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散歩仲間


 ほたるは意識の半分をまどろみに抱かれながら木の上にいた。そうして意識の残り半分を木の下を通る道へと働かせている。そろそろ彼が通る頃合だ。

 散歩が趣味らしい『彼』を、ほたるは待っていた。『彼』は歳の頃は二十歳前後の青年に見えるが、壬生では外見の年齢は余り意味が無い。名前は、

(あ、来た)

 ほたるの鋭敏な耳は通る人の足音を聴き分ける。彼の訪れを確かに聴きとって、ほたるは完全な覚醒の為に大きく欠伸をした。目蓋の下から金色の瞳がきらりと現れる。

 彼の姿を目にして、ほたるは音も無く木の枝から飛び降りた。軽やかな足取りで彼の横に並び、歩調を合わせる。彼はほたるを一瞥すると、特に気にした様子も無く歩き続けた。

「辰伶、今日は何処へいくの?」
「沢沿いを…少し森へ入ってみるか。ナナカマドも赤くなっているだろう」

 ほたるの問いかけに、辰伶は普通に答えた。愛想を良くするでもなければ、殊更迷惑な素振りもしない。いつものことだった。彼がここを通るのも。ほたるが彼を待つのも。ほたると彼が並んで歩いていくことも。

 道すがら、偶に人と擦れ違う。辰伶は挨拶を交わしたり、時には少し立ち止まって話をしたりもするのだが、ほたるはそういうことに全く関心を示さない。向こうも、ほたるの存在など気にしない。時には風変わりな道連れをじろじろと見る人もあるが、それだけである。

「最近、気づいたんだが…」

 挨拶を交わした相手が遥かに過ぎ去った頃、不意に辰伶が言った。

「おまえは俺以外の者の前では言葉を喋らないな」
「普通、猫は喋らないじゃない」
「それもそうだな」

 ほたるは大きく欠伸をすると、金色の尻尾をふらふらと揺らめかせた。

「まて。それじゃあ、何で俺の前だと喋るんだ?」
「辰伶が猫の言葉が分かるなら、俺だって猫語を喋るよ」
「それもそうだな」

 それで納得してしまうのはどうかと思うような者は、この場にはいない。


 辰伶は散歩が趣味だと、周りから思われている。辰伶自身は特に散歩が好きだとは思っていないが、他に取り立てて趣味といえるようなことはしていないので、やっぱり自分は散歩が趣味なのだろうと思う。

 目的も無く、ただ歩いているという訳ではない。寧ろ明確に目的はある。目的を果たす工程であるところの散歩だ。しかし、その工程(行程)を楽しんでいないわけでもない。

 良く分からないのが、この『ほたる』という猫の存在である。陽の光のような金茶の体毛をしたこの猫は、いつの頃から辰伶が散歩に出かけると何処からともなく現れるようになった。甘えて擦り寄ってくるでもなく、餌をねだるでもない。ふらりと現れては付かず離れずの距離を間に置いて、辰伶の散歩に付いて来る。何とも風変わりな猫である。

 風変わりと言えば、この猫は人語を解し操る。これはもう風変わりとか珍しいという域ではなく、世にも不思議な存在である。『ほたる』という名前も辰伶が付けたわけではなく、ほたる自身がそう名乗った。

 猫が言葉を喋ることに、最初は驚いた辰伶だった。しかし猫が人の言葉を話したからといって、それで壬生一族が危機に曝されるわけでもない。そこに考えが至ってしまえば、辰伶の許容範囲は不思議な猫の存在を済し崩しに認めてしまっていた。慣れてしまえばどうということもない。


 沢伝いだった道は次第に森の中へと踏み入っていく。道は狭く緩やかな上り坂だ。この辺りは落葉樹が多い。降り積もった落ち葉がふかふかと腐って、それを床にして様々なキノコが生えている。ほたるは色とりどりのキノコたちにいちいち関心を寄せる。

「おい、迂闊に食べるなよ。毒があったら大変だぞ」
「大丈夫。俺、結構キノコに詳しいから」
「ほう。では、この辺りに生えているので食べられるのはあるか?」
「全部食べれるよ」

