マーキング作戦の勝者
螢惑が実家を出てアパートで1人で生活していることは秘密ではない。しかし、秘密にしておけばよかったと、螢惑は後悔している。
4月を迎えて螢惑は3年生に進級した。その頃から頻繁に知らない女子がアパートに訪ねてくるようになった。彼女たちは同じクラスだとか、同じ学校だとか、同じ学校の誰某と同じ中学の出身だのと、一様に何かしら螢惑との繋がりを主張するのだが、螢惑にはとんと覚えが無い。一律に知らない女子だ。
1人では何かと不自由だろうからと、やたらと手料理を食べさせたがる。掃除をしたがる。洗濯をしたがる。螢惑としては、居住空間に知らない人物が入り込むのは何とも居心地が悪い。だから「いらない」ときっぱり断るのだが、「遠慮しなくていい」と返されて侵入される。螢惑は遠慮などしていない。むしろそちらに遠慮して欲しい。
とても迷惑なのだが、それを誰にも解ってもらえない。友人知人にこの話をしたら、「自慢かよ!」とキレられた。養母に話したら、その中に本命の子はいるのかと、瞳をキラキラさせていた。父親とは余り話をしない。異母兄は…辰伶はどう思っているのか聞いたことがない。
押しかけ女子について、半分は辰伶に責任があると螢惑は思っている。2年生までは同じ校内に辰伶がいて、昼食には養母の作ってくれた弁当を届けてくれていたのだが、1学年上である辰伶が卒業してしまったので、4月からは購買を利用することが多くなった。だから「不自由している」と女子が勘違いしているのだろうと思う。螢惑は炊事ができない訳ではない。ただ弁当を作るのが面倒なだけだ。
それから、彼女たちの本命は螢惑ではない。螢惑と親しくなって、本当は辰伶に近づきたいのだ。螢惑は手の中のカードを見て溜息をついた。辰伶に渡して欲しいと、先ほど見知らぬ女子に手渡された。カードには彼女の携帯の番号とメアドが刷られている。上目遣いな顔写真つきだ。
「…気が重いなあ」
何故かこのカードを辰伶に渡したくないと思う。螢惑がこれを欲しい訳ではないが、何となく嫌なのだ。
辰伶はというと、キッチンスペースで揚げ物の準備をしている。母親から託ってコロッケの差し入れに来たのだが、美味しく揚げたてを食べさせるようにと厳命されたのだそうだ。辰伶が持たされたタッパーには、俵型のコロッケが後は揚げるだけの状態で並んでいた。
「お義母さんのコロッケは冷めても美味しいよ」
「まあそうだが、揚げたては格別だからな」
「うん」
螢惑は辰伶の隣に並び、キャベツをせん切りにした。実家を出るとき、養母に家事を散々仕込まれた。養母は鬼監督だった。とばっちりで辰伶も、今時の男子はこれくらいできなくては嫁の来手がないと家事を一通り仕込まれた。
「…これ以上レベル上げてどうするんだよ…」
ただでさえ辰伶は女子にもてるのだ。知らない女子から名刺を渡して欲しいと頼まれるくらいに。その上、料理上手の家事得意男子だなんてことになったら『嫁ホイホイ』じゃないか。
「あのさ、辰伶」
「なんだ?」
「これ、お前に渡して欲しいって頼まれた」
渡された名刺を辰伶は一瞥する。何の反応も示さず、辰伶は無言でそれを細かく破り捨てた。
「破っちゃうの?」
「このまま捨てて誰かが拾ったら、相手に迷惑がかかるだろう。個人情報だぞ」
気遣いの方向性が違う気がする。ともあれ辰伶が女子の連絡先に関心を示さなかったので、螢惑は気持ちが軽くなった。
「いただきます」
辰伶と向かい合って夕飯を食べた。コロッケは養母が作るのと同じ味がした。揚げるだけだったから当たり前だが。
「コロッケうまく揚がって良かったね」
「1つ爆発したけどな。お前のキャベツのせん切りも上達したな」
「そう?もう俺たち結婚しようよ」
「ああ、また今度な」
螢惑のいいかげんなセリフに辰伶も適当に返す。
「…ところで螢惑、お前、彼女でもできたか?」
「はぁ?なんで?」
辰伶は部屋の片隅に置いてあるクマのぬいぐるみを指した。
「お前の持ち物にしては異質な気がして」
「あれは知らない女子が勝手に置いていった。この部屋は殺風景だからって。可愛いけど掃除の邪魔なんだよね」
「ふうん…」
赤ん坊よりも小さなクマのぬいぐるみ。部屋の全てを見渡すような位置にちょこんと鎮座している。まるでそれが見える場所は自分が居てもいいのだと、ぬいぐるみの贈り主が主張しているように辰伶は感じた。
螢惑の実母については、実は螢惑よりも辰伶の方が詳しい。辰伶は螢惑とは違って異母弟の肉親に無関心ではなかったので、家族の誰にも内緒で調べたことがあった。そして、詳しい経緯は省くが、螢惑の母親が結婚した相手には連れ子がいて、辰伶は彼女と知り合うことができた。
