09:敬愛


 壬生の為に生き、壬生の為に死ね。それが、壬生の戦士の務め。

 その言葉は、辰伶がまだ母の胎内に在る時から繰り返し寄せられてきた。辰伶が辰伶と名付けられるよりも先に、辰伶がその名で呼ばれるよりも先に、その言葉があった。

 温かな羊水に抱かれて心臓の音に揺られながら、その言葉のリズムに呪縛される。辰伶であることよりも先に、辰伶は壬生の戦士であり、一門の命運を担うべき長子であるのだと、辰伶を形成する細胞の一つ一つに刷り込まれる。

 壬生の為に生きて、

 壬生の為に死ぬ。

 辰伶はその言葉を心臓にして産声を上げた。その言葉はシャム双生児のように常に辰伶に寄り添い、辰伶は不在の双子と共に成長した。

 壬生の為に生き、壬生の為に死ぬ為に。


 壬生の為に生きるということ。それは辰伶にとっては疑問など差し挟む余地も無く、彼が生を受けた理由そのものだ。
 己のみならず、この世に存在する何もかもが壬生一族の為に存在しているのだと、誰も彼もが壬生一族の為に考え、行動し、生きているのだと、それが普通なのだと、普通に思っていた。

 事実、誰もが『壬生の為』と口にした。父も、母も、辰伶を取り巻く全ての者達が、口を揃えて言った。壬生の為に強くなれ、と。

 しかし長ずるにつれ、辰伶が『辰伶』という自我の気配を己の中に見出し始めた頃、『壬生の為』という言葉の中に内在する微かなノイズを、意識の上に感じ始めた。その小さな不快音の響きは、辰伶を訳も無く苛立たせ、やり場の無い攻撃性を育んだ。

 しかし、それを無闇に表出するほど無分別でなく、マイナス感情を抑制するだけの理性を年齢以上に身に着けていた為、それが噴出するようなことはなかった。燃え上がることも消え失せることも出来ない炭火のように、チリチリと燻り続けた。

「辰伶」

 精神に漣が立つ。それを慣れた手順で押さえ込み、辰伶は父に対峙する。

「下らぬことは全て捨て去り、壬生の為に生き、壬生の為に死ね。その為に、強くなれ」

 跪く辰伶は、更に畏まってみせる。漣が大波となって溢れぬよう、その瞳を閉じる。

 解かっている。壬生の為に生き、壬生の為に死ぬこと。それは辰伶の魂に刻まれ、中核を成している信念だ。言われるまでも無い。言われたところで今更感動することもなければ、殊更反発することもない。

 外の世界などというものに憧れていたこともあったが、それも昔のことだ。所詮は未熟ゆえの気の迷いであったと、辰伶は弁えている。

 己の生が壬生の為だけに在るということ。その為だけの存在であること。そんなことは当然過ぎて、感慨の1つさえ浮かばない。

 ですが、父上、

 辰伶は密かに眉間に縦皺を作る。

 不快なのです。貴方の唱える『お題目』は。

 壬生の為に生きることが不快なのではない。辰伶が嫌悪するのは高潔な信念を『お題目』に貶める父の行為だ。それは辰伶の矜持を深く傷つけた。

「お前は『辰伶』である前に、我が家門の長子であることを忘れるな。我が家門の為、壬生一族の為…」

 語るに落ちているのです。父上。

 壬生一族の為と言いながら、本音は『我が家門の為』なのだ。家門の為、つまりは自分の為。辰伶に強くなることを強いるのは、ただ己の私欲に過ぎないのだと、辰伶の耳は聴き取っていた。一門の繁栄こそが、父の最重要項目なのだろう。それは壬生の為とは言えない。ただの私情だ。

 辰伶の魂が不快感に打ち震える。こんな汚らしい私欲のために存在するのではないと。壬生の為。そう、壬生の為にこそ、この命は…


 誰だってそうだ。結局は自分が一番大切なのだ。

 辰伶の心は冷め切っていた。壬生の為なんて、皆、口の先ばかりだ。誰もが本心では自分の利益のことしか考えていない。『壬生の為』と唱えるのは、それが自分の得になるからだ。本当は壬生の為ではない。皆、皆、私利私欲の為に生きている。

「汚らわしい…」

 そんな者たちの口から、気安く『壬生の為』という言葉が垂れ流されると、辰伶の背には虫唾が走った。自分の生き様までも蹂躙されるような想いを味わった。

 壬生はこんなにも美しいのに、それに相応しくない者達が横行し、美しい壬生を穢していく。

「でも…あの方は違う。あの方々だけは…」

 辰伶がその脳裏に浮かべた人物は2人。内1人は太四老の長である村正だ。村正はいつも穏やかに微笑み『壬生が好きですよ』と言う。呼吸のように自然に、ただ『私は壬生が好きですよ』と…

 もう1人は同じく太四老で、辰伶の武術の師である吹雪だ。辰伶は吹雪から無明歳刑流を継承すべく、その教えを受けている。

 吹雪も辰伶に対し『壬生の為に』と言う。抑揚小さく淡々とした声音が、刺すような冷たさで辰伶の頭上に投げかけられる。その硬質な響きが、辰伶には心地よかった。吹雪の言葉には私情の生臭さが感じられない。潔癖で、禁欲的で、純粋だった。雑音に厭いていた辰伶の耳は、吹雪の言葉を従順に受け入れた。

 無私の忠誠心。それが辰伶の魂に刻まれた理想だった。比類ない強さと高潔さを併せ持つ吹雪の姿は、まさに具現化された理想像だった。その魂も志も、何者も及ばぬ崇高さで辰伶を魅了した。

 吹雪の意志を支えることで、壬生の為に尽くせるのなら。

 自覚のないままに、辰伶にとって壬生とは吹雪そのものだった。壬生への忠誠も、吹雪への憧憬の延長に位置していた。


『…どこまでバカなんだよ…いいように丸め込まれて、操られて、コマ扱いされて…』

 それでも構わなかった。

『…それでも信じてる…純粋バカすぎるんだよ。見てるとムカつくんだよ…!!』

 俺は、駒でも構わなかったんだ、螢惑…

 吹雪が己のことを駒としか見ていないことも、薄々感じていた。しかしそれは辰伶には構わないことだった。吹雪が壬生の為に辰伶を手駒とするなら、それはある種本望だった。冷酷なまでの公正さこそ、吹雪の非情な高潔さには相応しい。

 寧ろ吹雪が壬生の為に駒を必要とするなら、自分こそがそれになりたかった。誰よりも役に立つ駒に。有能で、最強の手駒になりたかった。そうなることの意味を深く思考することも無く。

 愚かなことだけれど。それでも本心からそう思っていた。そして、その愚かさがこの事態を招いた。全ては、己の至らなさ故の…

「吹雪様…」

 傷が痛む。吹雪に抉られた身体が、心が血を流している。

『私は壬生が好きですよ』

 朦朧とする意識に、懐かしい村正の声が響く。

『それでも私は、壬生を愛していますよ』

 その声は永遠に失われた。もう遅い。遅すぎた…

「俺は『壬生の為』と言いながら、壬生の何を愛していたのだろう…」

 幼い頃、無心に憧れた美しいものを、もう一度追いかけてみたいと思った。そして…

 そして、意識は沈黙した。


 『罰』へ続きます

05/4/13