02:機械


 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 小気味良い音。飽くことなく繰り返される、同じリズム。

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 数日前から聞こえてくるこの音が、辰伶には不思議でならなかった。今だ嘗て聞いたこともない。それが屋敷のどこかから聞こえてくる。

 トン カラリ パタン

『父上、この音は何でしょう』

 つまらない事に関心を持つなと、酷く叱られた。それよりも壬生の為、我が家門の為に鍛錬を積めと。

 トン カラリ パタン

『母上、この音は何処からするのでしょう』

 知る必要のない事と、冷たく突っぱねられた。凍るような横顔で。憎しみに燃える瞳で。

 トン カラリ パタン

 この音は何?何処からするの?

 誰に訊ねても、満足のいく答えは得られない。辰伶には納得がいかなかった。父も、母も、使用人も、この屋敷の誰もがこの音の正体を知っていて黙っている。知らないのは辰伶1人きり。

 納得がいかないならどうするか。そんなのは決まっている。自分の納得がいくまで答えを探すしかない。辰伶は音の流れてくる源を探して屋敷内をうろつき歩いた。誰にも見咎められぬように、用心深く身を隠しながら。それは小さな冒険のようで、少し心が躍った。

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 耳を澄ます。神経を研ぎ澄まして、音がする方向を探る。

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 けれど音は壁に反射して、でたらめの方向を辰伶に教える。そこかと思えば、はたまた別の方向から音がする。散々に惑わされて、辰伶はくたびれてしまった。

 それでも諦められない。どうしても、音の正体が知りたい。辰伶は消去法で、まだ自分が探していない場所を冷静に考えてみた。

 1つあった。それは屋敷の敷地内の一番奥にある離れ屋だ。そこに近づくことを、辰伶は固く禁じられていた。禁断の音。禁断の場所。考るほどに、最初からそこ以外にありえないという気がしてきた。

 辰伶は周囲を窺った。誰もいない。辰伶は素早く縁の下へ身を隠した。そのまま縁の下を這って、離れ屋へと忍んでいった。


 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 音が何処よりもはっきり聞こえる。間違いなかった。音はこの離れ屋からしていたのだ。辰伶は縁の下から這い出し、着物に付いた土や埃を払った。

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 そっと窺い見ると、女が1人居た。何か大きな機械の前に座っている。女が手を動かすたびに、木製の機械が大げさに動き、あの小気味良い音が奏でられた。

「誰?」

 女が手を止めて振り向いた。見たことの無い不思議な光景に、辰伶は隠れるのも忘れて突っ立って見ていたのだった。

「辰伶様…ですね?」

 驚いたことに、女は辰伶を知っていた。辰伶は大きく頷いた。女は困ったような、悲しいような微笑を浮かべた。金色の髪がさらりと揺れる。

「何か、御用でしたでしょうか」
「あ、あの…音が」
「音?」
「何の音なのか、知りたくて。…それは何?」

 辰伶の指す物を見て、女は優しく破顔した。

「これは、機織りの機械です」
「機織り?」
「こうして、糸を縦と横に渡して一枚の布にするのです」

 女は辰伶を招き入れて、機織り機を見せた。機織り機には朱色や黄色の美しい糸が掛けられ、その先で既に幾らかの長さの布になっていた。

 トン カラリ パタン

 女が機械を動かすと、例の音が鳴った。何度も同じ動きを重ねると、ほんの僅かに布が織りあがったのが分かった。

「え、こんなにやってもこれだけしか織れないの?」

 それでは、ここまでの長さになるのにどれ程時間が掛かったのだろう。まして着物が作れるほどの長さにするには、この単調な作業を何回繰り返さなければならないのだろう。

「こんなの初めて見た。でも、どうして皆はこれを俺に内緒にするんだろう」
「……」
「俺には関係ないことだって、父上も母上も、使用人達も皆が寄って集って隠すから、もっと凄い秘密かと思ってたのに。ただ布を作ってるだけじゃないか。どうして秘密にするのか俺には分からない。変だ」
「…それは…」

 女は先ほどのような悲しげな目をした。それを見て辰伶は急に不安になった。

「…俺、やっぱりいけない事……したの?」

 辰伶の声が消え入りそうになる。女はますます困ったような顔になった。その時、突然、赤ん坊の泣き声がした。見ると、座敷には小さな布団が敷かれ、1人の赤ん坊が寝かされていた。