彼女の父と螢惑の母が結婚したのは、彼女が11歳の頃だそうだ。難しい年頃である。全く馴染めず、やがて継母から弟が生まれるとますます関係は拗れて、彼女は高校も中退して家出紛いに彷徨い暮らしていた。
『誰からも必要とされてないっていうか……居場所が何処にも無いな〜ってカンジ』
彼女は何でもないように軽く語ったが、その言葉はやけに印象に残った。
「…螢惑」
「何?」
「…何でもない」
辰伶はこれまでの人生で、自分に居場所が無いなどと感じたことは一度も無い。しかし螢惑は?螢惑が家を出てアパートで暮らすようになったのは、実家に居場所が無いと感じたからなのだろうか。
そんなはずは無いと、辰伶は信じたかった。実家には今でも螢惑の部屋が残されている。母親は螢惑が顔を見せると喜ぶし、父親も不器用なりに声を掛ける。螢惑がそこに居るのは辰伶にとって当たり前のこと過ぎた。
辰伶が知り得た情報はまだある。螢惑の母親が生んだ男の子、つまり螢惑の異父弟は昨年事故で亡くなった。その前から家庭は上手くいってはいなかったが、最終的にはそれがきっかけとなって離婚したということだ。バラバラになってしまった自分の家族について話す彼女はとてもクールだった。
幼稚園に娘を迎えにいく時間だと、彼女は席を立った。今日は旦那の好物の照り焼きハンバーグを作るからと忙しくしていたが、充実しているように見えた。彼女はやっと手に入れた自分の居場所である家庭を懸命に守っているのだ。
誰が悪かったのか、何が足りなかったのか。考えるにしても辰伶にとっては他人の話に過ぎない。それより辰伶が思ったのは自分の家族のことだ。辰伶にとって当たり前の家庭は、これまで母親が懸命に守ってきた家庭だったのだと、強く強く感じずにはいられない。尊敬と感謝の気持ちが溢れた。
「……」
そして再び無言で螢惑を見遣る。
辰伶は気づかなかった。バラバラになった家族の話を聞くまで、当たり前に与えられているその幸福が簡単に崩れてしまうこともあるのだということを。ところが螢惑は辰伶よりもはるかに早くそれに気づいていた。
他人の不幸を見て自分の幸福を知る自分と、何者にも捉われずに本質を掴む異母弟を比べてしまう。螢惑の資質を称賛する想いと同時に、まるで小さなシミのようにコンプレックスを拭えない。愛しさと悔しさと、辰伶が螢惑に対して抱く想いは年を重ねるごとに複雑になっていく。
「あ」
唐突に螢惑は声を上げた。
「そうか。辰伶のキーホルダーだ」
「…はぁ?」
螢惑はクマのぬいぐるみを手元に引き寄せた。
「辰伶が誰かから貰ったキーホルダーを鞄につけたら彼女認定された話。特別扱いはダメだから他人から貰った物は身に着けないって、こういうことなんだ」
確かに以前そんな話を螢惑にした覚えが辰伶にはあった。しかしどうして今それを引き合いに出されるのかピンとこない。螢惑は感情の籠らない目でクマのぬいぐるみと向き合った。
「何でこれが部屋にあると彼女ができたと思われるのか解らなかったけど……こういうのが特別扱いになって、揉め事の火種になるのか……面倒だなあ…」
言うなり、螢惑はぬいぐるみをゴミ箱へ捨てようとした。それを辰伶は全力で引き留めた。
「待て、待て、待て!」
「何?」
「捨てるなんて、かわいそうだろう!」
「贈った人が?」
「ぬいぐるみが!」
螢惑は数秒間無言でぬいぐるみを見詰めた。
「誰か貰ってくれそうな人はいないのか?いなければ俺が引き取るが…」
「……」
このぬいぐるみが辰伶の部屋に飾られることを想像して、螢惑は不愉快な気持ちになった。よく知らない女子の想いが籠ったそれを辰伶の近くに置きたくないと思った。辰伶へのプレゼントであったマフラーを欲しくないと感じたのと同じ心情だ。
「これ可愛いから、灯ちゃんなら貰ってくれそうな気がする」
「そうか」
クマのぬいぐるみは螢惑の部屋から場所を追われた。螢惑に想いを寄せている誰かの居場所を1つ潰したことになるのだろうか。辰伶は後ろめたく思った。ぬいぐるみを撤去したのは螢惑の自発的な行動で、辰伶は何も教唆してはいない。それでも罪は辰伶の心の中にあった。
「螢惑、これをお前にやろうと思って…」
「何?」
ラッピングも何もしていないシンプルなフォトスタンド。既に写真が収められている。中心に螢惑、後ろに父親、その両脇に辰伶と母親。家族の写真だ。
「ありがと」
螢惑はそのフォトスタンドを部屋のどの位置からでも見える場所に飾った。それを辰伶は優越感をもって見届けた。
終わり