週末ホラー作戦


 スキンシップが苦手だと螢惑が自覚したのは、高校のクラスメイトである灯のせいだ。

 灯の本名は灯吉郎といって男子生徒なのだが物腰嫋やかな美人で、本人も意識して女性以上に女性らしく振る舞っているので、本来は『彼』というべきなのだろうが、むしろ『彼女』といった方がしっくりくる。なので、あえて『彼女』と呼ぶが、彼女は仲間の誰彼構わず、それこそ全身で接触してくる癖がある。性的な誘惑を意図してのことではないようなので、多分それは彼女の癖なのだ。螢惑はそう思っている。とにかくスキンシップが過剰だ。

 螢惑からすると灯は同性ではあるが、前述の通りの人物なので、触られて気持ち悪いとか、不快だということはない。むしろほんのりと温かく、すっと沁みこんでくるような親しさが、くすぐったくも心地よくさえある。

 灯のもたらすスキンシップに親愛の情を認めつつも、それでもやっぱり螢惑はスキンシップに苦手意識を持ってしまう。抱きついて密着するのも、軽く肩を叩くのも、挨拶代わりの握手さえも、等しく螢惑の好むところでは無い。他人との間には最低でも30cm程の空間が欲しい。それが螢惑の距離感だ。

「それじゃ、キスだってできないんじゃないの?」

 灯にそう言われたのは、下校途中の交差点で信号待ちしていたときの会話の中でのことだった。彼女は揶揄うではなく本気で螢惑を心配しているようだった。

「別に…する相手も、したいヤツもいないからいいよ」
「そういう相手ができたらどうするの?」
「うーん…その時になればなんとかするんじゃない?」
「あんたって、ホント他人事みたいに…」

 実際のところ螢惑は「その時」という状態が余りにも実感がわかないので、全く他人事に近い心持であった。深刻に考える気になれない。キスなどしなくても死にはしないと思うのだが、それを正直に言ってしまったら、灯に怒られそうな気がしたので黙っておいた。

「とにかく、アンタはスキンシップが足りないのよ。もう少し他人に慣れなさい。じゃないと恋もできないわよ」
「…別にできなくても…」
「ああん?」(怒)

 やっぱり怒らせてしまった。螢惑は小さく身震いした。灯は大きな溜息をひとつ吐いた。

「アンタがさ…」

 信号が変わった。一斉に動き出した人の流れに乗って、螢惑たちも歩き出したことで会話が中断した。横断歩道を渡り切ったところで、先ほど途切れさせた言葉の続きを再開した。

「アンタが他人と触れ合うのが苦手なのって、そういう経験が少なくて、人肌に慣れてないからなのね…」
「…灯ちゃん、こんなところでそんな話は、俺でもちょっと恥ずかしい」
「エロ系の話じゃないわよ!」
「じゃあ、同情されちゃったんだ…俺の生い立ちのコト」

 螢惑の母は未婚のままに螢惑を産んだ。螢惑の父親にあたる男には既に家庭があったから。まだ記憶も曖昧な幼い頃に、螢惑は実父に引き取られることになった。誰も何も言わなかったが螢惑はいつの頃からか知っていた。自分が生母に捨てられたことを。

「…ゴメン。同情のつもりはなかったけど、気を悪くさせたわね」
「…俺こそゴメンね。灯ちゃんにそんな気が無かったこと解ってたのに」

 灯は優しくて他人の痛みに敏感だ。だからこういう言い方をするのだと、螢惑は理解している。螢惑自身さえ気づいていなかった痛みを、灯は感じ取ったのだろう。

 灯の想像通り、螢惑は養母である女性から抱きしめられた記憶がない。避けられてはいなかったが、殊更触れ合うこともなかったように思う。

 しかしそれは仕方のないことだと螢惑は思う。養母は螢惑の実父の妻。彼女からすれば、螢惑は夫の不義の証である子供なのだ。そんな子供を育てる破目になった義母の気持ちを考えると、螢惑は胸に痛みを覚えた。義母は善良で心優しい普通の女性だ。螢惑に意地悪をしないこと、そして異母兄である辰伶(彼女の実の子供)と差を付けないことで精一杯だったろうし、それ以上を要求するのは酷ではあるまいか。

 憎悪の対象となるべき愛人の子供と、血を分けた実の息子を、分け隔てなく平等に扱えるだけでも、彼女の自制心は尊い。螢惑にとって義母は冒すべからぬ聖母なのだ。彼女の名誉の為に螢惑は反論しなければならないと思った。

「でも俺…抱っこして欲しいなんて思ったことないし、辰伶だって…」

 あ、と螢惑は唐突に気づいた。義母は辰伶とも触れ合っていなかった。ヒュッと飲んだ息が螢惑の胸を冷たくした。まさか、と思う。義母は螢惑の為に、実子の辰伶とのスキンシップを我慢していたのではないか。螢惑は義母と異母兄から、当たり前の母子の触れ合いさえ奪ってしまったのかもしれない。

