14:澄んだ眼
(『桜』の続き)
辰伶が巷間の私塾に通い出して間もない頃、同時期に入門した塾生達数名と花見をすることとなった。しかしそんな風に遊びほうける暇など辰伶には無かった。文人を目指す訳ではない辰伶には、寧ろ塾がひけた後の武術の稽古の方が重要だった。それ以外にも教養として成人までに身に着けねばならぬことなど、山のようにあったのだ。
無意味に花見など許すような両親ではなかった。そういう事情を正直に皆に話して断ったところ、同じ塾の仲間として交友を深める為とか何とか、全員で懸命に大義名分を考え出してくれたのだった。
そんな子供だましの理由が通るものでは無いことを辰伶は承知していたが、皆の厚意を無碍には出来ず、叱責を覚悟で両親に伺いを立ててみた。ところが意外にも、あっさりと許可されたのだった。
その時はどういう風の吹き回しだろうと訝しく思ったのだが、何年も後になってそれが不思議でも何でもなかったことを理解した。辰伶がこの私塾に入れられたのは、まさに塾生との交友の為で、学問は2の次だった。事実として学問自体は辰伶が家庭教師に教わることで十分に事足りた。両親が辰伶に望んだことは、辰伶の家にとって有益となる家柄の者、辰伶の配下として有益な手足となりうる才覚を持つ者を品定めすることであった。
それでもその頃はまだ誰も彼も無邪気な時分で、同世代の少年達と私的な交流を結ぶのは全く初めてであった辰伶は、仲間の存在を嬉しく思っていた。
街から少し離れた疎らな雑木林を縫うようにして緩やかな坂道を登っていくと約束の場所である。まだ桜の姿の見えぬうちから早くも花弁が風に乗って辰伶を案内する。花弁は雪のように白い。
林を抜けると道は開けた高台へと続き、伸びやかに枝を張る大桜が眼前に姿を現した。扇を思わせる優美で整った樹形はたおやかに雄々しい。白い清冽な花弁を撒き散らしながら、樹は婀娜なる退紅色に燃えていた。
その美しさに心を奪われそうになったとき、その場に不似合いな喧騒が辰伶を現実へと引き戻した。何かと見遣れば、桜の樹の下で塾生たちが口論をしている。
「どうした。何の騒ぎだ」
騒乱の渦中へと身体を割り込ませると、そこに見知らぬ少年の姿を見つけた。年の頃は辰伶達と余り変わらないようにみえる。塾生達は彼と何やら争っていたようだ。
「一体何を揉めていたんだ」
辰伶が訊ねると、塾生達は口々に興奮した声で言った。
「こいつ、生意気なんだ」
「身分も弁えず俺達上級貴族に逆らって」
「卑しい賤民のくせに」
何が原因で何を争っていたのか全く要領を得ない。皆の言葉を聴く限りでは、この少年の身分が低いことしか解らない。
「…お前がこいつらのアタマ?」
それまで黙っていた少年が辰伶に向かって言った。まるで剣で刺すような視線で辰伶を見据えてくる。
「仲間だが、頭とか子分とかいう間柄じゃない」
「ふうん。なんかお前が一番エラソーに見えたんだけどね」
不本意な言われように辰伶はムッとして少年を見返した。擦り切れた着物。小柄な痩躯に傷だらけの手足。手入れの悪そうな髪は、しかし太陽の光の中で金色に輝いて、何よりも印象的な琥珀の眸が辰伶を鋭く射抜く。奇麗な眼。
確かに薄汚れてはいるが、その容貌は洗練されており、皆が言うような身分賤しいものには見えない。態度にも卑屈なところは微塵も無い。多勢に囲まれながら臆することなく、たった独りで堂々と対峙している。歳に似合わぬ気丈さと誇り高さをその姿に感じた。
「説明してくれないか。今来たばかりで、皆が何を争っていたのか状況が全く解らない」
「こいつが俺達の邪魔をしたんだ。俺達が花見しようってのに、こいつ、退かないんだ」
その説明を聴き、少年は目を眇めて言った。
「何で俺が退かなきゃいけないの?」
「俺達は上級貴族だぞ。おまえのような賤民が一緒に居て良いわけないだろう」
「だったらそっちがどっか行けば」
「ふざけるなっ」
