背筋は伸ばすもの。
頭は上げるもの。
瞳は正面を見据えるもの。
常に堂々たれと、名門無明歳刑流本家を継ぐものとしての姿勢を、骨の髄まで叩き込まれて成長したのが辰伶という漢である。正しい姿勢は美しい骨格を作り品格を生み出す。立居振舞は自然に美しく、挙動は無造作に上品だ。それらを全く無意識にやってのけてしまうのだから、生まれ育った環境というものは侮れない。
後ろ暗いことも恥じ入るようなことも無い、この姿勢の良い漢が、地面を見るなどということは滅多にない。しかし誰にでも悩む時や落ち込む日があるわけで、その時、辰伶は寝起きの床のまま上体だけを起こし、深く頭を垂れていた。
――もう厭だ。
深く深く溜息をつく。
――仕事に行きたくない。
辰伶は真面目な漢である。自分の役目に対していつも前向きで、誠実に仕事をこなす。その彼が仕事に対してここまで否定的な姿勢を見せるのは尋常なことではない。
それは確かに尋常ではなかった。辰伶が執務室に入ると、まず迎えるのは未決済の書類の山である。どれから手をつけようなどと仕事を組み立てる余裕もない。とにかく手に取ったものから順番に片付けていくしかない。難しい仕事ではない。まさに片付け仕事でしかないから、その書類の山がどんなに高くとも、ほぼ午前中には終わる。この時点で辰伶のストレスは飽和量の4分の1である。
午後からは螢惑の執務室へ行く。最近は毎日のことだ。そこで螢惑の書類箱の整理をするのだが、ここから辰伶のストレスはうなぎ登りで、一気に飽和量に達してしまう。とにかく腹が立つ。螢惑の書類箱の中は要るものも要らないものも何でも一緒くたで、たった1枚の書類を見つけるのにも、下手すると1時間はかかってしまう。そして、目的の書類を探す過程でとんでもないものを見つけてしまうのである。
「何だこれは、1年前の回覧じゃないか。あれほど回覧は止めるなと言ったのに。だから螢惑には一番最後に回せと言っているんだ」
そしてはたと我に返る。最近、独り言が多くなったと、皆から指摘を受けている。
辰伶が連日書類漬けになってしまった原因は、既にお分かりだろうが、螢惑のせいである。螢惑が先代紅の王に叛逆し、その咎で壬生を離れることになったのは半月ほど前のことだ。螢惑の犯した罪の重大さから考えれば、それは刑罰とは到底呼べぬ軽い処置であった。
さて、そこで問題である。螢惑が抜けた分の仕事は誰が処理をするのか。順当に考えれば同位である五曜星で分け合うこととなる。しかし、そうはならなかった。螢惑に回される筈の仕事は全て辰伶1人に集中したのである。あまつさえ、螢惑が壬生を離れる前に受け持った仕事で未処理のものも辰伶が担当することとなった。これがまた半端な量ではなかった。辰伶が螢惑の執務室で見たものは、溜めに溜め込まれた仕事の山であった。どうやら螢惑は五曜星就任してこの方、外回り(戦闘)以外の仕事は全くしていなかったようだ。…それで社会が回ってしまう壬生もどうかしているが。
この一見理不尽にも思える仕事量の偏りに対して、辰伶は一言も文句を言わなかった。言える筈がなかった。何故なら、螢惑を先代紅の王に会見できるよう取り計らったのは、誰でもない、辰伶だからである。螢惑が叛逆者なら、それに手を貸す形となった辰伶も罪を問われる立場なのだ。共謀者と取られてもおかしくない。下手すると家門は取り潰し、一族郎党打ち首も有り得ない話ではなかった。
それがこの程度の罰(螢惑の分まで働くこと)で済んだのだから、先代紅の王の温情にいくら感謝してもしたりない。罰の軽減を進言してくれた師の吹雪にも深く感謝している。しかし、だ。
――叛逆した張本人の螢惑への罰の方が楽ではないのだろうか。
どうにもそんな思いが拭えなくて、辰伶は理不尽な気持ちになるのである。感謝とはまた別の次元でムカついてしょうがない。
仕事が嫌いではないのだ。問題は、その量に反比例したやりがいの無さである。これだけ長い間放置されながら何一つ不都合が生じなかったというふざけた書類どもに、今更目を通す必要があるのだろうか。激しく疑問である。螢惑の執務室に火をつけて、あの書類を全て灰にしたらどんなに胸が空くだろう。隣が自分の執務室なので辰伶は実行を自制している。
「はあ…」
――仕事に行きたくない。
「…休んじゃおっかな…」
何となく口にしてみただけの言葉だったが、音声として発せられ耳に届いた瞬間、辰伶は天啓を受けた。…ような気がした。
サボる。それは何と魅惑的な単語であったことか。根が真面目な辰伶は、生まれてこのかた怠惰とは全く無縁な生活を送ってきた。そんな彼にとって仕事をサボるということは、この上なく後ろめたいことであった。しかしそれ故に、その背徳感は悪魔の吐息のように辰伶を虜にした。
「決めた。今日は休みだ。俺は仕事をサボる」