 ほたるはそう言ったが、その足元に生えているのは辰伶でも知っている有名な猛毒キノコである。鮮やかな色彩が如何にも胡散臭い。

「…本当に詳しいのか?」
「うん。ひと通り食べたことあるから。このキノコは苦くてマズイ。そっちの真っ白なキノコは手足が痺れる。紅いやつは面白い夢を見られるけど食べ過ぎるとお腹を壊すから嫌い」
「全部毒キノコじゃないか!」
「でも食べれるよ」
「そういうのは食べられるとは言わん」
「でもさ、人間はともかく、壬生一族はキノコの毒くらいじゃ死なないじゃない」
「それはそうだが」
「だったら食べても平気でしょ」

 そうなんだろうか。そう言い切られるとそんな気もしてくるが、釈然としない。

「あ、ドングリ」

 ほたるの関心はキノコからドングリへと移ってしまった。

「どうせドングリにも詳しいんだろう」
「うん」
「で、全部食べられると?」
「え?辰伶はドングリ食べるの?変わってるね」
「……」

 この奇妙な猫を特に疎んじたことは無いが、時々何でこんなのと一緒に居るのだろうと疑問に思うほど、急に憎たらしくなるのも事実である。

「別にこんな物を食べる必要は無いが、食べられない事はない。水に晒して渋みを抜いて…」
「めんどくさい。そこまでしなきゃ食べられないなんて、食べ物じゃない」
「食べてる人に失礼だろう」
「俺は食べない。辰伶が勝手に食べれば」
「俺だってこんな物は食べない」
「こんな物呼ばわりは、ドングリに対して失礼だと思う」

 ほたるは尻尾を一振りすると、さっさと歩き出した。そして数歩行ったところで振り返って言った。

「あ、ドングリ拾って来てね」

 ふらふらと揺れている尻尾が、どうにも人を小ばかにしているようで憎たらしい。大体この猫に対して憎たらしいと思ったことは何度もあるのだが、可愛いと思ったことは一度も無い。では何故一緒に居るのかと聞かれれば、辰伶は『こいつが勝手について来るんだ』と答えるだろう。

 しかし、どんなに態度が憎たらしくても本気で怒ったことは無い。猫相手に本気で怒るような低俗なまねなど、プライドの高い辰伶には出来ないことだろうが、それとは少し違う心持も辰伶の中には存在している。


 岩場から湧き水が伝い落ちるところで休憩を入れた。沢の上を跨ぐように枯死した木が倒れている。朽ちた老木はやがて瑞々しい苔に覆われて、ゆっくりと土へと還ってゆくのだろう。

 若い黄緑色の苔の上で、金茶の猫がドングリを玩んでいる。コロコロと上手く転がして、木の窪みに並べていく。その様子を辰伶は、ブナの大樹に凭れて眺めていた。

「何をしているんだ?」

 何ともなしに辰伶が尋ねてみると、ほたるはぽつりと言った。

「ドングリの背比べ」

 また訳の分からないことをしていると、辰伶は呆れた。ほたるは他人には理解しがたい奇妙な行動をとる時がある。それは彼なりに思うところがあっての事なのだろう。しかしその行動原理を説明されたところで、やはり理解できないか、余計に呆れるかのどちらかであることを、辰伶は経験的に知っているので深く突っ込んで聴くような愚かな真似はしない。

 ほたるは、辰伶の知っている人物によく似ている。勿論、それは姿形のことではなく、その性格や行動がそっくりなのだ。

 その人物は、辰伶の弟である。弟といっても片親の繋がりしかないので、異母弟ということになる。正直に言って、決して仲のよい兄弟とはいえなかった。むしろ仇であるかのように憎み合っていた。

 そんな人物とそっくりな言動をする猫と、このように行動を共にしているのは、辰伶自身にも不思議でならないことだ。ほたるは異母弟のように憎たらしく、異母弟のように可愛気がなく、異母弟のように勝手で、異母弟のように自由気儘で……

 異母弟に対しては憎しみと軽蔑にしかならなかった感情が、このほたるという猫に対しては言い知れない憧憬になることがある。勿論、ほたるは猫であるから、本気で憎んだりできないのだろうが、もしかしたら…と、辰伶は考える。ひょっとしたら…と、辰伶は想像してみる。

