カゼに作戦は不要


 面倒な話を聞いてしまった。螢惑が家を出てアパートで独り暮らしをするようになってから久しく顔を見ていなかった父親との久し振りの会話で、螢惑は憂鬱を抱え込んでしまった。やっぱり実家になんて寄らなければ良かったと後悔する。

 螢惑の実母が、螢惑に逢いたがっている。

 母親の不倫の関係から生を受けた螢惑は、相手である男の方に引き取られ、その家庭の中で養育された。父と、義母と、異母兄が1人。そのような事情の人間関係の中で螢惑は特に不自由を覚えることもなく、また孤独感や僻みなどの昏い感情に苛まれることもなく、健やかに育った。それはたった1人の、螢惑の養母となった女性の忍耐と努力と気づかいのお陰だと螢惑は思う。

 養母の受けた精神的な苦痛に、螢惑が思い至ったのは、幼少期から思春期に移行するくらいの頃だっただろうか。自分が当たり前に享受している日常が、どれほど奇跡的に貴いものであったかなどと、子供の時分には考えたこともなかった。気づく隙もないくらいに、養母は優しく寛大だった。螢惑は一般常識と推測から養母の気持ちを想像したに過ぎないのだが、その時から螢惑にとって養母は聖母であり、無二の人ととなった。

 そういう訳で、螢惑はもう1人の『母』なる存在に戸惑っていた。その人を己の相関図のどこへ填め込んだら良いのか解らない。考え過ぎて頭が痛くなった。そして酷く寒い。

 そういって体を震わせている螢惑に、クラスメイトであるアキラが言った。

「暦の上では春ですけど、気温は紛うことなく冬ですから寒くて当たり前です。けれど、あなたのそれは熱のせいですね。普通に風邪です」

 指摘されて、螢惑は体調不良を自覚した。

「あ、本当だ、熱がある。何かご飯が美味しくないと思ってたんだよね」
「ウィルスをばら撒く前に、さっさと早退して下さい。担任には言っておきますから」
「ありがとね」

 これ幸いとばかりに螢惑は学校を早退した。堂々とサボれるなんて、風邪って素敵だと思う。

 アパートに帰った螢惑は寝床を用意し、布団に潜り込んだ。調子が悪いといってもまだ余裕がある。温かくして寝るに限ると思った。


 夢うつつの中で、インターホンが鳴っている。渋々と起き上がった螢惑は玄関に向かった。頭がぼうっとして判断力が鈍い。寝る前よりも症状が酷くなっている。

「……あ?」

 玄関の扉を開けると異母兄である辰伶が立っていた。

「何か用?…今、体調悪いから、大事なことじゃないなら、また今度にして」
「お前が風邪をひいたと聞いたから来たんだ。あがるぞ」

 辰伶がこのアパートに訪れたのはこれが初めてだ。引っ越しの時でさえ手伝いにも来てくれなかった。螢惑が家を出ることに、辰伶は最後まで反対だったからだ。今でも納得していないはずだ。

「…何で俺が風邪で早退したって知ってるの?」
「学校から家に連絡があった。それから俺宛てにも、お前の友人からあった」
「アキラが?」

 そういえば、以前にホラー鑑賞会をした時に、辰伶は螢惑の友人知人たちと軒並みメアド交換していた。人脈作りに必要なのか、こういう場面の辰伶のコミュ力は凄い。螢惑は感嘆した。

「ほら、熱が高いんだろう?無理しないで横になれ」
「…寝てたんだよ。辰伶が来たから無理して起きてきたんだよ」
「薬は飲んだか?食事は?何か食べたいものはあるか?」

 辰伶は螢惑を寝床に追い立て、持参した袋から色々な「看病グッズ」を取り出した。総合感冒薬。熱冷まシート。OS−1。ウィダーインゼリー。螢惑はゼリーを貰った。冷たくて美味しい。

「ずいぶん汗をかいているな。着替えはどこだ」
「そこのタンスの中…」
「開けるぞ」
「いいから勝手に捌くって…」

 辰伶から手渡された服に着替える。今しがた脱いだ服はトートバッグの中へと辰伶に回収された。洗濯ものを取りに行くようにと、母(螢惑からすると養母)から指示されたのだそうだ。

「独り暮らしだしな、母さんも心配していた」
「…お義母さん…」

 病気になると気が弱くなるというが、これもそれだろうかと螢惑は思う。養母の心遣いが嬉しい。普段はうざい異母兄が様子を見に来てくれたのが素直に嬉しい。

「他に何か欲しいものとかあるか?」
「…特に思いつかない。眠りたい」
「そうか。ゆっくり眠れ。見ていてやるから」
「うん…」

 そういえば、この部屋には予備の布団もそれを敷くスペースも無かったが、辰伶はどうするのだろう。見ているとは一晩中だろうか。そんなことが少し気になったが、発熱と倦怠に呑まれて、螢惑の意識は眠りの淵に沈んでいった。


