+・+ 末期の部屋 +・+
クリスマス・イブに
駅前広場を華やかに彩るイルミネーションも、今夜が見納めである。クリスマスを狙ったように押し寄せた寒波をものともせずに、ツリーの下には恋人達が集う。笑いさざめく人々。街に流れるキャロルの声。その中にあって、螢惑の心は虚ろだった。
ダウンコートにマフラーを身につけていたが、夕暮れから街灯下のベンチに座り続けた為に身体は冷え切っている。それでもその場を動こうとしないのは、移動先が決まらないからだ。移動先が決まらないのは、決める意志が無いからで……無為に白い息を吐く螢惑の耳に携帯電話の着信音が鳴った。無視していたが、まるで鳴り止む気配が無い。このしつこさから、相手が誰であるか解かる気がするので、尚も無視し続ける。
「螢惑」
不意に名前を呼ばれて、螢惑は意識を現実に引き戻した。顔を上げると、彼の異母兄である辰伶が険しい顔つきで正面に立ち、携帯電話を耳に翳していた。
「携帯が鳴ったら出ろ」
「ああ」
徐にダウンのポケットから携帯電話を取り出し、通話ボタンを押す。
「もしもし」
「今更遅いわ。相手が目の前にいるのに、わざわざ携帯で話す馬鹿がどこにいる」
腹立たしげに言い捨てて、辰伶は携帯電話をしまった。お前が出ろと言ったから出たのに……とは、螢惑は言わないことにした。
「何か用?」
「用って……お前…」
螢惑の予想通り、辰伶は面食らって言葉を繋げられなくなった。本当に、この男は解かりやすい。あまりにも解かってしまうので、辰伶に対してのみ、螢惑は自分の言動の効果を計算して相対してしまう。それはつまり、自分がそれだけこの男を意識していることだと解かっているので、そんな態度をとる自分に自分で苛立った。
「その……大丈夫なのか?」
「何が?」
「……どうして、貴様はそうなんだ。俺が聞きたいことくらい解かっているくせに。貴様の住んでるアパートが火事で全焼したそうじゃないか。しかも火元は貴様の隣の部屋だというし」
「うん。部屋にあった物は全部焼けちゃって、水も被っちゃったから全滅だけど、その時俺はアパートには居なかったから…」
亡くなった母の写真1枚、持ち出すことは叶わなかった。大して何も持っていなかったが、更に身が軽くなってしまった。
「ケガは無いよ」
「そうか……ケガが無かったのは何よりだな」
「うん」
ああ、この気鬱はそれだと、螢惑は理解した。価値有る物など何も持ってはいないと思っていたが、自分にも大切な物や愛着のある品はあったのだ。
「螢惑。せっかく無事だったのに、こんなところで座り込んでいては風邪をひいてしまうだろう。どこへも行くあてがないなら…」
「行かない」
辰伶が『うちへ来い』と言う前に、螢惑は拒否した。その気があったなら、最初から辰伶に連絡を取っている。辰伶を頼りたくない……頼ってはいけないと、螢惑は心に決めていた。
「貴様は…」
辰伶の声は静かに怒気を含んでいた。本気で怒らせてしまったようだ。
「意地を張るのもいい加減にしろ。こんな寒空の下をどう過ごすつもりだ。…俺のところに来たくないのなら無理にとは言わんが、他に頼れる知り合いは居るんだろうな?」
「辰伶には関係ないよ」
「……勝手にしろっ!」
辰伶は早足に去っていった。螢惑は遠く夜空を仰いだ。辰伶の他にも知り合いはいるし、頼れる友人や仲間は居る。
でも、誰にも頼るつもりはない。螢惑は薄っすらと笑った。1番欲しい手を振り払ったばかりなのに、他の誰の手を求められる……
螢惑は異母兄である辰伶に強い感情を抱いていた。それは家族愛と呼ぶには激しく、熱く、甘美さと切なさも内包して、螢惑自身を苦しめた。それが恋情であると気付くのに時間は掛からなかったが、受け入れるのには長く葛藤が要ったのだ。
