15:本


 父の葬儀と、それに続く相続などで慌しかった日々が漸く落ち着いた。公的な立場で成すべきことは全て成し終えた今、俺はただ父の息子として、父の遺品の整理を始めた。

 故人を偲ぶ日用の品々は金銭的な価値は殆ど無いが、その1つ1つに思いが篭る。名門として名を馳せるこの家の当主の持ち物としては、それらは質素で飾り気が無く実用に重きを置かれたものばかりだ。今更ながら亡き父の為人を知る思いだ。

 そうして形見の品を検めていくうちに、納戸から行李が1つ見つかった。まるで隠すように納戸の奥深くにしまい込まれていたそれは、父の持ち物としては何か異質な気がした。

 行李を開けてみると、中には大した物は入っていなかった。蒔絵の文箱。螺鈿の手鏡。朱漆の櫛。それに着物が数枚。女性を思わせる品物ばかりだ。

 俺には全く見覚えの無い品ばかりだが、はっきり言えることは、これらは俺の母の持ち物ではなかったということだけだ。細工や絵柄が亡き母の嗜好とは違う。

 直感的に、これは余り追究しない方が良いような気がした。元の場所へ戻すか、それとも一層のこと秘密は秘密のまま行李ごと焼いてしまった方が良いかも知れない。

 行李に蓋を被せようとして、ふと1冊の冊子が眼を惹いた。栞の代わりだろうか、紙が一枚挟まれている。

 冊子には『閑吟集』と表書きされていた。開いてみると、どうやらそれは歌集のようだ。真名序に仮名序を並べた体裁で始まっているが、仮名序が真名序の内容の繰り返しでないのが風変わりだ。ざっと中を攫って見ればそこに収められている歌謡の詩型は一定でなく、奔放ともいえる多彩さだ。

 壬生にこんな歌集は存在しない。恐らくこれは外界の書物だろう。外の世界の香りにうっかり惹かれて、俺は薄暗い納戸の床に座り込んで冊子に見入ってしまった。

 仮名序は『ここにひとりの桑門(よすてびと)あり』と始まり、編者の名は無い。若き日の四季折々の宴席を懐旧し、これらの歌謡を思い出すままに書き記したと述懐している。虫けらにしては風雅な心持だ。

 ざっと流し読みしたところ、詩型も表現も実に多彩だが、恋の歌が多かった。偏見かもしれないが、女性が好みそうな歌集だと思った。この行李の持ち主の愛読書だろうか。

 恋の歌などに感じ入るものは無かったが、しかしそれが壬生の外から齎された歌集であるということが、俺の手をこの冊子から離し難くしている。外の世界への憧れなんて、とっくの昔に振り切ったと思っていたが、俺もよくよく諦めが悪い。

 しかしそういつまでも読み耽っているわけにはいかない。歌集を閉じて元の行李へ戻すことにした。そのとき弾みで、歌集に挟み込まれていた紙が落ちた。拾って見ると、それには明瞭な墨色で『命名 ほたる』と書かれていた。

 紙や墨の色の具合から、それがそれ程昔に書かれたものでないことが判る。父の筆跡とも母の筆跡とも違う。少し頼りなげな、繊細な文字。

 俺の知る限り、一門に『ほたる』という名の者はいない。これは誰が書いた物だろうか。この行李の中の品々は誰の物だったのだろうか。


 遺品の整理は到底一日では終わらない。今日はこれまでとして、広げ散らかしていた物を片付けた。

 結局俺はあの歌集を自室へ持ってきてしまった。挟まれていた紙も元のように挟んだまま文机の上に置かれている。夕餉を済ませた俺は再びそれを手にした。

 紙が挟まれていた頁には、このような歌が載せられていた。

『我が恋は 水に燃えたつ蛍々 物言はで笑止の蛍』

 紙がわざわざこの頁に挟まれていたということは、『ほたる』という名前はこの歌から採ったということだろう。古来、蛍は片恋や忍ぶ恋に例えられる。蛍は『火垂る』であり、『思ひ(火)』の縁語だからだ。そして蝉や鈴虫のように鳴かない蛍は、想いを口に出せないからこそ一層募る苦しい恋心を連想させる。

 『物言はで笑止の蛍』とは、恋心を打ち明けられない哀れな蛍という意味だ。この歌は片想いの切なさというよりは、恨みの念さえ滲ませている。

「水に燃え立つ…か」

 恋に身を焦がす情念の虫。この行李の持ち主である女は何を思って自分の子供にそんな名前を付けたのだろうか。


 外界へ赴いていた螢惑が帰参したと聞いた。その報を受けてから、どうにも心が落ち着かない。

 螢惑という漢。奴は五曜星という地位にありながら、先代紅の王に刃を向けた叛逆者だ。その咎で外界にいる鬼目の狂の元へ監視役として送り込まれていた。それが漸くその任を解かれ、壬生の郷へ帰ってきた。