サボる。なんて素晴らしい響きの単語だろう。今なら螢惑の気持ちも解からなくも無いと辰伶は思ったが、螢惑がサボるのと辰伶がサボるのでは状況も理由も全く違っていることに気づいていない。少なくとも、螢惑は辰伶のように一大決心をしてサボっているわけではない。
「さて、そうなると理由がいるな」
サボりのビギナーである辰伶は、大真面目にそんなことを考え出した。しかし、実はサラリーマンでも何でもない辰伶は仕事を休むのに連絡すべき相手などいない。今日は他の五曜星との会合もないし、太四老への謁見もない。休みたければ勝手に休めばいいのだ。五曜星である辰伶の職務放棄を糾弾できるような命知らずの部下もいないのだから。
それなのに休む口実を考えてしまうのは、辰伶がサボり慣れていない所為だろう。強いて言うなら、自分自身に対する言い訳かもしれない。結局どこまでも真面目な漢なのだ。
「ここはやはり、病欠という線でいくか」
仮病を使って休むというシチュエーションに、辰伶はますます楽しくなってきた。こうなると病名も決めておきたいところだ。
「だが、迂闊な病名は言えんな…」
以前、辰伶は風邪で40度近い熱を出しながらも仕事に行ってしまったことがある。そんな人物がちっとやそっとの病気で休んだら不審に思われるかもしれない。しかし余り大層な病名を言ってしまって、うっかり見舞いに来られてしまっても困る。何といっても五曜星には病人大好きの白衣の悪魔がいるのだ。
「風邪は駄目だな。…腹痛ではどうだろう」
そう考えていて、ふと辰伶はある書物の存在を思い出した。
「そうだ。あれがあった」
辰伶が引っ張り出してきたのは、無明歳刑流本家に代々伝わる仮病の指南書である。この書にはあらゆる種類の仮病が集められ、その正しい使い方が詳しく説明されている。辰伶は腹痛のページを開いた。
『虚腹痛の法。体躯をくの字に折り曲げて腹を押さえながら、吽々と低い声で唸ること』
随分と簡単である。わざわざ指導するほどの技とも思えない。しかし説明にはまだ先があった。
『ただし、押さえる場所には細心の注意を払うこと。医学に於いて腹は9つに区分される。つまり、右上上腹部、心窩部、左上腹部、右側腹部、臍部、左側腹部、右下腹部、下腹部、左下腹部の全部を合わせて腹と呼ぶのである。一概に腹痛といっても、腹のどの部分を押さえるかによって、それが如何なる病気か解ってしまう。押さえた場所と病名は必ず一致させること。』
「なるほど。腹のどこを押さえるかで、どういう種類の腹痛か解かってしまうということか。例えば虫垂炎なら右下腹部、十二指腸潰瘍なら心窩部といった具合だ。腹痛と言っても奥が深いな。これは素人が迂闊に使える手ではないかもしれん」
辰伶は感心しながら更に読み進めた。
『尚、腹痛において、その思い当たるふし(原因となった食べ物など)を即座に答える者は100%仮病である。仮病に限って説明が過剰になる傾向があるからである。仮病を使うときは、その原因が解からなければ解からないほど良いということを常に念頭におくこと。』
「確かにそうだ。危うくその穴に嵌るところだった。嘘つきほど良く喋るというわけだ。何しろ仮病だからな。治療するわけでもないのだから、腹痛の原因となった食べ物など解からなくても良い。寧ろ解からないほうが、却ってそれらしいかもしれん」
辰伶は本を閉じて、横に置いた。
「難しいな。仮病は俺ごとき素人に使いこなせる代物ではないのかもしれん。だが、参考にはなった」
辰伶は一筆したためると、小者を呼んで太白の元へ届けさせた。
『何となく具合が悪いので仕事を休みます。すみません。――辰伶』
サボりの初心者にはこれ位の理由が相応しかろうと思った。
欠勤理由が決まったところで落ち着いた辰伶は布団を被りなおした。実に爽快な気分だった。
「「辰伶が仮病で休みですって?」」
白衣の悪魔こと歳子・歳世は驚きに目を瞠りながら、太白に事実確認をした。
「今朝ほど、辰伶から連絡があった。あの真面目な漢が仮病とは……重症だな」
「辰伶はん、余程、思い詰めてたんどすなあ…」
鎮明もサングラスの奥で涙を光らせた…フリをした。
辰伶が仮病を使ったことは、その物珍しさと意外性から瞬く間に壬生全土に広まった。しかし辰伶の職務放棄に対する非難よりも、真面目な辰伶が仮病を使うまでに追い込まれたことに対する同情の声の方が高く、『辰伶様が無意味なデスクワークから解放されますことを伏してお願い申し上げ奉る下級眷属の会』が発足した。当会の熱意溢れる運動によって集められた署名は、壬生の郷の総人口の実に6割強に当たる数に及んだ。人望厚く、大変結構なことである。
そして、いらん恥をかいた辰伶は、後世への戒めとして、仮病の指南書の最後のページにこう書き加えたのだった。
『仮病は死んでも使うな』
おわり
※参考『当世病気道楽』別役実著/ちくま文庫
マジで面白いです。この本。
05/3/9