+・+ リクエスト +・+
宇環〜中空の糸巻
…帰ろう。役目は終わったのだから。
…帰らなければならない。役目が終わってしまったのだから。
帰る。俺は帰る。…おかしいね。俺が『帰る』だなんて。待つ人も居ないのに。会いたい人も居ないのに。独りで生きてきた俺に、居場所なんて、もう何処にも無いのに。
狂は行ってしまった。
四聖天も終わった。
だから、今日でほたるも終わり。俺は五曜星・螢惑に戻る。
壬生の郷へ帰らなくちゃ。大嫌いな壬生の郷へ帰らなくちゃ。…でも、
でも、足が重い。
ちょっと、身体がだるい。
なんだか、頭がフラフラする。
ほら、何だかヘンだよ。
なんだか……
なんだか、空が回ってる。
この大空には見えない糸巻きがある。その糸は人と人を結び、それを『縁』と呼ぶ。あるいは『絆』と呼ぶこともあるだろう。しかしその見えない糸は、この大空で糸巻きとして1つに纏められて存在しているため、例えその糸が見えたとしても、いったい誰と誰が繋がっているのか、誰にも分からないのだ…
辰伶がそんな想像に至った始まりは、言ってしまえば勘違いからだった。ようするにそれはオダマキの花のことなのだが、『苧環』と書くところを間違えて『宇環』と覚えてしまっていたことに、つい先ほど気が付いたのだ。
苧環。字を解せば苧という植物からとった繊維の糸玉のことだ。それがどうしてオダマキの花になるのかは謎である。
一方、勘違いの産物である宇環とは何の事になるのだろう。
『宇』とは天地四方の空間のことだ。この字は単に頭上の空を指すだけではない。荘子はこの字に『宙』を合わせて、『宇宙』を語った。『宙』とは古往今来の時間のこと。悠久たる時の大河にも見合う空間の広がりを、この一字から感じ取れるだろう。
その空間に、ぽっかりと浮かぶ糸の玉。それが宇環だ。それが先ほどの連想へと繋がった訳である。全く荒唐無稽な独りよがりの想像話だが、しかし麻糸の玉よりは面白いのではないかと辰伶は思う。
そしてこんな光景を見てしまうと、このオダマキの花に運命の見えない糸を紡ぐ力を、本当に信じてしまいたくなる。
うつむくオダマキの、その青い花に見守られて、気を失った螢惑が倒れていた。
見覚えの無い天井。見知らぬ部屋。
ここは…?ここは何処。どうして俺はここに居るの?
知らない部屋。高い天井。磨かれた床柱。掛け花。青い……あれは、花?
喉が痛い。喉が渇いて、とても酷く渇いていて、焼け付くみたい。水が欲しい。俺だって、こんな時ぐらいは水が欲しい。水が飲みたい。水が飲みたくて堪らない。水が…
「気が付いたのか?」
誰?
壬生の郷の外れの森の中で螢惑を見つけた時には、辰伶は全く信じられない思いだった。彼は先代紅の王の命で壬生の郷を離れ、鬼目の狂の監視の任に当たっていた筈であった。その役目を解かれたとも、または別件で呼び戻されたとも聞いていない。
見つけたとき、螢惑は全く意識がなかった。よく様子を見てみれば、高熱を発しているようだった。他にどうしようもなく、辰伶は自分の屋敷に螢惑を運び、静かな部屋を選んで寝かせておくことにした。
その間、辰伶は何度も螢惑の様子を見にきたが、そうして2日ほど経って、ようやく螢惑の瞳が開かれた。熱は下がっていたが、まだ夢の中にいるような曖昧さで、虚ろに天井を視凝めている。
その焦点がようやく指向性を帯び、小さく身じろぎしだしたところで、辰伶は声を掛けてみた。
「気が付いたのか?」
床に横臥したまま、螢惑は頭を廻らせて辰伶を見遣った。
「ここ、何処?」
「俺の屋敷だ。まだ調子が戻らないなら、暫くここで寝ているといい」
「おまえ、誰?」
「誰…って」
ふざけている様子はない。何かの冗談や嫌がらせではないようだ。ならば?
