これはトモダチの話作戦
螢惑の実母が、螢惑に会いたがっている。
そう告げられて、まず螢惑が思ったのは、どうしてその人は今頃になってそんな気持ちになったのだろうという疑問だった。詳しくは知らないが、もう別の家庭を作っているはずだ。何しろ彼女が結婚する為に、螢惑は捨てられたのだから。
彼女を恨む気持ちは、螢惑には無い。螢惑は養母の下で幸せに育ったし、本音を言うなら実母のことを思い起こすことなど殆どないままに過ごしてきた。何の印象も感情も持っていない。
だから、会いたいとも、逢いたくないとも、心の針はどちらにも強く振れない。面倒に思うのはそこだ。普段の螢惑の行動は余り例外なく己の感情に素直に従っている。ゆえに、迷いが少ない。だから、どちらでもいいとか、どうでもいいことに対する決断が苦手だ。
「そうか、俺は実の母親のことを『どうでもいい』と思ってるんだ」
そんなことが解ったところで、答えを出すには程遠い。無意味な自己分析だった。
たまには誰かに相談してみようと、螢惑にしては良い結論に至った。幸いにしてというのか、不幸にしてというのか、家族関係に事情を持つ友人知人が、螢惑の周りには多い。
「私だったら、会ってみたいかなあ」
最初の相談相手、椎名ゆやはそう言った。ゆやは両親を知らない。施設で育ったが、そこで仲の良かった椎名朔夜という少女が、歳の離れた兄に引き取られることになった時に、一緒に連れられて施設を出た。椎名兄妹に本当の妹のように可愛がられて暮らしている。
「自分の親がどんな人か、やっぱり興味あるし、私に会いたいって思ってくれたことが嬉しいかな」
「嬉しいの?」
「肉親が生きてこの世にいたってことが、まずは嬉しい。それに、私に会いに来てくれたってことは、私のことが心底要らなくて私を捨てたんじゃなくて、何か理由があったんだって思えるもの」
まず、生きていたことが嬉しいという意見が、螢惑には新鮮だった。螢惑は実母が生きていることは知っていたし、螢惑を捨てた理由や経緯も知っている。実父と異母兄がすぐ傍にいるから、血縁に対する欲求が、ゆやよりも薄いのかもしれない。
「私は絶対に会わないわね。会いたくないもの」
灯こと、御手洗灯吉郎は即答だった。彼女(彼)は幼い頃、実の両親から虐待を受けて死にかけた過去がある。行政の指導により両親の手から離され施設に預けられた。その後は親戚の間を転々とした。何処においても良い思い出はあまり無い。
「いまさら会いたいなんて勝手だわ。もう私には親なんか必要ないの」
いまさら、という気持ちに螢惑は共感した。本当に何故今頃になってそんな気持ちになったのだろう。必要ないという気持ちも似ている。螢惑には優しい養母がいるから。
アキラにも聞いてみた。アキラもゆやと同じく両親を知らない。今でも施設で暮らしている。
「私はとりあえず会いますよ。どちらでもいいですから」
どちらでもいいから悩んでいる螢惑に対し、同じように感じていながらアキラは迷わず「会う」と答えを出した。どうしてだろう。
「これから肉親として付き合っていくのか、一切断絶するのか、会ってから決めればいいことです。嫌な人間なら2度と会うことはないし、そうでないならそれなりに接していきますよ。私に会って、相手がどうしたいのか解らないうちは、こちらも態度を決めかねますね。実の親だからといって、相手の望む通りに振る舞わなければならない義理はありません」
確かにアキラの言うとおりだ。ただ、螢惑がアキラと違うのは、実母に会った後、自分がどうするかは実母に会う前から既に決めていることだ。実母がどんな人間だろうと、螢惑に会いたくなった理由がどうであろうと、螢惑は今の家族関係を崩す気持ちは無い。己の母親は養母だけでいい。兄弟は辰伶だけでいい。
そうだ。こんな時、兄弟なら相談してもいいはずだ。螢惑は異母兄に相談するべく、学校からの帰宅後、アパートに辰伶を呼び出した。
「なんかさ……ソイツを産んだ人がソイツに会いたがってるみたいで、それでソイツはどうしたらいいのか悩んでるんだよね」
「…ほほう。お前のトモダチがそんな悩みを…」
いざ、異母兄に相談しよう思うと、やはりどうにも話し辛い。そこで螢惑は良い方法を思いついた。螢惑はその悩みを他人の話として辰伶に話すことにしたのだ。辰伶は単純だからこの作戦は上手くと思った。それが本当は螢惑自身の話だなんて、辰伶は気づきはしないだろう。話しを聞いた辰伶は双眸を眇め、じっと螢惑を見つめている。もしやバレたか?