「そっちが後から来といて、何で俺が一方的に悪いの?」
再び言い争いとなるのを辰伶は止めた。
「待て。お前が先にここに居たのか?俺達が後で」
「そうだよ」
辰伶の問いに少年は頷いた。
「だったらこの桜はお前のものだ。俺達は他所へ行こう」
辰伶の裁定に塾生達の間から口々に不満の声が上がった。辰伶はそれを宥め諭す。
「しかたないだろう。それが物の道理というものじゃないか」
「だけど俺達は上級貴族だ。あんな下等な奴なんかに…」
「…さて、本当に俺達よりも下等かどうか」
「え?」
「何でもない」
密かな呟きは傍にいた者には聞こえたが、辰伶はその意味を説明する気は無かった。さっさと桜に背を向けて来た道を戻る。塾生達は慌ててその後を追った。その様子を少年は終始冷めた目で見送った。
「…やっぱりあいつがアタマなんじゃない」
静けさを取り戻した桜の樹の下で、少年は誰に語るでもなく言った。
「早い者勝ちって?それはそれで1つの道理なんだろうけどさ」
俄かに険しい顔つきになる。堅く握った拳が少年の細い肩まで震わせる。
早い方が正統だというのなら、妾腹で尚且つ2番目に生まれた自分には、やはり何の権利もないということになる。生きる権利さえ認められない…
少年は桜の樹を見上げた。早い者じゃない。強い者が勝つのだ。誰よりも強いことが、生きるということだ。
「強くなる……俺は、誰よりも強くなる」
虚空で風が鳴った。少年の孤独な言葉には、木霊さえも応えを返さない。桜だけが孤高な魂を見守っていた。
その日の夜、辰伶は布団に横になりながら中々寝付けなかった。桜の樹の下で遇った少年のことが気に掛かって、ふとすると考え込んでしまっている。
昼間、場所争いで身を引いたのは、自分たちが後だったからというのが一番の理由なのだが、辰伶がそうしたのには他にも理由があった。
少年の眼が余りにも綺麗だったので、辰伶は彼が皆の言うように下賤な者とは思えなかった。その双眸には自尊の光が強く宿り、何物にも屈しない誇り高さを放っていた。上級貴族である塾生達の中にさえ、彼ほど崇高な魂を持つ者などいないと辰伶は思う。年齢は自分と殆ど変わらないように見えた。
あれは本当に普通の少年だったのだろうか。桜の樹の精が少年の姿形となって現れたのではなかったのだろうか。
少年が桜の精だったとしたら、自分たちがその場を奪うわけにはいかないと辰伶は思ったのだ。だからすぐに身を引くことにした。桜の主と争うことなどできる筈がない。勿論それは単なる空想で、本当は桜の精などではなく普通の少年だったのだろうと思う。しかし桜の精と思ったほうが、辰伶は面白いと思った。
もしも桜の精だとしたら、あの少年は今でもあの桜の樹の下にいるだろう。蒼い月明かりが照らす桜の樹の下には、今でも金色の髪の少年が居るに違いない。琥珀の瞳に孤高の光を宿して、たった独りで…。
辰伶は身を起こすと、そっと寝床を抜け出した。手早く着替え、音をたてないように障子戸を滑らせる。そうしてこっそりと庭に出ると、植え込みの陰に隠れた。まずはここで一息。
そこで更に細心に注意を払い人の気配の無いことを確かめると、辰伶は秘密の抜け道を使って屋敷を出た。誰にも見咎められなかったようで脱走は成功した。
少し急ぎ足で件の桜を目指した。空は良く晴れて星が多い。月は細くて道は暗かった。しかし辰伶は夜目が利く方なので、雑木林の細道も迷うことなく進むことが出来た。
桜の下には、果たして少年が居た。ああ、やはり彼は桜の精だったのだ。辰伶は胸が躍るような気持ちになった。少年が辰伶に気づいた。
「お前……昼間の奴だよね。何しに来たの?」
「君に会いたくて」
昼間の太陽の下では金色に輝いていた少年の髪は月の薄明かりの中で仄白く見えた。それでもその琥珀の瞳は変わらず強い光を放っていた。
「何?やっぱり退けって?」
「そうじゃない。君に逢いたいと思った。そして一緒に桜を見たいと思った」