「俺は、何なの?」
「まさか、螢惑、おまえ…」
「螢惑って、それが俺の名前?」
「あ、ああ」
「そう…」
思いもよらぬ螢惑の反応に、辰伶は大いに戸惑っていた。高熱で記憶をなくすことがあるというを、話には聞いたことがあったが、まさかそんなことがこんなに身近におきようとは。しかも螢惑にそれが降りかかることがあろうとは、思ってもみないことだった。驚きの為に、暫く何も言葉が浮かばなかった。
「それから」
沈黙の中から、螢惑が再び言葉を発した。
「あれは、何?」
螢惑の指が指し示すものを目で追う。細い指の、その先の更に延長にあるもの。柱に掛けられた一輪挿し。それに生けられた青い花。
「あの花は、何ていうの?」
「オダマキ。…あれはオダマキという花だ。螢惑」
宇環というのだ、あれは。
温かい。
ここは、この寝床はとても気持ちがいい。こんな心地よい眠りについたら、俺は弱くなる。きっと、弱くなる。
この器。
こんなものに盛られた食べ物など食べられない。これを食べたら、俺はきっと弱くなる。多分、弱くなってしまう。
弱さは死だ。
この部屋は俺を弱くする。こんなところじゃ、とてもじゃないけど眠れない。食べられない。この部屋の居心地の良さが、俺を殺す。
ここは、毒だ。
記憶喪失。螢惑が記憶喪失。
辰伶は心の中で何度も繰り返した。何度繰り返しても信じられない。信じられなくても、現に螢惑は何も覚えていない。
「覚えていないくせに…」
辰伶は唇を噛んだ。
全てを忘れた螢惑は、自分がどのように生きてきたかも知らない。生命を脅かされ続けてきた幼い日々は無く、先代紅の王への叛逆も無く、鬼目の狂も四聖天も無い。そして、壬生の五曜星として辰伶と並び立ち、事あるごとに反目し、いがみ合ってばかりいたことも忘れてしまっている。
何も無いはずだ。今となっては、自分達の間には、何の諍いの種も無いはずだ。それなのに…。
「辰伶だ。入るぞ」
螢惑に貸し与えている部屋に入る。その片隅に、膝を抱えて、螢惑が居た。殆ど顔を上げず、上目遣いに睨むように辰伶を見上げる。野生の獣のように、強い警戒心を隠しもしない。
あからさまな不信の瞳。頑なに身を縮めて、全身で辰伶を拒絶している。何もかも忘れてしまっているというのに、自分に対する反感は変わらない。何もかも無くしても、これだけは螢惑の本質だとでもいっているかのようで、辰伶は溜息をつきたくなる。
「熱が引いたとはいえ、まだ病み上がりの身だろう。おとなしく布団に入って寝てろ」
寝床の傍らには、膳が置かれたままになっている。全く手をつけた様子はない。
「まだ食欲は出ないのか?無理にとは言わないが、少しでも食べないと体力は戻らないぞ」
螢惑の身体が小さく見える。それは決して、身を縮めているせいばかりではない。日に日に痩せ衰えてきているのだ。白い首筋が痛々しいくらいに細い。
食欲の問題では無いのかも知れないと、辰伶は思った。螢惑の双眸はギラギラと冴え渡り、その光は病人には見えない。盲信者にも似て、他人の理解を寄せ付けない闇雲な強さを放っている。信念。そう、これは信念の一種ではないか。
辰伶が螢惑の身柄を預かって、5日が過ぎていた。その間に辰伶は太四老に謁見して、螢惑の処遇について伺いを立てた。
その場では幾つかの情報が得られた。まずは、螢惑が鬼目の狂の監視の任から解かれたこと。これについては、鬼目の狂及び四聖天の解散が確認されたことによる。
そして、その情報は太四老がつけたもう1人の監視役によって齎されたということだ。鬼目の狂には、螢惑以外にも監視が付けられていたらしい。いや、寧ろその人物が本物の監視役で、螢惑の方は全く重要視されていないような感触を、辰伶は感じ取っていた。随分と馬鹿にした話である。