「…お前のトモダチというのは、なかなかフクザツな生い立ちなのだな。実の母親に捨てられて、父親の家庭で暮らしていると。義理の母親に育てられて、異母兄弟が…父親が同じ兄が1人いるんだな?」
「うん」
「……」
どうやらバレていないようだ。螢惑は安心して話を進めた。
「で、ソイツはどうしたらいいと思う?」
「会ってくればいいじゃないか」
即答だった。あまりにも簡単に答えを返されて、螢惑は動揺した。
「お前のトモダチなる人物は、母親と会いたくないか、会えない理由でもあるのか?」
「えっと…会ってもいいけど、あんまり会いたい気がしない……らしいよ」
「お前のトモダチは、実の母親が今どこでどうしているか、気にならないのか?」
「それはあんまり気にしてない。とっくに他の人と家庭を作ってるみたいだし」
「育ての母親に遠慮しているのか?」
「……遠慮はしてない…と思う。ただ、今までの関係が変わっちゃったらやだなあ…と思う」
実母に逢うことで、これまでの螢惑の人間関係のバランスが崩れることを恐れているのだ。
「お前が家族になってもう12年になるか」
「…うん。それくらいになるかなあ…」
「その12年が消えることはないし、お前が俺の異母弟であることは変わりようがない。何も変わりはしない」
辰伶の言葉はまるで螢惑の心を読んだかのようだった。本当に変わらないだろうか。
「変わらないだろう?」
辰伶は螢惑の手を両手で包み込み、強く握った。会うことを勧めてはいるが、辰伶も螢惑と同じように不安で怖がっているように、螢惑は感じた。
「変わらないよ」
空いていたもう片方の手を辰伶の手の上に重ねて、螢惑は頷いてみせた。変わらないと、辰伶が明言してくれたから、螢惑も約束する。
「あ、いっとくけど、これは俺のトモダチの話だからね」
「勿論わかっているとも」
最後に念押しして、螢惑は安堵した。やっぱり他人の話は気楽でいい。
そういうことで、螢惑は実母に会った訳だが。不機嫌をあらわにコンビニの中華まんに食らいついている異母弟を、辰伶は横目に見た。2人はコンビニ内のイートインスペースでカウンター席に並んで座り、道行く人を見るともなしに眺めながら、12年ぶりに母子の対面を果たした『螢惑の友達』について話をしていた。
「涙ながらに『あなたのことを忘れた日はなかった』なんて言ったけど……あ、言ったらしいけど、そんなの嘘だよね。じゃなければ思い込みか勘違い。目の前の家族のことが一番でしょ」
「……いや、まあ、その人は手放した子供のことを本当に毎日思ってたかもしれないし…」
「俺のトモダチは毎日が充実してて、あの人のことなんか全然考えもしなかったけどね。だって、俺…のトモダチに本当に向き合ってくれるのは、現実に身近にいる人たちで、写真の中の人じゃない。そりゃあ、ね…全然忘れてるわけでもないから、たまには考えることくらいあるよ?だけど、忘れた日はないって程じゃないね」
「…だったら、お前のトモダチの母親は、日々が充実していなかったのかもしれない」
「そうかもね。でも、自業自得じゃない?」
「……何故、お前はそんなに腹をたてているんだ?…その、お前のトモダチの母親に」
「……」
手の中の中華まんを食べつくした螢惑に、辰伶は新しいのを差し出した。螢惑は3つ目の中華まんにかぶりついた。辰伶は冷めかけてきたコーヒーを一気に飲みほした。
「あの人が『私のこと、さぞ恨んだわよね』なんて言うから、『全然』って答えたら、なんかそれが気に入らなかったらしくて……」
「それは…全然恨んでなどいないことが、お前のトモダチの母親は気に入らなかったということか?」
「うん。そうみたい」
「……わからんな」
「つまりさ、捨てられた恨みもないけど、産んでくれた感謝もないってこと」
実母との十数年ぶりの再会は、螢惑にはあまり劇的でも感傷的でもなかった。何も感じなかった。感情が何一つ動かなかった。その冷めた態度が、実母を大いに落胆させたらしい。そしてその矛先は、螢惑の養母へと向けられた。
「…養母が何か吹き込んだんだろうって……年端もいかない子供を上手く手懐けて、実の母子の絆を妨害した酷い女だってさ…」
「……」
「俺との絆を放棄したのはそっちのくせに」
「お前の怒りの原因は、母さんの悪口を言われたことか?」
「…怒りっていうか……正直がっかりした」
残念に思ったということは、少しは実母に対して何か期待していたということだろうか。恨みも感謝もない相手に、何を求めるものがあっただろうか。