 ――逢いたくない。

 螢惑という漢。俺の異母弟。兄弟の名乗りを上げることは一生無いだろうが、それでもお互いの行く末まで競っていきたいと、密やかに心に留めていた存在。

 それ故に、奴の仕出かした罪は赦し難かった。悔しくて、情けなくて、激しく憎んだ。金輪際、奴には関わらぬことを心に誓った。

 それなのに…ああ、それなのに、あいつが郷を出て、その姿が俺の視界に映らぬようになった途端に、胸に大きな空洞が開いてしまった。何処に居ても誰と居ても、噎び泣くような風がその穴を吹き抜けた。

 憎悪は喪失感に取って替わられ、俺の日常はまるで時が止まったかのように抑揚無く緩慢に流れた。そんな日々に終止符が打たれようとしている。それは喜ぶべきことだろうか。いや、もう沢山だ。あいつの一挙手一投足に感情を支配されたくない。

 心の何処かで、あいつはもう2度とこの地へは戻らぬものと思っていた。

 逢いたくない。逢いたくない…けど…

 俺は水の五曜星で、奴は火の五曜星で……会わぬ訳にはいかなかった。螢惑が郷へ戻って3日もして、五曜星全員での会合があった。

 何年ぶりになるのだろうか。螢惑が郷を出たのは遠い昔のようで、ついこの間のような気もする。螢惑は変わっていない。いや、少し変わった。刺々しかった雰囲気が以前よりもやや落ち着いて、その分だけ凄味を増した。奴はまた強くなった。

 会合では必要最小限の受け答えを機械的にこなし、解散すると俺は直ぐにその場を離れた。こんなのはおかしい。姿を見ただけで、こんなにも感情が昂ぶるなんて変だ。憎しみでもなく恨みでもない。訳の解らないやるせなさに心が乱れる。

 辺りは夕暮れて、宵の明星が輝いている。心無く歩くうちにいつしか葦の生い茂る湿原を眼前にしていた。浅瀬に渡された浮橋を漫ろ歩く。

「なんで逃げるの?」

 不意の呼びかけに、心臓が停まるかと思った。振り返りたくないのに振り返ってしまう。

「螢惑…」

 どうして、この漢は…

 決して仲が良いとはいえない間柄の俺達だから、関ろうと思わなければ、一生関らずに生きていけるはずだ。それなのに、よりにもよって、どうして俺が『逢いたくない』と強く念じている時に、わざわざ近づいてくるのだろう。

「何か用か」
「用なんて無いよ。辰伶が俺から逃げるから、嫌がらせにきた」
「逃げてなどおらん」
「嘘。逃げてる」

 嫌な奴だ。俺は以前から、こいつのこういうところが嫌いだ。こちらが用がある時は散々無視するくせに、放っておいて欲しいときには無意味に纏わりついてくる。奴の言葉になど構わず、俺は背を向けて歩き出した。

「やっぱりね。お前のツマラナイ顔をみたら、なんかやっと壬生ってカンジ」
「訳の解らんことを」
「嫌いな奴の顔を見たら、ここが大嫌いな壬生の郷だって実感した」
「それは良かった。こんな顔でも少しは役に立てて結構なことだ」
「お前…ホントに相変わらずだね。憎ったらしいよ」
「お互い様だ」

 俺は自分の背中に『拒絶』の文字を大書きして歩いているつもりなのだが、螢惑は全く頓着せずについてくる。刷り込みをしたヒヨコのような執拗さだ。

 辺りは愈々暗くなり、狭くて不安定な浮橋の上で容易に動けなくなってしまった。来た道を戻りたいのだが、背後には障害物が居る。俺は湿地の真ん中で立ち往生してしまった。

 目の前を小さな光が横切った。何かと眼で追うと、それは蛍の光だった。周りをよく見渡せば、無数の蛍が地上の星のごとく光っては消える。

「貴様は外界では『ほたる』と名乗っていたそうだな」
「それが何か?」
「何故、その名を選んだのかと思ってな」
「…辰伶には関係無いよ」
「ああ。俺には関係ないな」

 鳴かぬが故に想いに身を焦がす蛍。水に燃え立つ情念の虫。だがお前達はまだしもだ。鳴けずとも光り輝くことで、焼け付くような恋心を表明できるのだから。

 笑止の虫とは俺こそだ。身を焦がすことのできない俺は、決して伝えられない想いにジリジリと心を焼くしか術が無い。俺の化身である辰龍水も心の炎は消せない。

 憎い――

 螢惑、今こそ心の底からお前を憎いと思う。俺は自分の心など知りたくもなかった。こんな絶望的な恋など、気づかぬままでいたかった。

 お前のことを愛しているなんて、今更、気づきたくはなかった。


 おわり

 なんか途中から話が変わってしまいました。『本』には関係ない話になってます。ネタが消化不良な感じです。四聖天が解散して螢惑が壬生の郷に戻った季節については深く追究しないで下さい。
 『雲』のその後っぽいですね。

05/5/25