螢惑が記憶を失ったことについては、何の指示も無かった。無視、或いは放置ということなのか。一度は叛逆者として壬生の郷を出されてはいるが、しかし仮にも壬生の九曜、五曜星の1人である。螢惑の忠誠心の希薄さは既に知れていることだが、それにしても軽視し過ぎではないか。
太四老の中でも、螢惑の師であり、また身元引受人である遊庵には、何かしらの反応を期待していた。しかし遊庵は謁見の場にいなかった。
螢惑の身の振り方については、まずは遊庵と相談するのが筋だと思った。しかし辰伶は遊庵とは余り面識がなかったので、謁見場に現れないのでは、訪ねることも儘ならなかった。
幾つもの憤りを、しかし辰伶は胸一つに収め、陰陽殿を辞した。1人の五曜星の不調など、神にも近い太四老からすれば些細なことなのだろう。
他にどうする道も無く、螢惑は辰伶の屋敷に留まる事となった。特に迷惑だった訳でもないし、寧ろ良かったとさえ思う。こんな状態のままで螢惑にどこかに雲隠れされてしまったら、始終気になって居ても立ってもいられなくなってしまったに違いない。
それに螢惑は辰伶の異母弟だ。父親亡き今、一族のことは家長である辰伶に責任がある。螢惑は正式には一族とは認められてはいないが、しかし辰伶は螢惑の身命に対して強い責任を感じていた。
そんな辰伶の責任感や使命感をまるで拒否するように、螢惑は警戒も露わに部屋の隅から動かない。
螢惑が健常な状態なら、それでも良かった。部屋に閉じ込めている訳でもないのだから、自分で好きにするだろう。しかし今の螢惑は餌の捕り方を忘れてしまった野生動物のようだ。放っておいたら死もありえる。
辰伶は身震いした。まさかと思いつつも、螢惑の病的な細さを見ていると『死』の文字が頭から離れない。記憶が戻るか、せめて食事だけでもしてくれたら。そうしたら、少しは安心できるのに。
「螢惑」
辰伶の声に反応して、金色の瞳がキロリと動く。
「外へ出てみないか?」
「……外?」
「部屋に閉じこもりきりなのが良くないのかもしれない。もう夕暮れだが、幸い今日は満月だ。外の空気を吸って、月を眺めるのも良い気分転換になると思うが」
「部屋の外…」
螢惑が身じろいだ。立ち上がろうとして、体勢が崩れる。咄嗟に辰伶はそれを支えた。そのまま螢惑の腕を肩に回させる。
螢惑の身体を支えながら、縁側から外へ出た。こうして身を寄せていると、本当に螢惑には記憶が無いのだと実感する。本来の螢惑なら、どんなに衰弱していたとしても、辰伶の手を借りたりはしなかっただろう。
「ああ、月が」
月は低く、赤かった。それは血を連想させる。その禍々しさに、辰伶は死の翼を見る。螢惑の身体を支える腕に力が篭る。
しかし螢惑はまるで魅入られたかのように、その赤い月を視凝めていた。
「…綺麗。すごく、紅くて…」
辰伶の心象に不吉な影を落とす赤い月も、螢惑には1つの美として映っているのだろう。同じものを見ても、同じように感じあえない。そんな単純なことが、辰伶の気持ちを滅入らせる。
何か、話をしたい。でも、話すことが何もない。
いつも争ってばかりいた。多くを言葉でなく、刀で主張しあっていた。記憶を失った螢惑に、思い出して欲しいような思い出など、何一つ浮かんでこない。彼が記憶を取り戻したところで、その心の何処にも自分は存在していないのだと、辰伶は思い知らされる。
不遇の異母弟に何かしてやりたくて、陰からずっと見守ってきたつもりだった。しかし実際のところ、彼の為に一体何が出来ただろう。何も無い。何もしてやって来なかったと、辰伶は自己嫌悪に打ち拉がれた。
―――俺たちの間には、こんなにも何も無い。