「お前は……お前のトモダチは母親に何て言って欲しかったんだろうな」
そう言って辰伶は席を立ち、追加の飲食物を買いに行った。螢惑はついでにと中華まんを頼んだ。それを待つ間、螢惑は自分が彼女から欲しかった言葉を考えた。
まずは、自分の成長を喜んで欲しかった。そして「ここまで立派に育ててくれてありがとう」とか何とか、ありふれたセリフでいいから養母を褒めて欲しかった。夫の不実の子供を養育する心痛に耐えるくらいの、養母が螢惑を育ててくれたくらいの、それと同じくらいの度量を少しでいいから見せて欲しかった。
実母とはメアドを交換して別れたが、もう一度会いたいとは、螢惑は思わなかった。
「お待たせ」
「辰伶は食べないの?」
「夕飯前だし。お前は食べ過ぎじゃないか?」
「平気。あ、今日もご飯食べに行くね」
螢惑は4つ目となる中華まんにかぶりついた。辰伶はカプチーノを飲んでいた。水分が欲しくなったので、一口もらう。
「勝手だよね。結婚した相手の連れ子と折り合いが悪くて離婚して独りぼっちになったから、俺に…じゃなくて、俺のトモダチに会いたくなったんだから。そうなるまで、絶対俺のことなんて思い出しもしなかったと思う。うん、絶対そうだよ」
「…色々と辛いのだろうな」
「だから、それは自業自得だってば」
「そうかもしれないが、頼れそうな人間が他に誰も思いつかないくらい心細いのだろうな……」
なるほど、と螢惑は思った。他人の心を想像し労わるのが、やはり辰伶は養母の息子で、自分はあの人の息子なのだ。
「もう1回くらい、会ってみようかな…」
「それがいいだろうな」
次は、もう少し優しい気持ちで会えたらいい。螢惑は「こちら側」の人間になろうと思った。
辰伶は、螢惑が実母との面会を終えて喫茶店から出てくるのを待ち伏せて捕まえた。またいつものように鬱陶しがられるかもしれないが、それでも構うものかと思った。今日だけは絶対に、螢惑に実家に帰ってきて欲しかったから。
螢惑は実母との面会で色々と感じたことがあったらしく、辰伶相手に珍しく途切れる間もないくらい話をした。自分の友人の話として。これは実家では話せないだろうと気づいた辰伶は、途中コンビニに寄って、螢惑が気が済むまで話させた。ストレスを解消する為か、螢惑は驚く量を食べた。腹を壊すのではないかと、心配になった辰伶が切り上げさせるまで食べた。
螢惑が実母よりも養母を選んだことを、辰伶は嬉しく思った。それと同時に後ろめたさを覚えた。螢惑の母親が言ったという『実の母子の絆を妨害した』という言葉は、辰伶に罪悪感として突き刺さった。己の歓喜が他人の不幸の上にある。螢惑が実母との間に絆を築けなかったことは不幸だ。なのに、それを喜ぶ自分がいる。
それでも螢惑を他人に渡す気は無い。それが螢惑の母子の絆を壊すことだとしても、異母兄弟の絆を手放すことはできない。だから辰伶は螢惑の母親に憐みの情をかけた。辰伶は自分が偽善者であることを知っていた。
「あ」
花屋の前を通りがかった時、螢惑が声をあげた。
「あれ、買う」
螢惑が指したのは、真っ赤なバラの花だった。
「お義母さんにあげる。母親にバラって変かなあ。でもカーネーションは、いかにもって感じだし、もう少しさりげない感じがいいなあ…」
はて、今日は母の日ではないし、母親の誕生日だっただろうか。違う。螢惑が突然そんなことを言い出した理由が、辰伶には全く思い当たらない。
「ええと、感謝の印にだけど変かなあ?」
「変ではないが、派手過ぎじゃないか?」
「大丈夫。お義母さん、綺麗だから」
綺麗という単語に、辰伶は考え込む。辰伶から見た限り、己の母親は普通のオバサンだ。
「…天然タラシめ」
「別にタラシこもうなんて思ってないよ。真面目に日頃の感謝だよ。でも、バラって高いなあ。俺の持ち金だと何本買えるかなあ」
日頃の感謝にバラの花。発想が気障でタラシの素質がある。この先、螢惑が変な女性を引っ掛けやしないか要注意だと辰伶は思った。
ともかく、螢惑が母親に感謝の気持ちを表したいという心には、辰伶も素直に感激した。
「12本だ」
「え?」
「足りない分は俺がカンパしてやるから、12本にしろ」
「うん、12本なら買えそうだけど、何で?……ああ、」
12年だ。螢惑が辰伶と一緒に暮らしたのが12年。つまり螢惑が養母に育てて貰ったのも12年間だ。
「12本だね」
養母もきっと気づいてくれるはずだ。バラの本数の意味に。
終わり