌシ様の姿は無かった。俺は急に心配になった。ヌシ様に論語を教わったことは最初から最後まで夢の中の出来事で、俺は早い段階で居眠りをしてしまったのではないだろうか。もともと蛇が喋ることからしておかしいのだ。
俺は急いで論語を開き、学而編に視線を落とした。その瞬間、蔵の扉が開いた。容赦なく差し込む光は、蔵の薄明かりに慣れていた俺の目には強烈過ぎて、瞬間的に目を眇める。
「父上…」
タイムリミットだ。俺は観念して書物を閉じ、父の前に立った。父の鋭く厳しい視線を浴びて、身体が萎縮した。
「学而編、第1章から」
とにかく、覚えているところまで精一杯やるしかない。俺は瞳を閉じた。そうして余計な情報を遮断し、全神経を集中させて記憶を探った。
「『子曰く、学びて時に之を習う、また説しからずや。朋有り、遠方より来たる、また楽しからずや』…」
第5章辺りまでは自信があった。問題はそれ以降だ。
「『子曰く、弟子、入りては則ち孝、出でては則ち弟』…」
確か、この第6章からヌシ様の指導を受けたのだ。あれが夢でなければの話だが。俺は夢の中で教わったことを懸命に思い出した。これが意外にもよく覚えていて、俺自身が驚くほどだった。
「『子曰く、父在せば其の志を観、父没すれば其の行いを観る。3年…』」
しかし、そこまでだった。第11章の途中で記憶力は尽き、俺の頭の中は真っ白になった。
「3年……」
その続きがどうしても出てこない。その時だった。非常に微かな声が、それでもはっきりと俺の耳に響いた。
『3年、父の道を改むること無きを、孝と謂うべし』
ヌシ様の声だ。俺は背後を振り返ったが、白い蛇は影も形も見当たらない。だが、空耳ではなく確かに声が聞こえた。あれは夢ではなかったのだ。ヌシ様が陰から俺に力を貸して下さっているのだ。
「『3年、ちちのみちをあらたむることなきを』……」
だが、これでいいのだろうか。こんなズルをして父の許しを得るのは卑怯ではないだろうか。
「……」
「どうした、辰伶。続きは」
「申し訳ありません。途中で眠ってしまって、覚えられませんでした」
俺はヌシ様のご厚意を無碍にしてしまった。感謝と申し訳なさで俯いたまま、顔をあげることができなかった。
「孝と謂うべし」
父の声に、俺は恐る恐る顔を上げた。そこにはいつも通り、厳しい父の顔があるばかりだった。
「『有子曰く、礼の用は和を貴しと為す。先王の道も斯れを美と為す。小大これに由るも行われざる所あり。和を知りて和すれども礼を以ってこれを節せざれば、また行わるべからず』…」
父は朗々と続きを暗誦した。俺はその父の姿を声もなく見上げ、またその声を声もなく聴いていた。
「…『子曰く、人の己を知らざることを患えず、人を知らざることを患う』」
途中で淀むこともつっかえることもなく、父は第16章まで暗誦してのけた。そして一息つくと、その手が俺に伸ばされた。俺は反射的に身を竦ませたが、その大きな掌は静かに俺の頭に置かれ、するりと離れていった。父にそんなことをされたのは後にも先にもそれきりだが、その不思議な感触は今でも覚えている。
「今日の稽古は、午後からだ」
暗誦は全くダメだったのにも関らず、俺は蔵から出ることを許された。しかも午前中に休養をとることまで。この時の父の心境は、未だに俺には理解できない。
俺は蔵の奥に向かって一礼した。姿は見えないが、きっとそこにヌシ様が居られることを信じて。そうして俺は蔵を出ると、入れ違いに父が蔵の中へ入って行った。
「父上?」
父は無言で佇み、蔵の奥の薄闇を視凝めていた。俺は父のその後ろ姿を暫く見ていたが、父が動く様子が無いので、踵を返してその場を去った。
今にして思えば、父はヌシ様の存在を知っていたのだろう。或いは俺と一緒で、ヌシ様に教えを受けたことがあったのかもしれない。
あれから何度も蔵に閉じ込められたことはあったが、以来、ヌシ様は俺の前に現れることは無かった。その為、俺はヌシ様のことをすっかり忘れていた。
それをこの地下迷宮が、思い出させてくれた。見も知らぬ読書好きに読まされた訓読のリズムが、懐かしい記憶を蘇らせてくれた。
「先ずは訓読体のリズムに慣ること。それから注釈書を読むこと。そして、後は人生を豊かに生きること。そうすれば、自ずと意味が解るんだったな。論語は」
なるほどと、実感する。繰り返し読むことで何気なくインプットされていた『過ちて改めざる、是を過ちと謂う』という短い文が、まるで命を吹き込まれたかのように蘇って、その意味を明瞭に語りかける。ヌシ様の言っていたことは間違いではなかった。
「過てば則ち改むるに憚ること勿れ」
そして、
「子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず」
解釈などいらない。言葉通りだ。壬生を正す為なら、師である吹雪様にも遠慮はいらない。
今でもヌシ様は、あの蔵の薄闇にいらっしゃるだろうか。
おわり
私が園児だったころの思い出。給食を食べるのが遅いという理由で、先生に真っ暗な物置に閉じ込められましたが、そこには大きな青大将が生息していました。
05/6/29