赤い……紅い月。
凄く綺麗。
綺麗で怖い。
何だか懐かしい。
すごく、懐かしい。
螢惑は夜中に目を覚ました。月明かりで障子が青白く光っている。
あの赤い月が、螢惑の心を捕らえていた。赤い、燃えるような紅い月。紅い月は恐ろしく、そして不思議に優しい。その月の色を思い出すと、何か大切なことを忘れているような気持ちになる。
螢惑は壁に縋るようにして立ち上がった。まともな格好で寝ていない為、体中がギシギシと軋む。少しふらついたが、ゆっくりと歩いて外へ向かった。もう1度、あの月が見たい。
月は真上よりも少し西に傾いていた。天上で皓々と光を放っている。
螢惑は呆然とした。違う。これじゃない。
天の高みから降り注ぐ月光は燦然たる銀色をしていた。白銀の月が、螢惑を冷たく見下ろしている。
「同じ月なのに…」
深紅と白銀。月は等しく月なのに、こんなにも顔が違う。
紅い月には、恐ろしさと優しさの中に、何か心が騒ぐものがあった。それが何か知りたくて、こうしてふらつく身体で外に出てきたのだ。
そして見ることとなった白銀の月も、螢惑の心を深く捉えたが、それは紅い月に対するのに似ているようで全く違う気持ちを、螢惑に齎した。
白い月は冷たく悲しい。その銀色の光を見ていると心が痛くなる。ただ、苦しくなる。苦しくて、苦しくて、いっそ憎んでしまいたい程だ。
その時、雲が月を隠した。
「……ないで」
消えないで、なのか。行かないで、なのか。
「螢惑」
いつからそこに居たのか。振り返ると、辰伶が立っていた。銀色の髪が仄白く闇に浮かびあがって夜目に引く。
「どうした。眠れないのか?」
背中から羽織を着せ掛けられた。痛みが、苦しみが消えていく。
―――俺は、これが欲しかったのか?こいつは誰だ?俺にとって、何だったんだろう?
「俺は誰?……おまえは誰なの?」
羽織の袷を握り締める。
「おまえは、俺の何?」
辰伶は息を詰めた。そして、ゆっくりと確かな口調で言った。
「俺は、お前の兄だ」
……を、“家族”と思ってるよ…
「俺たちは兄弟だ。ここはお前の家だ」
……な場所にしてみないかい?…
「お前はここに居ていいんだ」
……あんたがあたり前にいていい場所…
心が震える。こんな感情は知らない。
「俺の“家”?」
理解できない。兄、兄弟、家族。そんな言葉に置き換えてみても、螢惑にとって辰伶が何なのか全く理解できない。あの苦痛の、そしてこの不思議な安心感の正体が分からない。
思い出したい。螢惑は初めてそう思った。
その夜、螢惑は布団に身体を横たえて眠った。伸ばされた四肢の先から、疲労がゆっくりと抜けていくようだった。
そして、翌朝初めて摂った食事は、体中に染み渡る生命の味だった。
どうして『強くなりたい』などと思っていたのか。
螢惑は、こうしてここに居て、自分がどんどん弱くなっているのを感じていた。温かい布団に包まって、与えられた食事を摂って、日に日に弱くなっている筈だ。
しかし、一向に死の訪れは無い。弱くなったら絶対に生きていけないと思っていたのに、死の気配が感じられない。
弱くても生命は消えないのだ。生きるのに強さは必須ではない。それでは何故、強くなければいけないのか。安定した生活の中で、螢惑は奇妙な焦りを感じていた。
夜、辰伶は庭で武道の稽古をする。夜間に行うのは、昼間は螢惑の面倒をみたり、何か雑事をこなしているからだ。どんな時でも鍛錬は怠らない。それが壬生の戦士としての勤めだ。
その様子を、螢惑は縁側から見ている。そうして見ているだけでも、辰伶の強さが解かる。この漢は本気で強い。心が騒ぐ。
