スイート・エンジェル作戦


 実母がどんな人だったか、螢惑には全く記憶がない。だが、実母と別れた時のことは覚えていた。いや正確には、思い出した。

 螢惑は父親に連れられて、今の家にやってきた。5歳だったはずだ。今日からこの家で暮らすのだと、父親から宣告された。そして知らない女の人(養母)と子供(辰伶)に紹介された。

 この時、父親は卑怯にもはっきり説明してくれなかったが、しかし螢惑は実母とはもう逢えないことを理解していた。何日も前から母親は帰ってきてなくて、その間、螢惑は独りきりで、死にそうなくらいお腹がすいていた。

 母親との別離を悲しいとも寂しいとも思わなかった。それよりも空腹が辛かった。見ず知らずの他人の家で暮らすことが嬉しいはずもないが、泣いたりぐずったりする程のことでもなかった。とにかく死にそうに空腹で寂しいどころじゃなかった。泣くだけの体力も無かった。

 突然のことで、まだ螢惑の部屋はおろか寝床さえ準備がされておらず、しばらく螢惑は辰伶と同じベッドで一緒に眠ることになった。成長してもそのまま使えるようにと、辰伶のベッドは既に大人用のものだったから、子供2人なら余裕で寝ることができた。それでも2人はぴったりと身体を寄せ合って眠った。

 それから螢惑の部屋が調うまでそんなに月日は待たなかったはずだが、しかし1年以上螢惑は辰伶と同じベッドで寝ていた記憶がある。枕を抱えた辰伶が螢惑のベッドに潜り込んできていたのだ。当時の辰伶の年齢を考えるに、独り寝を寂しがるくらいには彼も幼かった。寧ろあの年齢で個室を与えられ、父母の添い寝無しであったことの方がすごいかもしれない。

 そんなことを螢惑が思い出したのは、ホラー鑑賞会の時に辰伶と1つの毛布に包まって夜更かしをした時だ。久しく忘れていた異母兄の体温。懐かしいような、泣きたくなるような心地よさを感じて眠った幼い日。

 あの心地よい温もりと安心感。それこそが殆ど唯一といっていい、螢惑の実母の記憶だ。2度と触れ合うことないであろう母親の温もりを、代わって辰伶から分け与えられた体温に求めていた。やがてそれは辰伶の温もりの記憶になってしまったけれど、その前は実母から与えられた温もりだったはずだ。

 螢惑が実母に逢いに行く2度目の朝、身支度しながらゆっくりと覚醒していくなかで、螢惑はそんなことをふと気付いたのだ。


 その前日は、螢惑はアパートから実家に帰り、未だに自分の為に確保されている自室で寝泊まりした。

「いってきます」

 実母に会いにいくけど、自分の『家』はここであると、そういう思いを込めて『いってきます』と言って家を出た。養母は『いってらっしゃい』と普段と変わらず螢惑を送り出した。特別なことはない。

 勿論、螢惑が実母に会いにいくことは、家族みんなが知っている。コソコソ逢うのは良くないと思ったし、そもそも何も後ろめたくはなかったから、行き先も目的もはっきりと伝えておいた。

 ただ、辰伶には、実母に会った後はなるべくアパートではなく実家に帰るようにして欲しいと言われていたので、そうすることにした。帰宅した螢惑は、夕食までの間、辰伶の部屋に入り浸ってその日の出来事を異母兄に話して聞かせた。


 螢惑の、実母との2度目の邂逅は良い印象だったようだ。

「この年齢で親子2人で遊園地ってどうなの?って思ったけどさ、『息子とデートなんて最高じゃない』だってさ。頭おかしいと思う」

 そうは言うが、螢惑の口調は彼女を侮蔑しているようには、辰伶には聞こえなかった。前回のように心底うんざりしたという態度ではない。むしろ、そこには少し親しみが生まれたように思えて、辰伶は小さく動揺した。

「楽しかったか?」
「普通。適当に乗り物に乗って、ご飯奢ってもらって…オムライス美味しかった」
「良かったな」
「うん。最近のトロトロ卵のじゃなくて、薄焼き卵でくるんだヤツだった。いつもお義母さんが作ってくれるヤツ」
「ふうん」
「流行りか何か知らないけど、最近のオムライスってトロトロばっかでしょ。俺、薄焼き卵の方が好きなんだよね。そう言ったら、薄焼き卵のオムライスの方が失敗しやすいからじゃないかって、あの人、言うんだよ。それが本当かどうか俺にはわからないけど……」

 螢惑は少し得意げに微笑んだ。

「お義母さんは1回も失敗したことないって言ったら、『すごいわね』って。トロトロの方はごまかしきくけど、薄焼き卵でキレイに包むのは難しいから自分は自信ないって、そう言ってあの人、お義母さんのこと褒めてくれた」
「……」

 螢惑の実母に対する態度の軟化の理由はコレだったか。辰伶はひとまず安堵した。やっぱり本当の母親の方が気安いとか、いつか螢惑がそんなことを言いだすのではないかと、辰伶は恐れていた。そしてその危惧は、彼の母親とも共通して抱いているものだ。螢惑が実母に逢うことを、辰伶も辰伶の母も本当は不安に思っている。実母に会いにいく螢惑を送り出した辰伶の母は辰伶の手を握って呟いた。