「……」
「邪魔なら、帰る」
「別に邪魔じゃないけど。……何で俺と?」
「君はこの桜の樹の精なんじゃないのかと思ったから」
少年は驚いたように瞠目した。そして辰伶に対して鋭かった眼光が幾分和らいだ。
「変なこと言うね。桜の精ってこんなボロボロのカッコしてんの?」
「だから、正体を隠すためにわざとそんな格好してるんじゃないの?」
「なんでそんなことしなきゃいけないの?」
「ええと…その方が皆が油断するから?」
「ふうん…よくわからないけど」
少年は頭上の桜を見上げた。つられて辰伶も見上げる。
「俺は桜の精なんかじゃないよ。ここにはそんなものは居ない」
「じゃあ、何故こんな夜更けにこんな寂しいところに独りで居るの?」
風が2人の間を吹きぬけた。真っ白な花弁が雪のように舞う。少年は風の行く末を追うようにして、桜の樹の向こう側に切り立つ崖へと視線を投げた。
「昔、ここで女が死んだよ」
琥珀の瞳が再び辰伶へと向けられた。
「それだけ。桜の精なんて居ない」
少年の言葉は坦々と紡がれる。坦々と、淡々と…。それが辰伶の耳には寂寥として響く。なんだか酷く哀しい。こんなに綺麗な琥珀の瞳を持っているのに、何だかこの少年がとても哀しく見えた。
ふと気づくと、少年の琥珀の眼が辰伶をじっと視凝めていた。
「何?」
「お前さ、昼間とカンジが違うね」
「え?」
「だってもう、喋り方からして違ってるし。昼間は凄くエラソーな態度で、いけ好かない奴だと思った」
「ごめん。…そんなに酷かった?」
「うん。今のがいいよ」
辰伶自身は意識して態度を変えているつもりはなかった。しかし指摘されてみると確かに違うことに気づいた。塾の仲間達と居る時は、誰かの下風に立つ事のないように常に気構えが要った。仲間でありながら、仲間から頭1つ抜き出ていなければならない。少年が言う偉そうな態度とはこの事だろう。確かに厭な奴だと辰伶は軽い自己嫌悪を覚えた。
少年は徐に懐から一本の笛を取り出した。歌口に唇を寄せるが、掠れた息の音しかしない。
「これ、鳴らせる?死んだ女が吹いてたんだけど、俺は鳴らし方、知らない」
そう言って辰伶に笛を寄越した。横笛なら多少は習ったことがある。
「鳴らし方くらいなら知ってるよ。教えようか?」
「どうすればいいの?」
「まずは口の形だけど、ちょっと微笑むようなかんじで唇を左右に引いたら唇の先をちょっと窄めるようにして、細い息が出るようにして…」
「こう?」
「そうしたら息が前に向かって吹き出るように、ゆっくりと長く吐いて……ああ、掌を唇の前にかざしてみると解りやすいよ。フーと細く長く、息が分散しないように。むらにならないように…」
一頻り息の練習をした後に、辰伶は少年に笛を持たせた。
「歌口の中心に唇の中心を合わせて、下唇が歌口の3分の1くらいを覆うように……そう、それくらい。その位置で歌口に息を吹き込んでごらん」
掠れて頼りない音がした。
「そのまま左右の位置は変えないで、笛を前後に動かしながら一番良い音がする角度を見つけるんだ。できるだけ芯のある音がする位置を探して」
少年は微調整を繰り返し、何とかその位置を探り当てた。少し息の掠れ音が混じっているが、最初よりも格段に澄んだ音がした。
「ほら、鳴ったでしょう?」
初めて鳴ったまともな音。少年はコツを掴んだようで、繰り返し笛を吹いた。何度か鳴らした後に、少年は笛を持つ手を下ろし俯いた。せっかく笛が鳴ったというのに全く嬉しそうな様子は無い。
「…違う。こんな音じゃなかった」
少年は落胆して呟いた。
「それは君がまだ笛を始めたばかりだからだよ。もっと練習すれば、きっと…」
少年は項垂れていた顔を上げて辰伶を視凝めた。
「お前、吹いてみせてよ」
「え?」
再び笛を突きつけられて、辰伶は少年に乞われるままに手にとっていた。
「あんまり上手くないけど…」