「ああ、よしよし」

 女は赤ん坊のもとへ駆け寄った。その胸にしっかり抱き上げてあやす。赤ん坊はすぐに静かになった。

「赤ちゃんがいるの?あなたの?」
「…そうです」

 辰伶は産着に包まれた赤ん坊を覗き込んだ。女と同じ金色の髪。そしてこの澄んだ金色の瞳は、ちゃんと見えているのだろうか。

「ねえ、さわってもいい?」

 赤ん坊の指を軽く突付いた。余りに小さな指なので、本当に5本あるのが不思議に思えた。

「ひゃ…」

 赤ん坊が辰伶の人差し指を握り返した。じんわりと温かさが伝わってくる。

「すごい。こんなに小さい手なのに、ちゃんと指が動く」

 こんなに近くで赤ん坊を見るのは初めてであり、まして触ったことなど一度もなかった。こんなに愛らしく、こんなに温かいものがこの世に存在する。辰伶は幼心に深く感動していた。

「かわいいね。ねえ、赤ちゃん、名前、何ていうの?」
「ほたる…ほたるというのですよ」
「ほたるちゃん、ほたるちゃん。俺は辰伶。よろしくね。大きくなったら一緒に遊ぼうね」

 女の瞳が悲痛な色に眇められる。辰伶は気づかない。

「あ、ねえ…ほたるちゃんが笑った」
「本当。ほたるも嬉しいのね」
「ほたるちゃん、よろしくね。仲良くしようね」

 赤ん坊の澄んだ瞳には、未来が映っているのだろうか。まっすぐ辰伶を見詰めて、ほんのりと笑った。


 神妙な顔で、女が言った。

「皆が辰伶様に内緒にしていたのは、実は、機織りしているところを見てはいけないからなんです」
「何故?」

 女が辰伶をじっと見詰めてくる。その瞳は深く神秘的で、辰伶は畏れを抱いた。女は厳かな口調で告げた。

「それは……私の正体が鶴だからです」
「えっ!?」

 辰伶は驚いて、少し身体を仰け反らした。そして、女と赤ん坊を交互に見た。

「じゃあ、ほたるちゃんも鶴なの?」

 不意に女は相好を崩し、声を立てて笑った。そこで漸く辰伶は、女が言ったことが冗談だと気づいた。

「あ、そうか。物語だね。『鶴女房』だ!」

 辰伶も声を立てて笑った。しばらく2人で笑い続けた。

「良かった〜。ほたるちゃんも、大きくなったら飛んでいっちゃうのかと思った」

 本気で心配した辰伶は、ほっと胸を撫で下ろした。

「この布は、そのほたるの着物にする為に織っているのですよ」

 女の声は温かく、しかしどこか寂しげな響きがあった。

 機織りをしているところを見られてはならないというのは、丸っきり嘘という訳でもなかった。この女は元々、紅の王の為に機を織る神聖な身分で、紅の王の衣を織るところは誰にも見られてはならないという掟があった。もう過去の話だが。

 壬生には労働者はいない。そもそも『労働』という概念が無い。役目や任務があっても、それは生活の糧を得るための労働ではない。

 壬生一族は耕作をしない。衣食の為に製造をしない。それは樹海の外の人間達のやることだ。衣料も食料も、それらは樹海の外の人間達から買っている。

 だから、壬生の郷には壬生一族の為に機を織る者など居ない。彼らが着ている着物は、すべて人間の職人が織った物だ。
 綿を植えること。蚕を育てること。糸を紡ぐこと。染めること。布を織ること。着物を仕立てること。そのどれをとっても、壬生一族の誰もがやらないことだ。

 しかし例外はある。壬生一族の中で最も高貴、壬生の郷で最も神聖、壬生のシンボルといえる紅の王の為のものは、下賎な人間の手によってはならない。紅の王が召すものは全て高貴な者が調えなければならない。だから、紅の王の聖衣は身分の高い女の織った物でなくてはならなかった。逆に言うと、壬生で機を織れる女は高貴な身の上であるということだ。

 ほたるの母であるこの女は神聖な織姫だった。それがどのような経緯でこの屋敷の片隅に住まわされるようになったのか、辰伶の父親の妾という身分に成り下がったのか。高貴であったはずの彼女の家がどのように落ちぶれてしまったのか。どのようにして、彼女は後ろ盾を失ってしまったのか。その寂しげな微笑からは何も分からない。

「すごいねえ。ほたるちゃんのお着物は、ほたるちゃんのお母様が織って下さるんだよ。いいねえ。良かったねえ」

 トン カラリ パタン

「辰伶様、どうか、ほたるのことを宜しくお願いします。どうか、仲良くしてやって下さいませ」
「もちろんだよ。ねえ」

 赤ん坊の、その小さな頭をそっと撫でる。柔らかく触れるたびに返される微笑が、辰伶には宝物のように大事に思えた。

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

「ずっと、仲良しでいようね」

 トン カラリ パタン
 トン カラリ パタン

 それは日々繰り返す機織りのように。糸と糸を重ね渡して、やがて一枚の布になるように。ずっと仲良しでいよう。ずっと、ずっと…


 おわり

05/2/23