いつしか人通りのピークは過ぎていた。気温も益々下がり、息を吸うと肺が凍るようだったが、螢惑は変らずベンチを立とうとはしなかった。自ら吐く息にけぶる視界の先に、愛しい姿の幻を見る。その映像はだんだんと鮮明さを増し、触れられそうに確かな質感で至近に迫って、それが実体であることに気付いた。
「……辰伶…」
「…貴様が…」
モノトーンの世界に一輪だけ咲いた花のように、辰伶の姿は鮮やかに螢惑の瞳を引きつけて放さなかった。魂の芯が不思議な熱を持ち、小さな炎を上げる。
「貴様がそんなだから、俺は…っ」
辰伶の声は語尾が少し掠れて、それさえ艶となって螢惑の情を煽った。もう堪えられる気がしない。泣きたいくらいに、螢惑は辰伶を憎くさえ思った。
「もう…放っておいてよ…」
「放ってはおけない。兄として」
「…兄……」
「お前は……俺のたった1人の弟なんだから…」
肉親を想い労わる慈愛の言葉。それが螢惑を冷たく傷つけるのだということを、辰伶は知りもしないだろう。頑なに動こうとしない螢惑の態度に辰伶は大きく溜息をつき……隣に並んで腰を下ろした。
「…何してんの?」
「貴様をこんなところに置き去りにしたままでは、気になって安眠できん」
「……」
冬生まれのくせに、辰伶は寒さに弱い。夏生まれの螢惑よりも。横目で伺い見ると、微かに唇が震えていた。
「…寒いんじゃないの?」
「…へい…きだっ……」
「あ、そう」
強がりを言っているが、声が震えてしまっている。いつまでもつか見物ではあるが、意地っ張りで強情なところのある彼のことだ。風邪をひかなければ良いが……
こんなところでガマン大会なんて、馬鹿なことをしている。本当にこのままずっと自分に付き合って冬空の下でベンチに座り続けるつもりだろうか。寒さに耐える辰伶の様子を見て、螢惑はギクリとした。咄嗟にその頬を平手で打つ。
「…あ……?」
打たれた頬に手をあて、不思議そうに螢惑を見る。数秒したのちに正気に返り、眉を吊り上げた。
「いきなり何をする!」
「…別にさ、凍死したいなら眠ってもいいけどね……」
「え?」
意識を飛ばしかけた自覚も無いらしい。本当に限界だ。
「馬鹿だ馬鹿だと思ってたけど、どこまで馬鹿なの…?」
「き、貴様が素直にうちに来ないからっ!」
螢惑はおもむろに立ち上がり、無言で辰伶に手を差し伸べた。ぶっきらぼうに突き出された掌を、辰伶は訳も解からず視凝めている。
「…馬鹿な上に、鈍いの…?」
「…『金を貸せ』…ということか…?」
「え?……えっと……ヒント要る?」
矢庭に螢惑は辰伶の右手をとり、強く握り締めて引っ張った。辰伶は強引に立たされ、その勢いが余ってつんのめったところを螢惑の腕に支えられた。
「あ、これじゃヒントじゃなくて、答えだ」
「…螢惑…」
「行くよ……辰伶のところへ…」
辰伶を彼自身の足で立たせて、螢惑は掴んだままだった手をようやく放した。赤くなってしまった手を視凝める辰伶の目は憮然としていた。
「意外と力があるんだな……」
そして、ふと微笑みを洩らし、今度は辰伶から螢惑の手を取った。
「冷たいな。氷のようじゃないか」
「お前の手こそ冷たい。俺の熱、取らないでよ」
辰伶が短く笑った。珍しく声を立てて。何が面白いのか螢惑には解からなかったが、螢惑も自身は気付かずに笑みを洩らしていた。そして手を繋いだまま、どちらからともなく歩き出した。デートじゃあるまいし……と思いながら、2人とも手を放そうとはしなかった。
冷たかった互いの手が、じんわりと温まっていく。心地よく熱を分け合いながら、夕食の相談をしつつ、螢惑は決意を固めていった。
「…辰伶……俺は……」
この告白を聞いて、それでも辰伶は自分を家に入れてくれるだろうか。辰伶の手を握る螢惑の手に力が篭る。この手の中の温もりを、永久に失ってしまうかもしれない。それでも…
「…俺は……お前のこと……」
それでも……真実を貴方に。それが螢惑から辰伶に送るクリスマス・プレゼント。
この、クリスマス・イブに…
おわり
+・+ 末期の部屋 +・+