辰伶は笛を水平に構え、ゆっくりと音を奏でた。笛の音は風に乗り、花吹雪と戯れ、寂寥を唄う木霊を引き連れて崖下の暗黒へと消えていく。もの哀しく、美しく、果敢ない響き。何て哀しく唄う笛だろう。この笛を吹いていたのは一体どんな人だったのだろうかと、辰伶は思いを馳せる。
辰伶の奏でる笛の音を聴いて、少年はまた項垂れた。
「…やっぱり違う」
「…ごめん」
それしか言えず、辰伶は少年に笛を返した。
「それに笛は吹く人の癖で音色が変わるから…」
「じゃあ、いくら練習しても、俺にもお前にもあの音は出せないってこと?」
少年の声には失望の色が滲んでいた。肩を落としたその切ない姿に辰伶は胸を衝かれ、必死に励ましの言葉を探した。
「大丈夫だよ。あの音というのがどんな音か知らないけど、君の心にその音があるなら、一生懸命練習すればいつかきっと出せるよ」
「…今、聴きたい。いつかじゃなくて、今、聴きたいのに……」
励ましのつもりで言った言葉は、少年を更に悲しませてしまったらしい。もうどうすることもできなくて、辰伶は哀しくて堪らなくなった。
「ねえ、その女の人は君の…」
「俺を産んだ人」
少年は辰伶に背を向け、桜の樹に語りかけるように笛を鳴らした。掠れた息の混ざった音が不安定な波をつくって響く。寂しい音。哀しい響き。なんて哀しい笛の音。
ああ、だから…。だから今なのかと辰伶は思った。今が寂しくて堪らないから、今聴きたいのだろう。そして本当は笛が聴きたいのではなく、死んだ母親に逢いたいのだろう。しかしそれはどうしようもないことだ。辰伶にも誰にもどうすることもできない。ただ、彼と一緒に哀しくなることしか、辰伶にはできなかった。
笛の音が止まり、少年が振り向いた。
「でも、お前の音の方が、俺よりもあの音に似てる」
それを聴いた瞬間に、辰伶の口から言葉が衝いて出た。
「笛、もっと練習する。もっともっと上手くなって、君の聴きたい音を聴かせてあげる。だから…」
だから、もう哀しくならないで。
独りで寂しくならないで。
少年は驚いた顔をして、暫く辰伶を凝視していた。そして辰伶の瞳を視凝めたまま、笛を持つ手を突き出した。
「練習するのに笛がいるよね」
辰伶の胸に喜びが満ちた。少年が辰伶の申し出を受け入れてくれたことが嬉しい。
「自分の笛があるから大丈夫だよ」
「違う笛じゃ意味ないじゃない」
「でもそれは君の大切な物だろう?」
「大切だよ。だから大事にしてよね」
それは辰伶が生まれて初めて手にした『信頼』だった。父母から寄せられる一方的な『期待』とは全然違う。心が震えた。こんなに嬉しいと思ったことはなかった。こんなに幸福を感じたことは、今まで一度も無かった。
「解った。大切に扱うよ」
辰伶が微笑むと、少年も微かに口元を緩めた。それは笑顔と呼べるほどではなかったが、紛れも無い親愛の表れだった。
5日後の夜に再会することを約束して、辰伶は少年に別れを告げた。夜が明ける前に屋敷に戻っていなければならない。林に入る手前で一度振り返ると、少年は辰伶を見送り続けていた。手を振ると、少年も応えて振り返した。
まるで花が咲くように、辰伶の胸に何か温かいもの広がった。暗い帰り道が少しも心細くなかった。
その日から辰伶は寸暇を惜しんで笛の練習をした。笛にうつつを抜かしていると報告されては困るので、武道の稽古や勉学もこれまで以上に精励した。時間があるときになどと暢気なことを言っていては駄目だ。時間とは自ら意識して作るものなのだということを、辰伶は本能的に知っていた。
笛を吹きながら、辰伶は少年のことを想った。思い出せる彼の顔は、その殆ど全てに表情という表情がない。眉目が僅かに動くだけで、彼は笑わない。泣かない。怒らない。
彼は『悲しい』とは一言も言わなかったし、悲しい表情もしなかった。そんな彼の悲しみを、どうして理解することができたのか辰伶は不思議だった。それは決して思い込みではないはずだ。彼の悲しみが銀色の針となって辰伶の胸に突き刺さったまま抜け落ちない。
