05:龍


 吹雪の掌の上で、小さな水晶の玉が踊っている。親指の爪ほどの大きさのそれは、水の玉のように傷1つ無く、冷ややかに澄んだ光を宿している。吹雪の冷めた瞳はそれを映すことなく、光はやがて吹雪の手の中へと握り込まれた。

 吹雪の脳裏には、先程目にした光景があった。

 吹雪の弟子である辰伶と、もう1人は…螢惑といった筈である。遊庵が目を掛けているらしいが、あれは辰伶の異母弟であったと吹雪の記憶にある。

 辰伶は水を自在に操り、螢惑は炎を召喚する。それぞれが有する特殊能力の性質がそうさせるのか、それともその同じくする血が呼び騒ぐのか、彼らは事あるごとに反目し、今日のように剣を交えることも頻繁だ。力量が拮抗しているために決着はつかない。

 互いに強く意識しており、この相手にだけは負けじと意地になって鍛錬をするから上達は異常なほどに早い。恐らく彼らは将来的には壬生の中枢にその身をおくほどの手錬れとなるだろう。ただし、螢惑はその身分に問題が無ければの話だが。

 ライバルというのだろう。彼らのような関係のことを。しかしそれとは別の次元で、彼らの関係に内在する彼ら自身も気づかぬ障壁を、吹雪は見て取った。

 あれでは駄目だ。あれは辰伶を妨げる。

 呪が流れる。言霊は滔々と水晶の玉へと注がれる。密やかに、冷ややかに、水のように滔々と流れ注がれる。

 吹雪の手の中で、水晶の玉は新たな光を得た。


 そう言えば、最近アイツに会ってないかも。

 不意に螢惑はそんなことに気づいた。辰伶とは何の約束もないし、住処が近いわけでもないので、会わなくても不思議は無い。そもそも会いたいとも思っていない。お互いに。

 螢惑は辰伶が嫌いだ。辰伶も螢惑のことが嫌いなのだろう。稽古場だろうが往来だろうが、会えば必ず喧嘩になる。だから2人が会わないことは壬生の郷の平和に大きく貢献しているはずだ。

「でも、これって変じゃない?」

 ほんの少し前まで、螢惑と辰伶はしょっちゅう顔を合わせていた。互いに用事は無く、螢惑も辰伶もそれを予定に入れて行動していた訳ではないから、全くの偶然に行き合わせていただけだ。だから螢惑の言うようなおかしな点は何も無い。少なくとも、彼らの意識上に於いてはそうだ。

 人の意識に上らない次元の話となると、事情は一転する。

 繰り返し辰伶と刃を交える内に、螢惑は自分の能力の性質について気づいた事があった。そして同時に辰伶の能力の性質にも気づいた。自分と相手の能力が奇妙な形で噛み合い、関係している。

 辰伶の特殊能力は水だ。その水の性に惹かれて、良くないものが集まってくる。良くないものとは怨念や悪霊といった類のもののことだ。陰の気に棲むこれらは湿気を好むのか、沢や沼など水辺に寄り集まってくる。辰伶の水の気はこれらを呼ぶのだ。

 そしてその良くないものどもを、螢惑の特殊能力である炎は浄化する。だから辰伶は自分の身が瘴気を帯びると、無意識に螢惑の元へ赴く。或いは浄化を求める瘴気が辰伶の意識下に働きをかけて、そうさせているのかもしれない。辰伶自身は全く気づいていないようだが、螢惑にはそれが視える。これが彼らのもう1つの関係だ。

 そういう関係にある以上、辰伶と螢惑がこれ程の長い間顔を合わせないというのは異常だ。螢惑の言う変とはそれのことだった。

 螢惑と戦うことでその身の瘴気を祓っていたものが、それをなすべくもない現在、辰伶はどのような状態となっていることだろうか。螢惑は気になった。

「別に、アイツの心配してる訳じゃないから」

 周囲に聞くものなど居はしないのだが、螢惑は言い訳めいたことを呟いた。これは好奇心だ。心配とは違う。絶対に。

 これまでは好き勝手に歩いていれば、自然に辰伶に行き当たった。ならば、行きたくないと思う方向へ行ってみたらどうだろう。

 逡巡の末、螢惑は歩き出した。気の向かぬ方向を探りつつ、高下駄はぶっきら棒に鳴っていた。


 先程から螢惑の神経をピリピリと刺激するものがある。無視できないことはないが、不快感に苛立つ。それは螢惑が前進するにつれて次第に強く明瞭になる。寧ろその不快感を強く感じる方向を選んで進んでいるのだから、それは当然のことだ。当然のことであっても不愉快なものは不愉快に変わりなく、機嫌は悪くなる一方だ。