『渡さない。絶対に螢惑は渡さない…』

 その通りだと辰伶は思った。螢惑の家族は自分達だ。誰にも渡すものか。螢惑が実母に会うのは、彼の権利だからそれを奪うことはしないが、それとこれは別だ。辰伶は母親の目を見て頷いた。辰伶の手を握る力が強くなり、それは痛いほどだったが、心強くもあった。

 螢惑は養母のことを、まるで聖母かなにかのように崇拝しているが、辰伶が見る限り己の母は普通の人間の母親だ。子供を取り上げようものなら鬼にも蛇にもなる。螢惑の実母の存在が自分たち家族の脅威になるようなら、辰伶も辰伶の母も相手に対してどこまでも非情に冷酷になれるだろう。

 大丈夫。まだ俺たちの敵じゃない。

 辰伶は初めて螢惑に逢った日のことを覚えている。突然父親が連れてきた見知らぬ子供。異様に痩せて表情が乏しい。何を考えているのか判らない、感情の全く読めない、気味の悪い子供だった。そして、己の隣に立つ母からは子供にもわかるくらいの怒りの空気を感じた。父親の様子は何だか居たたまれなかった。ひどくギクシャクした空気に、辰伶は自分が誰に対してどう振る舞ったら良いのか解らなくて困っていた。この子供は弟だと言われて余計に困った。

 ご飯をどうしたとか、お風呂をどうしたなんてことは覚えていないが、その夜は螢惑と一緒に眠ることになったから、それだけは覚えている。それまで独りで眠るのが普通だったから(もっと幼い頃には添い寝とかしてもらったのだろうが覚えていない)、他人の体温はとても温かくて気持ちが良くて、辰伶はすぐに眠ってしまった。

 そして夜中にふと目が覚めて、隣に誰かがいるのにびっくりして、すぐに螢惑のことを思い出して安心した。暗い部屋の中で独りではないのが、こんなに安心できるなんて辰伶は知らなかった。そっと隣で眠っている螢惑を覗き込んで、辰伶はびっくりした。眠りながら螢惑は涙を流していた。当たり前だ。突然母親から引き離されて、知らない場所で知らない他人と一緒に寝させられて、恐くないはずがない。ましてこの子供は辰伶よりも1年(螢惑は半年と言い張るが、辰伶は1年差があると思っている)幼いのだ。辛かっただろうし、泣きたかっただろう。ただ螢惑は我慢していただけなのだ。大人たちの勝手な都合の中で。

 この幼い弟は、兄である自分が守らなければいけない。辰伶は螢惑を抱きしめて眠った。数日後には螢惑の部屋とベッドが用意されたが、この子供を独りにしてはいけないと思ったから、螢惑が泣きながら眠ることがなくなるまで、辰伶はずっと寄り添って眠った。

 そういえば、あれはいつのことだったか。

『見て見て、私の天使』

 引き出しの中を整理していたら良いものが出てきたと、辰伶は母親から一枚の写真を見せられた。写真の中では、2人の幼い子供が頬と頬をくっつけ合うようにして眠っている。幼い頃の辰伶と螢惑だ。

 自分の子供の頃のことをそんな風に言われるのは気恥ずかしい。辰伶は反応できないでいたが、彼女は気にせず思い出話をしだした。

 寝顔が余りにも可愛くて、思わず写真に撮ったのだという。本当に2人とも可愛いと、心の底から思った、と。

 それから子供たちが何をしても可愛くてたまらなくて、それしか考えられなくなった。するとある日突然、夫が改まって彼女に謝った。どんなに彼女に感謝して、彼女のことをどんなに素晴らしい女性だと思っているかラテン民族のように語りだしたから、この人は急に頭がおかしくなったのかと思った。

 辰伶の母は、辰伶にそんなことを語った。昔はどうか知らないが、辰伶が知る己の父親は優しく誠実だ。きっと、父が母に心から詫びた日が、自分達が本当に家族になった日だったのだろう。

 それなら、まあ、天使の写真と言えなくもない。


 あれから今日まで、螢惑を守ってきたのは自分と自分の家族であると辰伶は自負している。どんな事情や理由があろうとも、幼い螢惑を独りぼっちにして泣かせた女を、辰伶は決して赦す気は無かった。

 しかし、実の母親を憎んだり恨んだりするのは苦しいことだろうと思うし、それはとても不幸なことだと辰伶は考える。だから、螢惑が実母と良い関係がもてるならその方がいいに決まっている。だが、それとこれは全く別の問題だ。実母といえども、螢惑は譲らない。譲る必要性を辰伶は微塵も感じていない。

「あとね、あの人、新しく彼氏ができたって」
「ふうん。その人と再婚でもするのか?」
「うーん…結婚はめんどくさいからもういいって。仕事もしてるし、生活できないわけでもないから。でも独りじゃ寂しいから、たまに一緒に遊んでくれる人がいれば十分だって。今が人生で一番自由で気楽だって言ってた」
「……ふうん」

 そういう生き方に憧れたりはしないが、否定するほど悪い人生でもないなと、辰伶は思った。まあ、悪くはない。

「…まあ、そう悪い人生でもないよね…」

 一瞬、自分の頭の中を読まれたかと思って、辰伶は驚いた。だが、たまたま同じようなことを螢惑も感じただけのことだと、辰伶は心を静めた。

「不幸だと気になるけどさ、それなりに幸せならいいよね」
「そうだな」

 螢惑が気に掛ける必要がない程度に、彼女には平凡で幸福であって欲しい。そんな身勝手なことを祈っている自分は天使には程遠いと辰伶は思う。

 この家には聖母も天使もいない。普通の人間の家族だ。


 終わり