08:畏怖


 夜の闇を行く。枯れた森の、歪曲した木々達の姿を月明かりが仄白く浮かび上がらせ、暗い夜道に尚、黒々とした影を落とす。静寂にも似た騒めきの中、突如として鵺鳥が啼き叫ぶ。その鬼気迫る声に驚かされ、急ぎ走る身が萎縮する。

 早く、これを隠さなくては。

 両の腕に抱えるもの。真っ白な産着に包まれた赤子を抱いて、ひた走る。禍々しい木の枝がその腕を伸ばしてこれを奪い取るのではと、そんな妄想に背中を脅かされて、赤子をしっかりと抱え込む。襟首に掴みかかる不安と焦燥を必死に払い除けながら、息も乱して走り続ける。

『辰伶』

 名を呼ばれて、足が止まる。ああ、見つかってしまった。

『それは、必要ないものだ』

 ああ、もう駄目だ。ああ…

 ゆっくりと振り返り、のろのろと赤子を差し出す。ああ…ああ…

 ああ、溜息に埋もれる。


 いつからその夢を見るようになったのか、それは当の辰伶自身にも記憶が無い。全く同じに繰り返される夢を何回見たのか、それも解からないほどに、辰伶は昔から何度もこの夢を見た。

 夢の中で辰伶は赤子を抱いていた。真っ白な布に包まれた小さく弱い生き物。それを大事に抱えて、夜の森を走っている。森の奥の、誰にも知られない場所へ、この赤子を隠すために。理由は解からない。所詮は夢の中での行動だ。

 しかしそれは完遂されない。途中で必ず見つかってしまう。その声は辰伶の行動を完全に支配する力を持っていた。辰伶はそれに対して全く抵抗することも無く、言われるままに赤子を差し出してしまうのだ。

 あの赤子は、その後どうなってしまうのだろう。朝陽の中で辰伶は、いつもそんなことを考える。

 赤子のことを考える。しかし不思議とその容貌が思い出せない。夢の中では確かに見ていた筈なのに、夢から覚めた状態ではその姿形を全く思い出すことができない。泣いていたのか、笑っていたのか、それとも安らかに眠っていたのか、それすらも覚えが無い。辰伶が赤子を差し出した時には、果たしてそのいたいけな瞳は開いていたのだろうか。

 そもそも辰伶は本物の赤子というものを見たことが無い。壬生では赤子が生まれなくなって久しく、辰伶はその末期に生まれたので、赤子を目にする機会が無かった。だから赤子というものが本当はどんな形をしているのかも、実際には知らない。ひょっとしたら、辰伶が抱いているのは赤子ではなく、何か別の物かもしれない。いずれにせよ、そういう不確かな記憶が作り出す映像であるが故に、覚醒した辰伶は赤子の姿を明瞭に思い出せないのだろう。或いは、夢の中で『見た』と思っているだけで、本当は見ていないのかもしれない。

「それでも、随分久し振りに見たな」

 少し長い期間その夢は辰伶を訪れていなかった。だから辰伶はこんな夢の存在はすっかり忘れていた。そして睡眠中に夢をみること自体が久し振りであることに気づいた。辰伶は無明歳刑流を継ぐ者として、また一門を統べる本家の長子として、武術や学問、礼儀作法から教養に至るまで多くの事を身に着けねばならず、その修練に日々を費やしていた。手を抜くということを知らない真っ直ぐな気性を持つ彼は、全てに全力で取り組み、その身を酷使していた。幼少の頃より憧れていた太四老の吹雪から教えを受けるようになってからは尚更で、夜ともなれば疲れ果てた辰伶は夢も見ずに眠っていた。

 こんな夢を見たのは、昨日、聴かされた話と関係があるのだろうか。信じられない、まさか、と辰伶は思った。まさか、この自分に…

『辰伶、お前には異母弟がいる。名を螢惑と言う』

 弟が、いたなんて…

 それを聴かされたとき、辰伶の胸には驚きと同時に何か仄温かいものが広がった。『おとうと』という単語が心臓の鼓動と同じリズムで辰伶の胸に響き渡った。

 だが直後に辰伶は失望を得ることとなった。母は違えど同じ血を引く弟を、己の父親は抹殺せんと刺客を差し向け続けていたのだ。父にとっても血を分けた実の子供だというのに。辰伶の胸に灯った期待の柔らかな炎は吹き消され、忽ち冷えた。

 ――それも、家門の為ですか?壬生の為なんですか?父上。

 その疑問を、辰伶は口には出来なかった。辰伶に許されている言葉は『はい』という肯定と諦観のみ。否定どころか、疑問を持つ事さえも許されなかった。

 ああ、でも、異母弟。辰伶は逢ってみたいと思った。逢って、話をして、それから……それから?