「灯ちゃん、俺…どうしよう…」

 螢惑はたった今思ったことを、包み隠さず灯に話した。螢惑の話を黙って聞いていた灯は、暫し黙して考え込んだ。

「うーん…アンタが悪い訳じゃないし、今更誰かに謝るようなことでもないわね。そもそもアンタの取り越し苦労かもしれないし」
「そうだよね。今更、どうしようもないよね」
「でも、いい人に育てて貰えて良かったわね」
「うん」

 灯に養母を『いい人』と言われて、螢惑は嬉しくなった。こんな時に欲しい言葉をくれる。灯のこういうところが好きだ。

「ねえ、週末空いてる?」

 突然の灯の問いかけだった。螢惑はその理由や目的を考えることもなく、己の記憶の中のスケジュールを確認した。

「空いてるけど?」
「ホラー映画の鑑賞会しましょ。レンタルで適当なDVD借りて」
「ホラー?」
「そう。大勢で集まって、皆で怖い映画に託けて抱きつきまくり。スキンシップに免疫をつくるのよ!」

 いかにも螢惑の為のように言うが、灯はどさくさに紛れて意中の相手である狂に抱きつく魂胆だろう。螢惑は彼女の下心が手に取るように分かった。

「いいけど、そんな大勢でどこに集まるの?俺のアパートじゃ騒ぐとメーワクだし、だいたいDVDのデッキが無いし」
「うちでやればいいじゃないか」
「へ?」

 第三者の声に驚いて螢惑と灯が振り向くと、いつから居たのか辰伶だった。螢惑の異母兄である辰伶が言う「うち」とは、つまりは螢惑の実家である。

「うちなら10人や20人くらい収容可能だし、今週末なら両親とも出かけて家に居ないから大勢で騒いでも大丈夫だ」
「辰伶、いつから聞いてたの?」
「鑑賞会あたりから。ホラーという単語が聞こえたからな」

 そういえば辰伶はホラー映画が好きだ。子供の頃よく一緒に見ていたことを、螢惑は思い出した。

「じゃあ、お言葉に甘えていいかしら」
「俺も参加していいか?」
「ええ、もちろん。イケメンのターゲットが増えるのは大歓迎よ」
「?」
「うふふっ、楽しみねー」

 灯の毒牙から異母兄を守らねばならない。螢惑の拳に力が入った。


<参加メンバー>

辰伶・・・場所提供。ピザ(デリバリ)と菓子類と飲み物を調達。
灯・・・サンドイッチ(手作り)と菓子類とDVD持参。
紅虎&アキラ・・・有名店のたこ焼き(5種類)とDVD持参。
歳子&歳世・・・チェーン店のドーナツ持参。
幸村・・・人気店の新作バナナタルト(1ホール)持参。
梵天丸・・・フライドチキンとスナック菓子とDVD持参。
狂・・・手ぶら
ゆや・・・手ぶら
螢惑・・・手ぶら

「ほんっと、性格でるわねー」

 各自が持参した物を見て灯が感慨深く言った。今回の鑑賞会に誰が何を調達するか全く相談しなかったので、みんな思い思いに持ち寄った結果である。

「あ、ごめんなさい。何も用意できなくて…」

 恥じ入るゆやを灯がフォローする。

「いいのよ、ゆやは。急な誘いだったし、狂を連れてきてくれたし」

 当初は鑑賞会に乗り気でなかった狂を巧みに引っ張り出したのはゆやだ。灯にとってはゆやのその功績だけでおつりがくる。

 手ぶら組の残り2人は悪びれる様子さえ無かったが、大方の予想通りである。元からそんなことに拘るメンバーではないし、それで壊れるような仲間でもないから問題はない。

 それではここで、今回のホラー映画鑑賞会に寄せる各自の思惑を整理してみようと思う。推測になるが、おそらくはこんな感じだ。

灯…怖がるフリして狂(もしくはイケメン)に抱きつきたい。(ホラーは苦手ではない)
紅虎…怖がるゆやに抱きつかれたい。(ホラーは少し苦手)
アキラ…怖がるゆやに頼られたい。(ホラーは少し苦手)
幸村…大勢で騒ぐの楽しい。可愛い女の子いっぱいいてラッキー。(ホラーはそれなりに楽しめる)
梵天丸…役得を期待。(ホラーはまあまあ楽しめる)
歳子…歳世と辰伶の距離を縮めてあげる。(ホラーは退屈、スプラッタの方が好き)
歳世…私がゾンビから辰伶を守る。(ホラーに興味なし)
螢惑…辰伶を灯の毒牙から守る。(ホラー好き)
辰伶…予想以上の人数だ。ピザを追加注文した方がよいだろうか。(ホラー好き)
ゆや…皆が持ち寄ったDVDに期待。(ホラー好き)
狂…ピザうめえ。(ホラーは???)

