13:桜


 爛漫と咲き乱れる桜の下で、小さな宴が催されている。5、6人程の人数で、皆同じくらいの歳の若者ばかりだ。彼らは嘗て、同じ塾で机を並べた同期生達である。上級貴族の子弟ばかりが通う私塾で、そこの塾生達の誰一人をとっても、何れも名のある家の出身だ。

 紅の王という強力極まりない絶対者が統べる壬生の郷に於いて、文人の地位は武人に比べ甚だ低い。如何に名家に生まれようとも、武芸に優れぬ者に将来は開けていない。学問を修めたところで、所詮は他人の下風にしか立てぬ。

 それでも名家の子弟である彼らはまだマシである。これが下級眷属ともなれば、その身体機能を強化された上で、名も無き兵としてどこかの部隊に組み込まれるしか道は無い。上級貴族の彼らは身体強化するにしても最高の技術でもってエリート部隊へ配属されることができたし、或いは文人として閑職にありつくという選択肢もあった。桜の下で宴に興じている彼らは、後者の道を選んだ者達だ。野心的に高みを目指すのでさえなければ、決して悪い道ではない。

 若者の1人が手にしていた盃を置き、懐から扇子を取り出した。

「どうした、辰伶殿。少し酔われたか?」

 辰伶と呼ばれた若者は、取り出した扇子を流れるような動作で開いて見せた。

「いや。花の散り際が余りに見事なので、これに受けて見ようと思ってな」

 広げられた扇に吸い寄せられるように、1つ2つと桜の花びらが舞い落ちる。

「酒に酔って暑気でも覚えたかと思ったら、これまた風雅な心栄えだ。辰伶殿らしい」
「全くだ。名誉ある五曜星の地位には、辰伶殿こそ相応しいというものだ」

 この辰伶という若者は、この宴会の仲間達の中では少し立場が違っている。名家の出身で同じ塾の同期生であることは変わらないが、彼は学問にしか身を立てる道が無いという訳ではない。学問よりも寧ろ武芸にこそ彼の本領は発揮せられる。しかもその才は、実戦部隊を指揮する五曜星の候補にと選ばれる程の輝かしさだ。

 その家柄も上級貴族の中にあって尚、群を抜いた名門中の名門である。その上、容貌も端整な造りで、体躯も均整が取れている。言動の端々至るまで卑しさの一片も見つからない。身分も実力も容姿にも恵まれた彼の将来は栄光を約束されたようなものだ。

 そんな漢が何故文人に混ざって私塾などに通っていたかといえば、それは彼の剰りに輝かしい立場故である。名門無明歳刑流を継承する宗家の総領息子である彼は、弱い文人であることは元より、単純に武人であることも許されてはいない。人心を掌握する為に文人のしたたかさも要求される。その為の私塾通いだった。

 辰伶は数日後に五曜星の選抜試験を控えている。その激励の為に、私塾時代の同期生によってこの宴は開かれた。それを嬉しいとは特には思わなかったが、彼らを殊更忌んでもいなかったので、辰伶はその招きに応じたのだった。

 彼らが辰伶を応援する理由は見え透いている。辰伶が五曜星となり、同期生で知己である彼らをその配下に取り立ててくれることを期待しているのだ。いずれ誰か武人の下につくなら、少しでも強者の下につきたい。将来的に有望な武人の下につかねば、未来が開けない。それが五曜星ともなれば、待遇も違ってくるはずだ。彼らが辰伶に期待するのはそういうことである。

 何とも期待ばかり掛けられる身だと辰伶は思う。生まれたときから父母らが寄せる大きく重い期待を背負ってきた辰伶には慣れた事だ。そんなことを光栄とも思わないし、今更辟易もしない。

 辰伶としてもどうせ配下に持つなら、多少なりとも気心の知れた者の方が良い。同期生達ならその能力も把握しているので人事を考えるのも楽だ。少なくとも無能者を掴まされる心配がないのは良いことだ。この場に居合わせた者達はいずれも学問においては優秀な成績を修め、それぞれの専門分野で才覚を発揮している。