 こんな思いまでして、辰伶を探す必要などあるのだろうか。それに対する螢惑の答えは否だ。必要など無い。特に逢いたくはない。用事も無い。強いて言うなら、辰伶の身に溜まっているだろう瘴気がどんな状態になっているのかが知りたい。螢惑が浄化せずに放っておいたらどんなことになってしまうのか、それは少し気になる。

 プライドの問題だと思う。辰伶と螢惑の間にある浄化の関係が良いか悪いか、好きか嫌いか、必要か不必要かということではない。問題なのは、螢惑の意志とは関係なしに、それが崩れたということだ。何かが邪魔をしている。状況の変化に何者かの干渉があったことを、螢惑は直感的に感じ取っていた。その干渉が気に入らなかった。

 水の音がする。岩にぶつかり砕けながら、やがてその岩までも押し流す急流である。螢惑は眉間に縦皺を作った。螢惑は水が嫌いだ。急流の先は切り立っており、流れは吸い込まれるように崖の向こうへ消えていく。下方から滝つぼが轟々と鳴っている。

 滝へと落ち込む寸前の一番流れが急なところに、辰伶はいた。腰までその身を水に浸し、流れに攫われそうになるのを耐え、水の行方を視凝めている。凄まじい精神力だ。少しでも気を緩めれば、流れと共に滝へと飲み込まれてしまう。いつもはきっちりと1つに束ねられている髪も解かれ振り乱され、銀色に煌いていた。

「何しに来た」

 そのままの状態で、辰伶は言った。ちらりとも視線を寄こしはしなかったが、螢惑が現れたことには気づいていたようだ。

「何してんの?」

 辰伶は答えない。螢惑は少し腹が立った。

「無視?」
「用が無いなら構うな。…今は余裕が無い」
「ふうん…」

 気に入らない。辰伶の目的は知らないが、邪魔してやりたくなった。あの背中に飛び蹴りを入れて、滝の中へ落とし込んでやったら面白いだろう。

 そう思ったが、実行はしなかった。急流に立つことに集中している辰伶の背中は隙だらけで、実行するのは簡単だ。しかしその無防備な背中に圧し掛かるようにして、瘴気の塊が覆い被さっているのを、螢惑の双眸は鋭く見て取った。瘴気が高じて魔と化している。

「…あれってヤバくない?」

 あんな凄いものを浄化できるだろうか。螢惑は本能的に危険と判断した。あんなものに係わりたくない。螢惑は辰伶の言う通り、この場から背を向けた。

「……」

 背を向け、視界から外しても、立ち去ることが出来ない。良好とは決していえない仲だが、それでも血の繋がった兄弟を見捨てられないということだろうか。そうではない。そんな甘ったるい感傷なんかであるはずが無い。つまりはプライドの問題だと、螢惑は思う。眼前の災厄に対して、敵わないからとしっぽを捲いて逃げることは、自分自身が許せない。

「辰伶!」

 螢惑は刀を大きく振り被り、急流のさ中に立つ辰伶に挑んだ。本物の殺気を込められた剣を、辰伶も無視することは出来ず、流れから飛び退り、岩の上で迎えうつ。

「やめろっ。今はお前と争う気は無い。後で幾らでも相手してやるから、今は邪魔をするな」
「後があればね…」

 螢惑は手を緩めず炎を召喚した。川の水が一瞬にして蒸発して消える。すぐにまた上流から水が流れて、川が途切れたのは一時的なことであった。その僅かな時間に螢惑は猛攻を繰り出し、辰伶を川から追い出した。