辰伶も螢惑と同じような布団に寝て、同じようなものを食べているはずだ。なのにこの強さは何だろう。ひょっとして、こんな暮らしをしていても、弱くはならないのかもしれない。螢惑はそう思った。
それにしても、落ち着かない。辰伶の動きに、螢惑の中に潜む何かが刺激される。
「辰伶」
呼びかけに、辰伶は稽古を中断させた。
「何だ?」
螢惑が思い詰めたような、食い入るような瞳で辰伶を視凝めてくる。
「俺…、俺も…っ!」
「手合わせするか?」
螢惑は頷き、彼の刀を手に、庭へ降り立った。
「本調子ではないのだろう。木刀にしたらどうだ?」
「こっちがいい」
真剣の方が手にしっくりと馴染む。この重みが心地よい。
「ならば、いくぞ」
刀がぶつかる瞬間に、手首に戦慄きが走る。この瞬間が好きだ。交えた刀が発する金属音。その甲高い音が闘争心を煽る。
でも、まだだ。まだ足りない。
辰伶は強い。その剣は鋭く冷酷に僅かな隙を突いてくる。だが、こんなものでは無いはずだ。螢惑はギリと唇を噛み締める。
螢惑が感じた通り、辰伶は本来の力を出してはいなかった。螢惑は病み上がりですっかり体力が落ちていたし、記憶もない状態なので完全に力を出し切れない。それに合わせて手加減をしていたのだ。
―――どうして本気じゃない?
―――俺なんか、まともに相手にしてらんない?
―――俺のこと、馬鹿にしてんの?
悔しい。弱いのは悔しい。悔しいのは嫌だ。弱くて悔しいのが嫌なら、強くなくてはならない。何故、強くならなければならないのか。それは、
「それは…俺の気がすまないから…っ」
螢惑の動きが瞬間的に速くなり、これまでの技を遥かに凌駕する激しく重い剣を辰伶に打ち下ろした。
「う……っ」
辰伶はそれを受け止めきれず、地に片膝を着いた。衝撃でクラクラする額を押さえる。
「いい気味。手抜きなんかしてるからだよ」
螢惑は小馬鹿にするように辰伶の正面にしゃがみ込んで言った。
「螢惑…」
「手抜きなんて、辰伶らしくないね」
「螢惑、お前…」
そうか、戻ったか。辰伶は小さく口角を上げて笑った。こうでなくては、な。
「ふん。少し肩慣らしをしていただけだ。…次は本気だ」
「俺も本気でいくよ」
そうだ。こうでなくては、俺たちは面白くない。互いの技が尽きるまで。互いの力が尽きるまで。
月が沈み、空が白むまで。
記憶を取り戻した螢惑は、その間のことを全て忘れていた。自分が辰伶に拾われたことも、その屋敷で世話になっていたことも、辰伶が兄だと名乗ったことも。
終わってしまえば、それはまるで幻のような日々だった。辰伶は思い返して、その時間が如何に優しいものであったかを、今になって実感する。
辰伶と螢惑は、半分とはいえ血の繋がった兄弟だ。にも拘らず、辰伶は兄として螢惑に何もしてやれなかったことが、長いこと負い目となって胸中にあった。それがこの数日間の生活で、随分軽くなったように感じた。
言葉ではっきりと、兄であると告げることができた。兄として弟を守ることができた。それはただの自己満足に過ぎないのだろうけど、辰伶は螢惑の記憶喪失に少し感謝していた。
この記憶喪失の間の出来事を、何か1つでも螢惑が覚えていたら、2人の関係は変えられたかもしれない。それは1つの可能性に過ぎないが、その想いは小さな灯となって辰伶の中で揺れていた。
螢惑は草叢に寝転んだ。今日は天気が良い。昼寝にはとても都合が良い。
寝転んで見上げた視界に、ふと花の姿がある。見上げる蒼穹の中で、釣鐘型の青い花が螢惑を覗き込んでいる。ああ、自分はこの花の名前を知っている。でも、何故知っているのだろう。いつから知っていたのだろう。
「…誰が、教えてくれたんだっけ…」
これは、宇環の花。中空の見えない糸巻き。
終わり
+・+ リクエスト +・+