「それにしても良い桜だ。おい、誰か唄え」
「では自分が。1つ即興で」

 それを聞いて、辰伶は立ち上がった。

「面白い。なら、俺も即興で舞おうか」

 辰伶は舞の名手としても知られている。方々から歓迎の声が上がった。

「珍しいな。辰伶殿がこんな席で舞うなんて」
「やはり、少々酔ったのかもしれんな。ああ、酒ではなく、桜に酔った」

 辰伶は扇子に桜の花弁を乗せたまま水平に構え、唄を待った。

花と見て
  水に浸ちたる 袖濡れて…

 春風をはらんで袖が翻る。しなやかな腕が生み出す所作に操られて、扇子がひらりひらりと行き交う。

折れぬ 折られぬ 枝が影
  月より他に 添うは無し  月より他に 添うは無し…

 即興も即興。基本的な動作を簡単に組み合わせた短い舞だが、それは観るものを惹き付けて止まない。散華の中の美しい舞に心を奪われる。

 舞が終わって、扇子が動きを止めた。その上には桜の花弁が2枚乗っていた。それを見て、全員が感歎の声を上げた。

「素晴らしい。舞も素晴らしかったが、あれだけ扇子を翻したのに、花弁を落としていないとはな…」

 大げさな称賛に、辰伶は苦笑した。

「ちょっとした遊び心だ。余り感心されても困る」

 軽く扇を反すと、2枚の花弁は風に攫われていった。それを名残惜しむでもなく、辰伶は席に戻った。その途端、酒を満たした盃を渡される。

「いや、あんな芸当、なかなか出来るものじゃないぞ。なあ、」

 一同は先程の舞を脳裏に浮かべた。再び感歎の息が漏れる。

「それを置くとしても、素晴らしい舞であることは確かだ」
「所作が簡素な分だけ、余計に軌跡の美しさが際立って良かった」
「桜の精かと紛う清浄さだった」
「桜の精か…。古来、桜には鬼が棲むというな」
「鬼と言えば…」

 取り留めのない会話から、ふと1人が言い出した。

「昔、皆で行ったな。鬼桜へ」

 鬼桜。その名を耳にして、辰伶は盃を持つ手を止めた。しかし会話に加わるでもなく、無言で盃を干した。

「あの1本桜か。あのころはそんな徒名があるとも知らなかったな」
「ただ、穴場だというので皆で繰り出したが…」
「よもや人を喰う桜とは」
「あの妖しい美しさでは、人の血を吸うという噂も立つさ」
「如何にも、もの寂しい場所だったからな」

 噂なら辰伶も聞いたことがあった。郷の外れの、少し山へ踏み入った所に桜の大樹が1本だけ生えている。その桜が「鬼桜」などと呼ばれるようになった所以は、単純にその場所が紅の王の居る陰陽殿からみて鬼門に当たることに由来する。

 だが鬼と称えられる謂れが、人心を惑わす美しさにこそあるのも事実だ。たった1本でありながら天蓋を覆い尽くす程に張られた枝振りの、その霞むような梢から、手が届く程の低い枝まで、空間を奪い合うようにして咲き乱れる様は、見る者の魂を惑わすという。花弁が殆ど白に近いにも拘わらず、樹全体は甘美な薄紅色に燃えているようだとも聞く。桜を包む清浄な空気の中で、人は妖艶な陶酔に囚われ、心地良い酩酊に身を預ける直前になって、卒然として凍るような恐怖を感じるのだ。

 桜に喰われる。

 桜美が余りに狂おしく押し迫るので、そんな妄想に駆られるのだ。

 鬼桜。辰伶は遠い日に見た光景を脳裏に描き出した。あの桜には、確かに鬼が居た。

 ――ここで、女が死んだよ。

 酔いが齎した幻聴か。それは昔に聞いた言葉。桜の樹の下で、小さな子供の鬼が言った。金色の眼の、金色の…桜の精。

「辰伶殿」

 名を呼ばれて、正気に立ち返る。

「皆は行ってしまったぞ。酔って動けんのか?」
「いや…」

 辰伶は周囲を巡らした。

「皆は?」
「聞いていなかったのか?今から鬼桜へ行こうということになったんだが、気分でも悪いのか?」
「いや」

 辰伶は立ち上がった。

「行こう。少し考え事をしていただけだ」
「そうか」

 その言葉や動作の確かさから、辰伶が酔ってはいないことは明白だった。ならばと先に行った連中を追って歩く。

「鬼桜とは懐かしいな。辰伶殿は覚えているか?あの頃はまだ塾に通い始めたばかりで、皆、ガキだった」
「今だってそうだろう。身体ばかりが大きくなって、少しばかり知恵がついても、中身は子供の頃と変わらん」
「変わったさ。…変わらぬものなど、無いさ…」
「……そうだな」
「変わらぬ訳にはいくまいよ」

 無垢なままに友情を分かち合える年齢では無くなった。誰もが胸の内に打算を持って、他人に相対する。中でも一番変わってしまったのは自分だと、辰伶は思う。少なくともあの頃の自分は同期生たちを品定めするような目では見ていなかった筈だ。

 いつからだろう。他人を己の役に立つか立たないかで選別するようになったのは。それとも、もっと純粋な交友があったと思うのは勝手に捏造した幻想で、過去を美しく飾り立てたいという浅ましさだろうか。

「おや、何か揉めているようだが」

 件の鬼桜の下で、先に行った同期生たちが何やら騒いでいる。

「貴様のような下賎な輩が、俺たち上級貴族に逆らうのか」
「さっさとそこをどけ」

 桜の木の下に何者かが居るようで、それと言い争いをしているらしい。そういえば、過去にもこんなことがあったと、辰伶はぼんやりと思い出した。

「そっちが後から来て、『どけ』はないんじゃない?上級貴族の人って、物の道理も知らないの?」
「何だとっ」
「もっとも、後先は関係ないけどね。だって、これは俺の桜だから。…そうだよね、辰伶」

 全員が一斉に振り返り、辰伶は注目を浴びた。辰伶の隣の漢が訊ねる。

「辰伶殿の知り合いか?」

 辰伶は無言で、しかし頷くことによって肯定を表明した。

「…螢惑」

 辰伶は瞑目し、再び現れた瞳は真っ直ぐに桜の木の下の人物を射抜いた。

 桜の精は辰伶の異母弟だった。


『澄んだ眼』に続く

05/5/11