「やめろっ。螢惑っ」

 ぶつかり合う白刃から火花が散る。その一合ごとに、辰伶の水の気に惹かれて寄り集ったものたちが浄化されていくのが、これまでの流れであった。しかし今回は魔の毒が強すぎるのか、その瘴気は弱まる様子が無い。螢惑の炎が持つ浄化の力が全く利いていない。

「こんなことって…」

 信じられなかった。ここまで強大になった魔が危険なことは解かっていたし、これまでのように簡単には済まないだろうことも予想していたが、自分の力が全く利かないなどとは思っていなかった。何かが螢惑の力を阻んでいる。螢惑が辰伶に会うのを邪魔していたのと同じ何かが、螢惑の力が辰伶に作用するのを阻んでいた。

「やめろ。無駄なんだ。螢惑」
「どういうこと」

 辰伶の『無駄』という言葉に不審感を抱いた螢惑は一時剣を引いた。それに合わせて辰伶も剣を収める。久しぶりに正面から対峙した辰伶の容貌からは、聊かやつれたような印象を受ける。瘴気は確実に辰伶を蝕んでいる。更に注意深く観察すると、辰伶の心臓の辺りに奇妙な波動を感じた。

「辰伶。懐の中に何持ってんの」

 乞われて辰伶が懐中から取り出したのは小さな水晶の玉だった。

「何それ」
「これには火伏せの呪が施されている。これを持つ限り、お前の炎は俺を浄化することはできん」
「何それ。何考えてんの」
「これは吹雪様から頂いた」

 辰伶が師である吹雪に心酔していることは、螢惑も知っていた。ならば辰伶がそれを手放すはずが無い。

「この水晶を手にして、数日と経たずに変調を覚えた。どうやら俺の気は、こういう良くないものを引き寄せるらしいな。…お前は知っていたのだろう」

 螢惑は無言で頷いた。

「俺は無意識にこれらの浄化を求めて、お前と剣を合わせていたようだ。まるで自覚は無かったが…」
「そこまで解かってて、何でそれを捨てないの」

 辰伶は水晶を再び懐中へと大事にしまいこんだ。

「吹雪様がわざわざ俺に下さった物だ。俺の為にならぬものである筈が無い」

 何故そこまで信じられる。螢惑は師に盲従する辰伶に苛立った。

「…どうだか。じゃあ、そのザマは何?」

 辰伶は再び急流へ赴いた。想像以上に辰伶の身体は瘴気によって蝕まれているらしく、足取りに冴えが無い。

「螢惑、浄化の力を持つのは炎だけではない。水にもその力はある。ただ、水と炎では性質が違う。水の浄化は炎のように強力ではないし、瞬間的ではない」

 悪いもの、良くないもの、所謂瘴気が水気に寄ってくるのは、水の持つ浄化の力を求めてのことである。そうして寄り集まったものが、浄化に於いて水よりも即効果のある炎の気を見つけたとき、そちらへ傾倒していくのは当然だろう。辰伶と螢惑はそういう関係にあった。

「静止している水では弱い。絶えず流れ続ける水が最適だ。…興味があるなら見ていても構わんが、絶対に手を出すな。助力は不要だ。邪魔にしかならん」
「心配しなくても、お前を助ける気なんて無いし」

 辰伶の口元が微かに笑みを描いた。背中を向けている螢惑からは見えないように。

「言い忘れたが……これまでご苦労だったな。礼を言う」

 辰伶の言葉には不吉な翳りがあった。まるで最期を迎える者の言葉を聞いたように、螢惑は酷く胸騒ぎがした。


 急流に身を晒す辰伶から、その身を取り巻いていた瘴気が薄れてゆく。瘴気の持つ毒が水の流れによって徐々に洗われてゆくようだ。炎は瘴気を焼き尽くし消滅させる。それが炎の浄化。しかし水はその瘴気を滅せず、その性質を変化させてみせた。瘴気の霧が晴れるに従い、その頭上で透明な龍が形を成していた。煌く水の王が、自分を創造した辰伶を静かに見下ろしている。

