12:雲
いつも、いつも、どうしてあの漢は…
螢惑が五曜星となってからというもの、彼についての悪評が絶えない。会議は遅刻する。会合はサボる。任務は失敗こそしないが大雑把。期限を過ぎても報告書を提出しない。提出しても内容は手抜きで報告の意味が無い。怠惰で忠誠心が全く見られないというのが、螢惑に対する世間の評価だった。
それとは逆に、これこそ壬生の戦士の鑑と評価が高いのが辰伶だ。辰伶と螢惑は同時期に五曜星となった。年の頃も近いので、何かと引き合いに出されることが多い。本人達には迷惑以外の何物でもないが、正反対の性質を備える二つの個性の、その力量が均衡するともなれば、人々が比較し論じることを制止することは無理というものだ。
その日も辰伶は螢惑に対する苦情を聞かされた。辰伶が螢惑に対して何ら責任を負っている訳ではないのだが、世間は2人を恰も対であるかのように認識しているのか、一方の行状をもう一方へ訴える。或いはそうすることで辰伶の歓心を得られるとでも思っているのかもしれない。辰伶と螢惑がいがみ合っている間柄であることは、周知の事実であったから。
生憎と辰伶はそういう手合いと交友を持ちたいとは思わない。そんな者たちに近寄ってこられても、ただ、ただ、迷惑なだけだ。
しかし螢惑の素行に関しては、辰伶は『ただ迷惑なだけ』と無視することはできない。同僚と雖も五曜星は相互不干渉を謳っているから、形式的には辰伶に何ら負うところは無いが、決して表には出ないところで、辰伶は螢惑に対して責任を感じている。その理由は2つある。
1つは螢惑が辰伶にとって異母弟であるということ。もう1つは、螢惑に五曜星になるチャンスを与えたのが辰伶であるということだ。
辰伶と螢惑が異母兄弟であるという事実は公にされていない。妾腹に生まれた螢惑は、実の父によってその存在を抹消された。それは単に書面上に留まらず、螢惑の生命そのものに及んでいた。彼は実の父によって放たれた刺客によって、絶えず命を脅かされてきたのだ。その事で辰伶は半分血の繋がった弟に対して少なからず負い目を感じていた。
それだけでなく、辰伶は螢惑の才能を一個人として認めていた。それが生まれの些細な差で埋もれていこうとしている。それが辰伶には許せなかった。
螢惑が五曜星になりたがっているのを辰伶が知ったのは、そんな折だった。その時点で辰伶は五曜の受験資格を得ていたが、螢惑にはそれが無かった。辰伶と比べても遜色の無い戦闘能力を持つ螢惑である。実力は十分にありながら、出自が不確かな身分である為に受験資格を与えられなかったのだ。
異母弟に対する負い目が勝ったのか、運命の不公平さに義憤を感じたのか、辰伶は方々に手を回して、螢惑が五曜星の試験を受けられるように取り計らった。それは名門の出である辰伶にはそれほど難しいことではなかったが、全てを秘密裏に手配するにはそれなりの苦労と手間があった。
そんな辰伶の労苦と奔走を嘲笑うかのごとく、螢惑は念願の五曜星になりながら役目に対して甚だ不誠実だった。これでは螢惑を五曜星に推した辰伶の立つ瀬が無い。勿論、面と向かって螢惑に懇願されたわけでなく、辰伶が勝手に手配したことだから、それで不都合があったからといって立腹するのは筋違いも甚だしい。そう思って黙っていたのだが、とうとう噂に耐えかねた辰伶は、螢惑の元へ直談判に行った。
螢惑は膝丈も無い草に覆われた土手に寝転び、ぼんやりと空を見ていた。その枕元に辰伶は立ち、螢惑を眼下に見下ろして言った。
「お前は五曜星になりたがっていたのではなかったのか」
唐突過ぎる切り出しであったが、辰伶の言わんとすることは螢惑に通じたようだ。螢惑は無感動に辰伶を一瞥し、興味なさそうに視線を空へと戻した。
「なりたかったよ。でも、実際になってみたら、なんか当てが外れた」
螢惑がそう言うのを聴いて、ふと辰伶は螢惑が五曜星になりたがった理由を知らないことに気づいた。壬生に忠誠を尽くすのが当たり前である辰伶には、五曜星になるのは壬生の為に役に立ちたいからであり、それ以外の理由など想像の外だ。だから螢惑が五曜星になりたがった理由など深く考えたこともなかった。
螢惑は何を思って五曜星を目指したのだろう。何を期待して、何に失望したのだろうか。ただ五曜星という肩書きの輝かしさに目が眩んだのか。その特権に付属するはずの利益を望んだのか。それなら軽蔑してやると思った。
「何が期待外れだったんだ?」
「五曜星になれば、紅の王とかにも会えると思ったんだけどね。ちょっとガッカリ」
その答えは意外だった。もっと低俗で卑小な言葉を想像していた自分を辰伶は恥じた。