笑わないのか、それとも笑えないのか。彼が笑ったらどんなに素敵だろう。その金の髪も琥珀の瞳も、きっと眩いほどに輝くだろう。
5日間は瞬く間に過ぎ、約束の日に辰伶は夜を待って桜の樹を訪ねた。果たして少年は辰伶を待っていた。5日前の夜と同じように、独り桜の樹の下で。
「こんな遅くにごめん。本当は昼間に来たいんだけど、夜しか時間がなくって」
「別に。昼でも夜でも俺はここに居るから」
「ずっとここに居るの?やっぱり君は桜の精じゃないの?」
「違うよ」
時間は余り無い。辰伶は早速練習の成果を披露した。少年への想いを込めて音を奏でる。彼の悲しみが癒えるように。彼が笑ってくれるように。祈るような心で笛を吹いた。
「どうかな。前よりは、ちょっとは上手くなったと思うけど」
少年は暫しの間、無言だった。やがて溜息をつくように言った。
「…違う。あの音じゃない」
期待に応えられず、辰伶は落胆した。そして少年に再び悲しみを与えてしまったのではないかと不安になった。
「ごめん。もっと練習するから、5日後にもう一度、聴いてくれる?」
「いいけど」
「じゃあ、また来るね」
そしてまた辰伶は5日間練習し、少年に笛を吹いて聴かせた。しかし今度も少年の求める音を聴かせることはできなかった。また5日後、また5日後と、やがて桜の季節が過ぎ去り、もうすぐ長雨を迎えようという頃まで、その約束は繰り返された。
「違う。あの音じゃない」
「ごめん。もっと練習するから…」
「もういいよ」
少年の返事に、辰伶は凍りついた。これまで少年は何度も待つと言ってくれたが、その日、少年は諦めの言葉を口にした。
辰伶は泣きたいような気持ちになった。いつまで経っても少年の期待に応えられず、とうとう見限られてしまった。一生懸命練習したのだが、そんなことは言い訳にもならない。成果を上げられなければ、努力など無意味な自己満足でしかない。
「ごめん…ごめんね……」
初めて寄せられた信頼。それに応えることができなかった辰伶はただ謝ることしかできなかった。謝って、笛を少年に返した。
「どうしてお前は、いつも謝ってばかりなの?」
「だって、いつも君を悲しませてしまうばかりだ」
「…何でお前がそう思うのか知らないけど……別に悲しいことなんて何にもないよ」
少年は淡々と言った。淡々と、坦々と。漸く辰伶は気づいた。悲しかったのは自分だ。喜びも悲しみも表さない少年が哀しくて、彼の笑顔が見られない自分自身が悲しかったのだ。
「ええと…」
少年が坦々と語りだした。
「お前の笛の音、何か聴くたびにあの音から遠くなってくんだよね。どんどん違いが大きくなってく。最初の頃の方が似てたような気がする。多分、死んだ女よりもお前の方が上手いんだよ。だから練習すればするほど掛け離れていっちゃうんだと思う」
辰伶は茫然とその言葉を聞いていた。
「だから、もういいよ」
「…ごめん」
「そこで謝る理由がわからない」
「約束守れなくて。君が聴きたい音を聴かせるって約束したのに…」
「…ああ!」
漸く腑に落ちたと、少年は1つ手を打った。
「それならいいよ。音は全然違うけど、お前の音のほうが好きになったから」
「え?」
「あの音…もう1回聴きたいと思ってたけど、もういい。お前の笛の方が好き」
少年は笛を鳴らした。掠れた息のような音が響く。
「俺が練習すればいいよね。そしたらきっと、母さんの音になるよね」
辰伶は微笑んで頷いた。すると初めて少年に微かな笑みが浮かんだ。その微笑みは本当に小さなものだったが、それは辰伶の印象に強く残った。
「ねえ、笛吹いて」
衒いも無く差し出される笛を、辰伶は受け取った。その瞬間だった。辰伶は背中に凍るような風を感じた。反射的に振り向いた頭上には、白々と光る刃が高々と掲げられていた。
これは……何?