 この時点で誰の思惑が叶って誰が外れたか、ほぼ確定したように思う。


 午後7時をまわったところで幸村が退去した。明日の予定に備えて早めに帰るのだとか。

 それから暫くしてゆやが立ち上がった。女子が夜道を独りで帰ることを心配した紅虎とアキラが送っていくと申し出たが、狂の凶悪な一にらみでその役目は彼のものになった。独りでも平気だとゆやは嘯いていたが、傍目にも解るくらいに嬉しそうだった。なので、狂の行動がゆやの身を案じてか、自分が独りで帰りたくなかったからかは追及しないであげようと思う。

 狂に送ってもらい損ねた灯が鬱憤晴らしにヤケ食いを始めた。それが切っ掛けとなって四聖天(灯、梵天丸、螢惑、アキラ)+紅虎による早食い&大食い大会に移行し、面白がって悪乗りした歳子が出前をとりまくった。当然のごとく支払いは辰伶の財布から。もう、わちゃくちゃである。

 常軌を逸したバカ騒ぎを、本来なら辰伶は好まぬところだが、この時は妙に気分が寛大だった。呆れつつも放置して、ホラー映画を楽しんでいた。その状態に気を揉んでいたのは歳世である。これ以上、辰伶に迷惑をかけてはいけないと、半ば強制的に歳子を連れて退場した。

 煽り役の歳子がいなくなると、バカ騒ぎも一旦落ち着いた。それを機に灯が梵天丸とアキラと紅虎を引き連れて帰っていった。

 螢惑も同じタイミングで帰ろうとしたが、辰伶が引き留めた。

「今夜はもう遅いから泊まっていけ。お前の部屋はあるんだから」

 そもそもお前の家はここじゃないかと、辰伶はブツブツ文句を言っている。螢惑が家を出たことをまだ納得できないらしい。しつこいなあと、螢惑は呆れた。

「大体だ、この部屋の惨状を俺ひとりで何とかしろというのか」
「あー…」

 皆が帰った後のリビングは、さすがの螢惑も二の句が継げぬ有様だった。これは怒られる。いくら優しい聖母でも、怒る時は鬼のように怒るのだ。

「わかった。片づけてから帰るよ」
「片付けは明日にして、今夜はホラーを見倒そう」

 両親が帰ってくるのは明日の夕方だからと、そう言って辰伶は毛布を取りに行った。完全に夜更かしの態勢だ。

 2人で1つの毛布を被り、照明を落とす。ホラー映画が始まると2人は無言で画面に見入った。辰伶はかりんとうの袋を、螢惑はポテトチップスの袋を抱えている。

 映像について感想を喋るでもない。ただ時折、申し合わせたわけでもないのに互いの菓子の袋を相手に差し向け、相手の菓子の袋に手を突っ込んだ。喉の渇きを覚えると、ペットボトルのお茶をコップに注ぐのは辰伶で、それを螢惑が勝手にもらう。それもいつものことなので、辰伶は怒らないし文句も言わない。

 いつものこと…螢惑は思い出した。いつもこうして家族でテレビを見ていた。自分と辰伶だけではない。父も義母もホラーが好きで、皆でリビングに集って菓子をつまみながら楽しんでいた。辰伶が持ち込んだ毛布に螢惑も便乗して一緒に包まった。温かさに眠りこけると義母に起こされ、歯だけはしっかり磨かされた。歯磨きした後は飲食は厳禁。しかしそのままリビングで寝るのは許されるから、辰伶と一緒に限界までテレビを見ていた。朝になるといつの間にかベッドに運ばれていた。

「…なんだ」

 なんだ、スキンシップはあったじゃないか。

「何だ?」

 螢惑の呟きを訝しんだ辰伶が問う。

「別に、何でもない」
「…映画がつまらないか?」
「……ああ、うん。正直、もっと刺激が欲しい」
「そうだな。もう少し期待したんだが…」

 そこそこには面白いんだが……辰伶はひとつ欠伸をした。2人とも集中力が途切れてしまった。

「ねえ、俺さ、スキンシップって苦手みたい」
「俺もだ。あまり好きじゃない」

 半径30cmくらいは距離が欲しい。なんだかどこかで聞いたような感想を、辰伶は言った。

「仲間にさ、『スキンシップが足りなかったからじゃないの?』って、言われた」
「そうかもな。父さんも母さんもベタベタくっつくのは好きじゃないから。いや、だったらむしろ遺伝か?」
「そうなの?」
「そうだろ?」

 それならいい。義母がスキンシップを我慢していたのではないならいい。義母と異母兄の触れ合う権利を自分が奪ったのでないならいいと、螢惑の心は軽くなった。

「そういえば、今日の鑑賞会はスキンシップに免疫をつけるためだとかという話だったな。ホラーとスキンシップの関係がいまいちよく解らないが」
「うん。灯ちゃんがね、スキンシップが苦手じゃ恋愛できないって」
「そうなのか?」
「キスもできないって。でも、キスする相手も、したいヤツもいないから、よく解らないなあ。キスなんてしなくても死なないし」
「それもそうだな。難しく考えなくても、その時になればなんとかなるだろう」

 ああ、また。辰伶の言葉は、以前にどこかで聞いたような内容だった。誰が言ったことだったか忘れたが、螢惑は心から賛同した。

「あ、でも今、俺と辰伶の間は30センチも空いてないね」
「兄弟だから例外だ」
「そうなの?」
「そうだろ?」

 そうだろうか。そこは兄弟だからじゃなくて、辰伶だから。この答えの方がしっくりくると螢惑は思った。


 終わり