それにしても、紅の王に会いたいとは。紅の王とは壬生一族の神とも謂える至高の存在である。しかし数年前に王は急逝され、現在は空位となっているのを先代の紅の王が代行している。
もともと王への会見など、めったなことでは叶わないことであったが、そういう事情から余計に難しくなっていた。名門の出である辰伶すら、崩御された紅の王にも、先代紅の王にも、会ったことは無かった。
「…確かに、如何に五曜星といえども、紅の王へのお目通りなど、簡単には…」
「ホント、つまんないよね」
「お前は紅の王に会ってみたかったのか?」
「別に先代でもいいけどね」
「何故?」
「…その人が、最強なんでしょ」
螢惑は平板な口調でそう言うと、跳ね上がるようにして起き上がった。
「昼寝の邪魔されるのって、すごく迷惑」
螢惑は服に付いた土や草の実を払うと、さっさと行ってしまった。その立ち去る背中が視界から消えるまで、辰伶は見つめていた。
強い者に憧れる気持ちは、辰伶にもよく理解できた。辰伶にとってその対象は師の吹雪である。吹雪の強さに加えその志の高さは、どちらも辰伶が憧れて余りある。吹雪への憧れと信頼が、辰伶の壬生への忠誠を堅固なものにしていた。
紅の王に謁見したいなど、螢惑も大それた望みを持ったものである。一介の(という表現が正しいかどうか判らぬが)五曜星ごときには、どうしようもないことだ。太四老の長である吹雪ぐらいにしか叶えることは出来ないだろう。
「…いや、吹雪様なら可能ということか…」
そう、吹雪なら可能なのだ。そして、吹雪の弟子という立場の辰伶なら、吹雪に会って螢惑の願いが叶うよう取り計らってくれることを頼むことができる。吹雪がそれを容れるかどうかは別としても、辰伶が願い出るだけの価値はあるだろう。辰伶は異母弟の望みを叶えてやりたくなった。
辰伶は吹雪の居城へと向かった。
「…そういう訳で、螢惑は先代紅の王への謁見を望んでおります。螢惑の芳しからぬ行状は噂で聞き及びと存じますが、しかしそれも先代紅の王のお人柄に触れれば、必ずや改まるものと、この辰伶、確信しております」
畏まって陳情を述べる弟子を、吹雪は感情の篭らぬ瞳で見下ろしていた。そして幾らかの間をおいて、抑揚の無い声で言った。
「螢惑が、先代にか…」
沈黙が落ちた。辰伶の言葉を吹雪がどのように受け取ったのか、その表情からは全く読むことが出来ない。ひどく緊張しながら辰伶は吹雪の言葉を待った。
「それで螢惑に忠誠心が芽生えると、壬生の為になると、お前は言うのだな」
「はい」
「ならば、取り計らってやろう」
こうして螢惑の先代紅の王への謁見は叶うこととなった。それがどんな結果を齎すこととなるのか、未来を透視できない辰伶には知る由も無かった。
五曜星の長である太白に遣わされた連絡員から書状を受け取り、辰伶は愕然とした。その内容は余りに信じ難く、辰伶の目はそれを事実として受け入れることを拒否した。しかし書面の文字はどこまでも事務的で、それが却って内容が事実であることを証明しているようだった。
「螢惑が、先代紅の王に叛逆?」
それが事実というなら、螢惑の身柄はどうなったのだろう。先代紅の王の強さは太四老を遥かに凌ぐものであると、辰伶は聞いたことがある。その太四老にさえ五曜星である自分たちは遠く及ばない。勝負など一瞬だろう。いや、勝負にもなりはしなかったに違いない。
まさか、螢惑が死……
その想像は直ぐに否定された。連絡員から届けられた書面には、螢惑に蟄居が命じられたことが記されていた。辰伶は小さく息をついた。
吐き出された小さな吐息の代わりに、辰伶の腹にはじわじわと怒りが溜まってきた。命を賭しても守らねばならぬ筈の王に対し剣を向けるなど狂気の沙汰だ。そして、この事態を招いたのは他でもない、螢惑と先代紅の王を引き合わせる手引きをした辰伶自身だ。
「俺は何ということを……」
苦渋の声を搾り出し、辰伶は書状を握り締めた。この事件の責任は自分にある。辰伶は静かな決意を双眸に湛えた。
真っ白な死に装束に身を包んで、辰伶は吹雪の前に額づいていた。その前には一振りの太刀が恭しく置かれている。そのまま頭を上げることなく、静かに述べた。
「此度のこと、螢惑の真なる目的を知らぬこととは言え、私の行いによって先代紅の王の御身に危害が及んだとあっては、如何なる言い分も通用せぬでしょう。最早、赦しを請う気も御座いません。潔く罪に服します。ただ、一言申し上げたきは、私の王への、壬生への忠誠心には一点の曇りも御座いませんし、これまでもそのように振舞って参りました。我に叛逆の意思無きこと、それだけは信じて頂けたらと、厚かましくもお願い申し上げる次第にございます。そして叶いますなら、罪はこの身までとして、我に連なる者に類が及ばぬことを、どうかどうかと、ただ御温情にお縋りするばかりです」
