01:雨
雨は嫌い。嫌なことを思い出すから。
でも昔は、そんなでもなかった。雨がどうの、天気がどうのなんて、全然気にも留めてなかった。だって、雨が降ろうが、カンカンに晴れようが、別にそんなのカミサマが勝手にやってれば?って、カンジ。俺の知ったことじゃない。
でも、今は嫌い。嫌な奴を思い出すから。
雨は好きだ。優しい気持ちになるから。
それでも昔からそうだったというわけでもない。雨が降ることに、これといった感慨など何もなかった。むしろ晴れた日のほうがずっと重要で、雨雲は太陽の光を遮る邪魔物でしかなかった。
しかし今は好きだ。懐かしい人を思い出すから。
彼は…、「彼」というよりは「あの子」と言った方がしっくりくる。出会った時、彼も俺もずっと幼い子供だったから。あの子に出会ったのは雨の日で、あの子との思い出は全て雨の中にある。
俺は木の下で雨宿りをしていた。実はその時、誰にも内緒で屋敷を抜け出してきたものだったから、急な雨に降られてしまって非常に困っていた。着物が濡れてしまったら、こっそり抜け出したことがばれてしまう。その時点で既に泥に跳ね上げられて着物はとっくに汚れてしまっていたから、もう怒られるしか道はなかったのだが、子供というのはどうにも往生際が悪くて、何とかしてうまく気づかれない方法はないかと思い悩んでいた。
ふと気がつくと、雨宿りをしていた木の下にはもう1人同類がいた。叱責を免れることで頭が一杯だったので、いつからそこに居たのか全く気づいていなかった。ひょっとしたら、俺より先に居たのかもしれない。その木は幹周りが非常に太く、その子の小柄な体など容易に隠してしまえたから。
その子も俺と同じように、何だか浮かない顔をしていた。着物は泥だらけ。手足も擦り傷だらけ。いったいどんな悪戯をしたのだろう。そしてきっと、俺と同じで家に帰りづらくて悩んでいるのだろうと思った。俺1人じゃないと思ったら、急に心強くなってきた。
その子と俺は…何の話をしたかは忘れたが、とにかく、すぐに話し始めた。そうしているうちに雨のことや着物のことなど全然気にならなくなっていて、いつしか土砂降りの中に飛び出してはしゃぎまわっていた。雨の降る沼に行って、カエルの卵を掬ったりした。そんな風に羽目を外した経験は、後にも先にもそれ切りだ。
結局、泥まみれで屋敷に戻ることとなったのだが、果たして俺は怒られなかった。戻った途端、上手い具合にと言っては何だが、高熱を出して倒れてしまったので、それどころではなかったのだ。
寝込んでいる間、時折意識がはっきりした時に見た父と母は、普段からは想像できないほど情けない顔をしていた。あの厳格な両親が奇妙に弱々しくみえて、俺は不思議でならなかった。これは熱が見せる幻覚ではないのかと疑っていた。今にして思えば、貴重な跡継ぎが生きるか死ぬかの瀬戸際だったのだから、心配して当たり前だったのだろう。
幸いにして熱は数日で下がった。ただ、その高熱の為に、雨の中で知り合ったあの子の顔を、俺はすっかり忘れてしまっていた。
だが、きっとまた会えるだろう。俺は忘れてしまったけれど、きっとあの子は覚えていてくれるに違いない。会えばきっと、俺に気づいて微笑みかけてくれる。あの子が笑って声を掛けてくれたなら、きっと俺にも分かるだろう。懐かしいあの子の顔を、きっと思い出すだろう。
だから、雨が好きだ。
雨宿りしてた。すごく大きな木の下で。時々大粒の雨の雫がポチャンポチャンと落ちてくるけど、外よりはずっとマシだったから。
そしたら、その木の下には先客が居た。あんまり大きな木だったから、最初は全然気づかなかったけど。真っ白な着物を雨に濡らして、すごく困った顔してた。
向こうも俺に気づいて、……笑った。笑って、そいつは俺の傍に寄ってきた。何が嬉しいのか知らないけど、やたらと話しかけられて、ちょっとめんどくさかった。
こんな雨で、木の下から出られなくて退屈だから、こいつは俺に構うんだろうと思った。だから俺は食べようと思って捕まえておいたカエルを、ちょっと勿体無かったけど、そいつにあげた。別のおもちゃをあげれば、それで勝手に遊ぶかなと思ったから。
俺が投げたカエルを胸に抱きとめて、そいつは悲鳴をあげた。カエルなんて見るのも触るのも初めてだったみたい。すごく驚いて、すごく怯えたから、俺は急に面白くなって、カエルを掴んでそいつを追い回した。雨の中を追い回したから、着物は泥だらけのびしょ濡れ。そいつの真っ白な着物も泥だらけのびしょ濡れになった。
カエルでこんなに驚くんなら、あのブヨブヨしたカエルの卵なんてもっとだろうと思って、沼に連れて行って見せたら、やっぱり気味悪がって、きゃあきゃあとすごくうるさかった。うるさかったけど、俺はとっても面白かった。
そんな奴だから、きっといい家の子だろうと思ってたけど、やっぱりそうだった。育ちがいいんだか何だかしらないけど、ちょっと雨の中を走り回っただけで、風邪ひいたみたいで、熱出して寝込んじゃった。ヤワだよね。
だいぶ経ってから、偶然そいつに会った。でも、全然無視。確かに俺が悪いんだろうけどさ、でもカンジ悪いよね。最初はあんなに真っ直ぐ笑いかけてくれたのに。
誰かが俺に笑いかけるなんて、初めてだったのに。
だから、雨なんて大嫌い。
おわり
05/2/16