「螢惑、螢惑、」

 繰り返し名前を呼ばれているのに気づいた。軽く肩を叩かれてぼんやりと半分覚醒する。

「…何…?」
「魘されていたぞ。大丈夫か?」
「うん…」

 何を大丈夫と聞かれたのか解らなかったが、とりあえず「大丈夫」と返した。

「全然大丈夫じゃないぞ」
「喉が渇いた」

 辰伶に後ろから抱えられるようにして上半身を起こされた。辰伶を背もたれにして、手渡されたペットボトルの飲料を飲んだ。

「美味いか?」
「何これ、初めて飲んだけど……すごく美味しい」
「OS−1が美味いと感じるなんて、脱水症状かもしれん」

 辰伶に手伝われて、再び着替えさせられた。その先の螢惑の記憶はひどく断片的だ。念入りに厚着させられて、タクシーに乗せられて、病院で診察を受けて、気づいたら点滴を打たれていた。

「もうそろそろ点滴が終わるようだ。気分はどうだ?」
「前より体が軽くなった」
「良かった」

 まもなく看護師に点滴を外された。処方された薬を受け取り、再びタクシーに乗せられた。しかし帰るのはアパートではなく、実家へと連れていかれた。アパートで暮らすようになっても実家の螢惑の部屋はそのままで、寝かされたベッドはお日様のにおいがした。

「辰伶って3年だよね。今の時期って大事なんじゃないの?風邪ひきに構ってていいの?」
「大学受験ならもう終わったから大丈夫だ」

 相変わらず異母兄は嫌味なくらいそつが無い。おまけに昔から異母弟に頼られたがりだ。こういうところが螢惑にとってはうざいし面倒くさい。

 辰伶の顔立ちは養母によく似ている。細かな仕草がいちいちそっくりだ。親子なのだから当たり前なのだが、それが螢惑には堪らなく眩しい。半分とはいえ血をわけた弟であるという、ただそれだけの理由で、無償で無制限に注がれる慈しみの眼差しは養母のそれとそっくり同じ。本当は辰伶をうざいなんて思っていない。うっかり異母兄に甘えてしまいたくなる自分の弱さがうざい。

「…何だか眠くなってきたみたい」
「眠ったらいい」
「…気になるから独りにして欲しいんだけど…」
「気にするな」
「気になるんだからしょうがないよ。俺、センサイだから。人の気配があると眠れない」
「しかたないな。大人しく寝ているんだぞ」

 退出する際に辰伶は布団をポンポンと軽く叩いて行った。まるで小さな子供を相手にしているようで、前言撤回、やっぱり辰伶はうざいと螢惑は思った。

 照明が落とされて静まりかえった部屋の中で、螢惑はゆったりと目を閉じる。うざいけれど、嫌いではない。異母兄も養母も、大切な大切な、かけがえのない存在だ。

 螢惑の心は決まっていた。自分も「こちら側」の人間になりたい。ずっと養母と異母兄と繋がっていたい。だから実母のことはどうしたらいいのか、どう考えたら良いのか解らないのだ。結局、悩みは一周して元に戻ってしまう。また熱が上がりそうだ。

 いつの間にか眠っていたらしい。いや、まだ夢の中なのか。熱で霞んで、視界か思考かも区別がつかぬ薄明りの中に養母の顔がある。心配そうに螢惑を覗き込んでいる。

「…おか……さん……」

 手が握られた。布団からはみ出ていたようだ。

「……ごめ……なさ……」

 熱に浮かされて呟くものの、螢惑は自分が何を言っているか自覚していなかった。自覚のないままにぽろぽろとこぼれてくる譫言は、自覚がないゆえに止まらなかった。

「……ごめん……なさい…おれ……おかあ…さんから……うまれ…たかった……」

 螢惑の手を握る力が強くなり、それは細かく震えていた。泣いているのだろうか。こんな優しい人を泣かせたのは誰だろう。酷い奴だと、螢惑は夢心地の中で思い、それは意識の底へと沈んでいった。


 風邪が治った螢惑はアパートに戻った。意外にも、それを辰伶は引き留めなかった。アパートに戻る際に、荷物(螢惑が実家で寝起きしている間に溜まった衣類や日用品)を運ぶ手伝いさえしてくれた。

「珍しく文句言わないんだね」
「自由にさせてやれと言われた……母さんに」

 辰伶は母から諭されたのだ。実家では螢惑は遠慮しながら生きてしまうから、少し距離をおいた方が良いと。そう言った彼女は少し寂しそうだった。

「それで納得したんだ」
「納得するわけないだろう。…ブラコンも大概にしろと怒られたからしかたなく……おい、螢惑、何を笑っている」

 笑わずにいられようか。螢惑には珍しく、本当に珍しく声をたてて笑った。

 それからというもの、以前と違って螢惑が頻繁に実家に顔を見せるようになった。ご飯を食べに来たり、忙しくて家事に手が回らない時は洗濯物を頼みに来たりと、少し甘えるようになった。

 辰伶も螢惑のアパートを頻繁に訪れるようになった。母が作り過ぎた惣菜を届けたり、洗い終わった洗濯物を届けたり、実家の方に届いた郵便物を届けたり……基本的に母親の使いっ走りだ。

 今では螢惑のアパートの合鍵は専ら辰伶が所持している。


 終わり