 異母弟の事を憎んではいたが、嫌いではなかったのかもしれない。
 自分とは正反対の性質の異母弟に、憧れる気持ちがあったのかもしれない。
 憧れなんて綺麗な感情ではなくて、嫉妬したことがあったのかもしれない。

 だから、こんな風に自分は、憎たらしい猫なんかと散歩などをしているのかもしれない。


 辰伶は真っ赤なカラスウリを見つけて、それを取った。卵型で明るい朱色をしたカラスウリを、ほたるもえらく気に入ったようだったので、2個採集した。そういえば、異母弟もこんな明るい朱色が好きなようだった。

 出会った木の下で、ほたると別れた。その時にカラスウリの1つを渡してやった。ほたるはカラスウリの蔓を咥えて何処かへ行ってしまった。


 屋敷に戻った辰伶は、その足で地下へと向かった。

「…螢惑」

 ヒヤリと肌を刺す冷たい空気の中に、辰伶の異母弟である螢惑は眠っていた。螢惑は仮死状態のまま時を止めて、もう10年以上になる。

 辰伶はカラスウリを螢惑が眠る傍らの台に置いた。この為に辰伶は散歩を日課としている。野に出ては季節の草花などを持ち帰り、こうして眠り続ける螢惑の傍らに飾る。屋敷の地下は酷く寒々しくて、時間を止めた螢惑はますます世界から忘れられたように見える。この部屋と外との時を繋ぐ為に、螢惑が世界から忘れられないように、辰伶は季節の欠片をこの無機質な地下室へ運び込む。

 それはまるで償いのように。

 螢惑を仮死状態にしたのは、彼ら異母兄弟の共通の父親だった。死の病に侵された螢惑の為に、有効な治療法が見つかるまでこうしておくのだと、父親からは聞かされている。

 壬生の将来に不吉な影を落とす死の病。それを克服する日を、辰伶は心から待ち望んでいる。しかし同時に、その日が来るのを恐れてもいる。

 螢惑を仮死状態にした父親は、皮肉にも死の病で死んだ。そして辰伶は父親から、螢惑を仮死状態から醒めさせる方法を教えられていなかった。だから、例え、その日が来ても……

「……螢惑、俺は…」

 憎み合っていた。二人の身体の半分を占める共通の血が、余計に憎悪を煽り立てているようだった。

 それでも、嫌いではなかったのかもしれない。今になってそんな事に気づきたくはなかった。


 誰もいなくなった地下室。昏々と眠り続ける螢惑の胸の上に、ほたるが飛び降りた。全く重さを感じさせない、風のような軽さで。

 金茶の猫は、螢惑の顔を覗き込んだ。

 ほたるは知っていた。この殆ど死んだような漢と辰伶が、どれほどいがみ合い、諍いを続けてきたか。血の繋がりゆえに、どれほど凄惨な結末を呼んだか。

「お前は辰伶が大嫌いだったよね」

 ほたるは螢惑に語りかけた。当然、応えはない。

「でも、憎んではいなかったでしょ」

 見えない鎖に縛られて窮屈そうな異母兄の生き方が大嫌いだった。だが、憎んではいなかった。螢惑が本当に憎んでいたのは辰伶ではなく、彼らの父親なのだから。そして…

「何の意味があって、俺をこんなんにしたんだろう…」

 意識の無い螢惑の身体。彼の父親は、螢惑の身体から螢惑の魂を抜き取り、猫の身体に移し替えてしまったのだ。抜け殻となった螢惑の心臓は、生きながらピクリとも鳴らない。動いて、血を通わせているのは小さな猫の身体だ。

「しかも、嘘なんかついて…」

 死の病の為に螢惑を仮死状態にしたと、父親は辰伶に嘘を教えた。そうして全てを屋敷の地下に隠蔽したのだ。

「それを真に受けちゃう辰伶もバカだよね」

 父親の嘘を真に受けて、有りもしない責任を勝手に感じて、こうして毎日毎日、花や木の実を持って訪れるなんて、本当にバカじゃないかと、ほたるは思う。




 だからきっと、明日も一緒に散歩。





 終わり






Q:螢惑を仮死状態から目覚めさせる方法として、最も適切と思われるものを選びなさい。

 1.目覚まし時計
 2.ハリセン
 3.王子様のキス

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