「…これが水の力…」

 完全に瘴気が消えると、龍は身をくねらせて滝つぼへ飛び込んだ。そして再び宙に踊り、辰伶と正面から相対した。

 これで終わったのかと螢惑は思ったが、そうではなかった。次の瞬間、水龍は牙を剥いて辰伶に襲い掛かった。

「なんで!?」

 思わず螢惑は叫んだ。訳が解からない。あの龍は辰伶が浄化して創ったものだ。それが何故、創った本人に襲い掛かる。

 この展開は、辰伶には最初から承知のことらしく、舞曲水を手に真向から受けて立った。水龍の攻撃に辰伶の足元がグラついた。その足場は眼前を滝とする急流で、辰伶は僅かに踏みこたえるも、2度目の水龍の攻撃で押し流された。

「辰伶ーっ!」

 滝の下から龍の咆哮が響いた。それは逆巻く水の轟きだった。


 滝つぼの中は無秩序に渦を捲き、辰伶の身体を翻弄した。その状態で水を制御するのを試みるが、余り上手くいかない。辰伶が自覚する以上に瘴気による消耗は深刻だった。精神的にも肉体的にもボロボロだった。

 水龍の顎が辰伶を捕らえる。全身の骨が軋みを上げた。

 ――俺を喰らいたいか。

 辰伶は龍に呑まれながら、能力の一欠片まで振り絞って、水の支配を試みた。水龍が暴れる。いや、暴れているのは龍の腑に収まった辰伶の方なのか。

 水の王たる龍。誇り高き霊獣。

 ――身体はくれてやる。だが、間違えるな。俺が貴様を使う。

 限界にある辰伶に力を与えているのは、水を司る無明歳刑流を継ぐ者としてのプライドだった。意地だけが辰伶に残された力だった。


 滝の底は荒れている。辰伶は螢惑に浄化を求めず、自らの力のみを頼んだ。己の力を信じ、師である吹雪を信じた。この期に及んで、螢惑に出る幕は無かった。螢惑は傍観者でしかなかった。

「いいよ。辰伶がそう望むなら。その代わり、見させてもらうから。どんなにボロボロになっても、惨めな格好になっても、ずっと見ていてあげる。…お前の信念を」

 滝の底から湧き上がる轟音が天地を揺るがす。水を巻き上げて、一匹の龍が姿を現した。透き通った龍が螢惑を冷たく見下ろす。

「…失敗しちゃった?」

 龍の首が螢惑目掛けて振り下ろされた。螢惑は龍に視線を合わせたまま、後ろへ飛び退った。

 襲ってくるかと思った龍の首は、途中で速度を和らげ、そっと地に伏す形となった。その背には辰伶がいた。

 辰伶が地面に飛び降りると、水龍のその巨躯は次第に凝縮されて、小さな蛇くらいの大きさになって辰伶の腕に絡みついた。辰伶は腕を上げ、水龍と眼を合わせる。水龍はスルリと腕を伝い、辰伶の口腔へと忍び込む。辰伶の喉が艶かしく動き、それを嚥下した。

 水龍は辰伶と一体化し、新たな力を与えることとなるだろう。

「これが水の力だ」

 辰伶は誇らしげに言った。そんな辰伶に、螢惑は苛立ちを覚えた。

「上手くいったみたいだけど、随分危ない橋だったね。お前の師って、本当にお前のことを思って、こんなことさせたの?お前が死ぬかもとか、全然考えなかったのかな」
「俺の力量を信じて下さったのだとは、俺も言わん。俺がこれで命を落とすようなら、到底、吹雪様のお役には立たぬということだ。無明歳刑流を継ぐ資格も無いし、生きる価値も無い。壬生には要らぬと、そう吹雪様が判断されるなら、それに従うまでのこと」
「…やっぱり水は嫌い」

 水は高きから低きへと流れる。器次第で円にも角にも形を変える。無限の可能性を持ちながら、水は自ら方向を定めない。自ら形を選ばない。だから螢惑は水が嫌いだ。辰伶が嫌いだ。

「1つ忠告しておくけど、水龍飲むの、あんまり人前でやんない方がいいと思う」
「どういうことだ」
「なんか、ヤラしいから」
「え?……ええっ!」

 最後に辰伶の心に波紋を投げかけて、螢惑はその場を去った。そっと振り返ると、辰伶が呆然と立ち尽くしている。頭の中がパニックになっているのだろう。いい気味だ。

「…ほんと。俺、何しに来たんだか…」


 おわり

05/3/16