突如として現れた正体不明の殺気。清冽な空気を切り裂くように、禍々しい白刃が振り下ろされる。その動きを辰伶は見ていた。自分の身が斬られようとする動きを、スローモーションのように見ていた。
その打ち込みから身をかわすことは、幼いながら卓抜した武術の才を持つ辰伶には難しいことではなかった。辰伶の眼は刺客の動きを完全に捕らえていた。しかし武術の稽古は飽くまで稽古であって、殺されるということを心が理解するのに時間が掛かった。命を狙われる理由を持たない辰伶は、問答無用に斬り捨てられるという立場に初めて立たされた。
辰伶の身体は己の身を守るために反射的に動いた。まるで楯にするかのごとく右腕が辰伶の身体を庇おうとした。その時辰伶は自分の右手が笛を掴んでいるのを見た。
『大事にしてよね』
少年にとっては母親の形見である笛。咄嗟に辰伶は笛を胸に抱き込み、身を反転した。その瞬間、背中に焼けるような痛みを感じた。真っ赤な飛沫が花と散る。辰伶は崩れ落ちて、桜の樹に寄り掛かるように身を伏せた。
「し、辰伶様っ!?何故っ!?」
刺客が何か叫んだが、辰伶には聞こえない。辰伶は痛みに耐えながら少年の姿を探していた。しかし痛みに眼が霞んでよく見えない。真紅の血が桜の樹を伝い、地面を染めていく。
視線を上げると、少年が辰伶を見下ろしていた。琥珀の瞳が冷たく光っている。少年は怒っているように見えた。何故だろう。桜の樹を血で穢したからだろうか。やはり彼は桜の精だったのだろうか。
「お前……辰伶?」
名前を呼ばれて、辰伶は頷いた。何故彼は自分の名前を知っているのか不思議だった。やはり桜の精だからだろうか…
辰伶は胸に抱きしめていた笛のことを思い出した。笛は無事だった。辰伶は安堵し、流れる血で笛を汚さぬよう気をつけながら少年に手渡した。
少年の背後に炎柱が立った。何かが焼ける厭な臭いと耳障りな苦鳴。刺客が生きたまま焼かれている。残酷な炎を逆光に受けて少年の髪は金色に輝いている。恐ろしくも美しい光景を、辰伶は朦朧とした意識で見ていた。少年の琥珀色の双眸が凄惨に澄み、その姿は争いを呼ぶ鬼神のようだ。清冽な桜の精は血に穢れて鬼となってしまった。
「ごめん…」
「何で謝るの?」
笛を聴かせられなくてごめん。桜を穢してごめん。それから、悲しませてごめん…
だんだんと意識が薄れゆく。そんな中で辰伶はぼんやりと考えていた。早く帰らないと、夜中に屋敷を抜け出したことが両親にばれてしまう。それから破れて血に染まってしまった着物を、どうやって誤魔化そうか。どこかに隠して、こっそり捨ててしまおうか。それとも証拠隠滅なんて狡いことしないで、潔く怒られるべきだろうか。何とかしないと……何とか……
どうしよう。身体が動かない…
辰伶が気づいたのは、屋敷の自分の部屋だった。床に横たわっていた身体を寝返り打たせると、背中に痛みが走った。
「痛…っ」
その痛みによって意識がはっきりと覚醒させられた。
「辰伶」
目覚めたばかりの辰伶を、父親の声が呼んだ。瞬時に辰伶は身を堅くした。痛みを訴える身体を無理やり起こし、布団を出て畳の上に正座した。父親の厳しい眼が辰伶を見据える。次の瞬間、父親の拳が辰伶の横面を殴り飛ばした。辰伶の身体は宙に浮き、薙ぎ倒された。
「背中に傷を負うとは、この恥さらしめ。敵に背を向けて逃げるような臆病者に無明歳刑流を継ぐ資格があると思うか!」
未だ癒えない背中の傷と、父親に殴られた痛みで軋む身体を、辰伶は必死に起こして正座し直した。そして気を失いそうになるのを必死に堪えて、父親に向かって無言で頭を下げた。