それだけ申し上げると、辰伶頭を低く伏したままの姿勢で、吹雪の言葉を待った。
「辰伶」
氷のような声が低く流れる。
「お前が忠誠心に厚き漢であることは、師である俺がよく承知している。先代に刃を向けたのは螢惑の単独行動であるのは間違いないのだろう」
「……」
「先代は、鬼目の狂の監視役として外界へ赴くことを、螢惑に対し命じられた」
辰伶は驚きのあまり瞠目した。叛逆の罪に対する罰としては異例も異例。刑罰とは到底呼べぬほど軽い処分だ。
「刃を向けた張本人である螢惑がこの程度の罰で済んでいるのに、それを不本意ながら手を貸す形となったお前に厳しいを罰を与えたのでは釣り合いが取れん」
「しかし…」
「それにお前の理屈では、実際に螢惑の先代への謁見を上奏した俺にも咎はあるということになる。寧ろそれはお前の罪よりも重い」
吹雪のその言葉に、辰伶の上体が跳ねるようにして上がった。
「そんな、吹雪様には何の罪もございません」
「それがより上に立つ者の責任というものだ」
「そんな…」
辰伶は先ほどよりも尚深く頭を下げた。
「申し訳ございません。私が浅薄な申し出をしたばかりに、吹雪様にこのようなご迷惑を…」
「辰伶。詫びる気持ちがあるなら、その命を壬生の為に使え。生涯かけて壬生への忠誠を誓え」
辰伶は低い姿勢のまま、顔だけを上向かせて吹雪の目を見た。
「吹雪様、元よりこの命は壬生に奉げております。壬生の為に生き、壬生の為に死ぬことを誓います」
そして再度頭を床に擦り付けた。その為、辰伶は見ていなかった。吹雪の口元に正体不明の微笑が浮かんだことを。
「……期待している」
吹雪が退出したのを、辰伶は気配で感じ取った。しかしそれでも頭を上げず、辰伶は震える拳で床を殴りつけた。
「俺は……俺は、何と浅はかなことを……」
辰伶の行動は先代紅の王に危害を加えるだけに留まらず、尊敬する師の吹雪の立場さえも危うくしかねなかったのだ。先代紅の王の温情に、辰伶はただ感謝するしかなかった。この件で吹雪まで断罪されていたら、辰伶には詫びようもない。例え死んでも償いきれない。
吹雪に対して後悔と謝罪をする一方で、辰伶は螢惑に対してこれまでにない怒りを覚えた。憤怒が体中を駆け巡り、捌け口を求める拳が何度も床を打ち据える。
「ちくしょう……あんな奴……あんな奴……」
悔しさに涙が溢れた。こんな裏切りは無い。辰伶は己の気持ちを螢惑によって土足で踏みにじられた思いだった。螢惑が先代紅の王に謁見できるように取り計らったのは、辰伶が勝手にしたことで、螢惑としてはそれを勝手に裏切りなどと言われるのは心外だろう。それは解かっていたが、そんな理屈では辰伶の失望を埋められない。理不尽だと解かっていても、辰伶は螢惑を憎悪することを止められなかった。
生まれてから今日に至るまで、他人に対してこんなに怒りを覚えたことは無かった。これほど憎しみを感じたことは無かった。
「裏切り者…」
低い声は呪詛に似ていた。奥歯がギリギリと鳴る。螢惑は壬生を、否、辰伶を裏切ったのだ。これが身勝手な私怨であることを、承知の上で辰伶は螢惑を憎んだ。憎まずにいられなかった。
真昼の往来で、辰伶は偶然にも螢惑に出会った。愛刀を腰に帯び、簡単な旅装に身を包んで、普段と変わらぬ足取りで進んでくる。
今日、発つのか。
先代紅の王に叛逆した螢惑は処刑を免れ、代わりに鬼眼の狂の監視の任を仰せつかることとなった。任務の期限については何の言及も無い。或いは体のよい追放ということかもしれない。怪我も未だ癒えぬ内に、螢惑は壬生の郷を出て行く。
関係ないのだと、辰伶は自分に言い聞かせた。この漢と関わることは何も無い。血の繋がりなど本人が知らなければ何も無いのと同じ。兄であるとか、弟であるとか、お互いを関係付ける言葉も意味を失くす。相容れぬ価値観を持つ漢。ただの裏切り者。ただ、それだけのこと。
辰伶は正面を見据え、歩みを緩めることなく直線的に進む。螢惑もぞんざいな足取りを鈍らせない。互いに互いを視界の隅に捕捉しながら、決して目線を合わせない。
もう、帰らないかもしれない異母弟。
もう、会えないかもしれない異母兄。
すれ違いは一瞬だった。そこに躊躇いの影は無い。2人の距離は淡々と開いてゆく。
「雲が速いな」
振り向かずに辰伶が言った。
「夕方には降るかもね」
振り返らずに螢惑が答えた。
それきりだった。前だけを見つめながら、背中で互いの気配が遠ざかるのを感じていた。螢惑の姿が樹海の中へと消えた頃、辰伶は高空を行く雲を遥かに見上げた。
おわり
05/5/4