 話をして、どうしようというのだろう。辰伶は自嘲した。何を話せば良いのだろう。自分はお前の異母兄で、お前を殺そうとしている男の息子ですとでも言えばいいのだろうか。何も無い。話せることなど、何1つ無い。

 それでも、姿を見るくらいなら許されるのではないだろうか。だって、たった一人の兄弟なのだから。それくらいは許されてもいいのではないだろうか。


 辰伶は様々な意味でショックを受けていた。自室で灯もつけず、初めて目にした異母弟の姿を、辰伶は目蓋の裏に描き出した。あれが、異母弟。

 痩せていた。少し小柄なその体躯には、刀が不釣合いに大きく見えた。ぞんざいに伸ばされた髪は少し傷んで見えたが、陽の光を浴びてキラキラと輝いていた。袖から覗く腕や、あどけない輪郭の顔など、目に見える部分には傷や痣が目立ち、それが己の父の差し向けた刺客によるものと簡単に想像できた。

 少し見ただけでも、その生き様の激しさが解かる。幾多の死線を、あの歳にして潜り抜けて来たのだ。辰伶よりも1歳年下の彼が。

 痛々しいと思った。だが、それだけではない。辰伶が強く感じたのは、眩いほどの憧憬だった。彼の生きる力に強烈に惹かれた。その身に纏う傷の1つ1つにさえ敬意を抱いた。

 自分とは似ても似つかぬ顔、背格好、性格。そして、その生き方。彼は空に浮かぶ雲のような漢だった。あれだけの傷を負いながら、強い眼差しは何者にも臆することはなく、その魂は誰にも縛られること無く自由だった。

 血の繋がりを超え、1人の人間として、その魂の強さに惹かれた。


 辰伶は走っている。赤子を抱き、夜の森を走っている。

 ――ああ、また、この夢…

 背後から迫りくるものを、辰伶の背中は鋭敏に感じ取っている。来る。もうそこまで来ている。振り向きたいが、振り向いている隙などない。ああ、捕まる。捕まってしまう。ああ…

『辰伶』

 名を呼ばれて、足が止まる。ああ、やっぱり捕まってしまった。

『それは、必要ないものだ』

 ああ、もう駄目だ。ああ…

 ゆっくりと振り返る。声の主は、己の父親だった。辰伶はそのことにずっと前から気づいていた。いや、最初から知っていた。だから、逆らうことが出来なかった。

 赤子を差し出そうとして、不意に産着に包まれたそれと目が合う。あどけない、どこか懐かしい色をした瞳。

「……螢惑?」

 これは、この赤子は、己の異母弟だったのか。辰伶は雷に打たれたような衝撃を受けた。

『辰伶。それを渡せ』

 異母弟だったのか。ならば、ならば…

「……わ、渡せません」

 辰伶は赤子をしっかりと抱え込んだ。

「渡せませんっ!父上…」

 父に渡したら、弟は殺されてしまう。

『渡せ』

「だめですっ」

 父親に背を向け、辰伶はその身で赤子を守るようにして抱きしめた。背中に圧し掛かる父からの威圧感は凄まじい。いつしか地面に膝を着き、しゃがみ込んでいた。それでも渡せない。父にも、誰にも渡さない。守るのだ。何故なら、この赤子は辰伶にとって大切な、

「たった一人の、俺の弟なんです…」

 弟なのだ。


 その日、辰伶は生まれて初めて己の父親に意見した。

「父上、螢惑に刺客を送ることはおやめください」

 怖ろしかった。辰伶にとって己の父親の存在は途轍もなく大きかった。だからこそ、侮られる訳にはいかなかった。

「あ奴のことはすべて、この私にお任せを」

 目を逸らすな。
 言葉を鈍らせるな。
 四肢の震えを止めろ。

 そして、この胸の内に芽吹いた反抗心を悟られてはならない。己の言動に異母弟の命運が懸かっているやもしれないのだ。辰伶は極めて慎重に、有りっ丈の気概を込めて、毅然と父に対峙した。

 長い沈黙を、辰伶は無言で待つと謂う行為で耐える。現実には大して時間は経っていなかったのかもしれないが、この時間は辰伶にとっては重い試練だった。

「辰伶」

 父の声に、緊張が走る。しかし、それも表には出さない。

「その件は、お前に一任しよう」

 辰伶は深く頭を下げた。そしてその陰で息を吐こうとした瞬間、父の声が釘を刺した。

「辰伶、期待に背くなよ」

 心臓を掴まれたかと思った。顔を上げらない。見ずとも父の視線が己の身に注がれているのを感じる。辰伶は更に深く礼をした。

「よく、肝に銘じておきます」

 それだけ言うのが精一杯だった。辰伶は足早にならぬよう、殊更注意して父の元を辞した。襖を立て切ったときには、緊張の糸が切れて、その場に座り込んでいた。


 数日もして、辰伶は父の病を知った。かなり以前から死の病に侵されていたらしい。それから数年生きて、他界した。

 父親が死んでからも、辰伶は幾度かあの夢を見た。亡き父の呪縛を、辰伶は今もその身に感じている。

 夢の中の赤子は誰だったのだろう。本当に、異母弟だったのだろうか。朝陽の中で、辰伶は目を眇めた。少し日差しがきつくなった。

 もうすぐ夏が来る。灼熱の夏が。


 おわり

 勿論、赤子は螢惑ではなく辰伶自身です。

05/4/6