「あまつさえ、遊庵様の世話になるとは。現太四老とはいえ、所詮は叛逆者の息子。いらん借りを作りおって…」
どうやら辰伶をあの場所から屋敷へ運んだのは遊庵ということらしい。太四老の遊庵がどういう経緯で辰伶を助けることとなったのか、意識のなかった辰伶には知る由もなかった。
「家名を貶める行為は慎め。お前は『無明歳刑流の辰伶』であることを、くれぐれも忘れるな」
「はい。申し訳ございませんでした」
言い訳も反論も無い。辰伶はもう何も考えたくなかった。あの刺客は何だったのか。あの後少年はどうなったのか。何が良くて、何が悪かったのか。
ただ、少年に笛を無事に返せたことは、良かったと思った。
以来あの桜の樹を辰伶は訪れていない。少年に逢うこともなかった。
月日は流れ、辰伶は五曜の戦士の候補にと選ばれた。候補者の中には辰伶の異母弟の姿もあった。そして試験を数日後に控えたこの日、塾の同期生達に誘われて数年ぶりに訪れた桜の樹の下には、昔と同じく金色の桜の精が居た。
「辰伶殿の知り合いか?」
辰伶は無言で、しかし頷くことによって肯定を表明した。
「…螢惑」
辰伶は瞑目し、再び現れた瞳は真っ直ぐに桜の木の下の人物を射抜いた。金の髪。琥珀の瞳。炎を召喚する特殊能力。孤高の魂を持つ桜の精は、辰伶の異母弟だった。辰伶は同期生達に言った。
「この漢は、俺と同じ五曜の戦士の候補だ」
「辰伶殿と同じ五曜星候補…」
辰伶の同期生達はばつの悪そうに見交わすと、途端に腰も低く螢惑に謝罪した。
「知らぬこととはいえ、大変ご無礼申し上げた。どうかご容赦頂きたい」
彼らの掌を返すような態度の変化は滑稽だった。どうやら螢惑を身分ある貴族の1人と勘違いしたらしい。五曜星といえば家柄も審議されるので、その候補である螢惑を彼らが上級貴族と間違えるのも無理なかった。壬生の要職にある者は変わり者が少なくなかったから、螢惑が貴族らしからぬ格好をしているのもそういう類と思われたのだ。彼らの勝手な思い込みを、辰伶も正す気は無かった。
「俺達の方が後から来たというなら他所へ行こう。悪かったな、螢惑。邪魔をして」
辰伶は踵を返すと、同期生達を引き連れてその場を立ち去ろうとした。それを螢惑が止めた。
「待ってよ、辰伶」
螢惑は懐から笛を取り出した。辰伶には見覚えのある笛だ。
螢惑はまっすぐに辰伶を見据えて笛を吹いた。幼い頃とは違う。澄んだ音が風のように旋律を奏でる。笛の音に誘われて、鬼桜が花弁を惜しみなく散らせる。胸に染み入るような笛の音をうっとりと聴き入っていた聴衆の1人が呟いた。
「辰伶殿の笛の音に似ているな」
「そう、なのか?」
そうか。似ているのか。辰伶は懐から扇を取り出し、流れるような動作で開いた。
「おお…」
感嘆の一声を最後に、誰もが声を失った。散華の中に桜の精が2人。1人は笛を奏で、1人はそれに合わせて舞う。物音1つ立てることさえ罪に思えるほど、聖らかな空気がその一帯を支配していた。
花は毎年咲くが、同じ花は2度と咲かない。これほどの舞台は恐らく2度とお目に掛かれないだろう。この場に居合わせた幸運に、或いは2度と見れぬ物を見てしまった不運に、涙を流す者さえいた。
桜は爛漫と咲き乱れ、花吹雪が絶え間なく散り乱れる。
春や、昔の春ならねど。
我が身も人も、元ならねど。
せめてこの一時だけは、昔のような心で。子供のような澄んだ眼で。
おわり
たまには哀しく美しい話を。…嘘です。本当は間接チューが書きたかっただけです。ラストシーンに居合わせた辰伶の同期生たちは、即行で辰伶と螢惑のファンクラブをつくったとか。
05/5/18