+・+ 末期の部屋 +・+

忘却の街で


 背後で扉が閉まる音がした。振り返ると重厚な鉄製の扉が閉ざされていた。この街をぐるりと取り囲む石造りの強固な壁が高く聳え、その遥か上の空は青く、鳶が円を描いていた。

 右の頬に落ちかかる髪を鬱陶しく掻き揚げる。俺は門の前に居た。突然に居たのだ。何処から何の為にここへ来たのか、或いはここから出て行くところだったのか、何も解からない。俺の頭の中には何の情報も無かった。「空」とか「壁」とか「鳶」とか、物の名称は解かるのだが、俺個人の名前や出身、その他、自身の行動の根拠となるべき記憶が完全に欠落していた。俺の背後で扉が閉まる音がしたのだから、恐らく俺は街の外から来たのだと思うが、それも推測に過ぎない。

 俺は途方に暮れて辺りを見回した。門の傍らに門番が2人居る。ともかくここは何という街なのか問うてみた。

「もう、面倒くさいわねえ。いつも2度手間でバカみたい。覚えてないでしょうけど、1度は説明したのよね…」

 そのように言われて恐縮した。申し訳ない気分になったが、こちらもどうしようもなく困っているので、何も覚えていないことを謝って、いま一度の案内を乞う。するともう片方の門番が言った。

「いいえ、これが私たちの仕事ですから。貴方には訊く権利がある」
「だから私たち2人が居るのよね。街に入る前には私、歳子が。入ってからは彼女、歳世が説明することになってるから、後はよろしくね」

 そう言って門番の片割れ、歳子は去り、残った歳世が説明を始めた。

「ここは探し物をしている人間が来る街です。この街にはその人が探しているものが必ずあります」
「つまり、俺はこの街に何かを探しに来たんだな。しかし、何を?」
「それは私どもには解かりません」
「それもそうだな。しかし困ったな。俺は何も覚えていない。これでは探しようがないし、よしや見つけたとて、それを持って何処へ帰れば良いのか…」
「説明にはまだ続きがあります。この街には探し物は必ずありますし、どんな物でも手に入ります。しかし街に入ると記憶を無くしてしまうので、自分が何を探しに来たのか忘れてしまいます。街から出れば記憶は戻りますが、ただし、出たら2度と街へは入れません」
「まるでゲームだな」
「そう、ゲームです。自分が探しているものを当てるというゲーム。ですから選べるのは1つだけ。1回きりです」
「成程、慎重に選ばねばならんということだな」
「では、最後に。貴方の名前ですが、こちらをご覧下さい。貴方が街に入る前に記入したものです」

 歳世は台帳に記入されている最後の欄を指し示した。それを見て思ったのだが、

「これが通るなら、自分が探している物をどこかに書き留めて街に入れば良いのではないか?」
「そこはきちんとチェックしますから。不正行為は認めません。ゲームはルールに則って行わなければ面白くないでしょう?」
「尤もだな」
「私たちが教えて良い情報も、本人の名前に限られています。名前が解からないのは不便ですから」

 そして歳世は宿泊や食事のできる場所などを教えてくれた。時間制限は無いから、そこに落ち着いてゆっくり探すことを勧められた。

「親切にありがとう。そうだ、街の説明を看板に書いて、それを読んでもらえば2回も説明せずに済むんじゃないか」
「それはいいですね。それでは、ゆっくりお探し下さい。辰伶さん」


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 宿泊所は1階が食堂で、2階以上が宿泊施設になっていた。渡された鍵の部屋に入り、荷物をベッドの脇のスツールに置いた。これから数日はここで寝起きすることになるだろう。或いは数週間、数ヶ月……

 まずは浴室で湯を浴びた。浴びながら自分が探している物について色々考えたが、まるで見当もつかない。このような状態で、他の人たちはどうやって探し当てるのだろうか。街に入る前の自分が何を好み、何を欲していたか、まるで解からないのだから、判断材料が全く無い。

 身支度を整えて、食堂へ下りた。ああ、ここでもか。ここへの道中に始まり、ずっと気になっていたのだが、この食堂でも俺は奇妙に衆目を集めた。無遠慮に凝視する者、品書きの陰から盗み見する者。俺の姿のどこかが変なのだろうか。厭な気分だ。

 俺が席についた直後から急に食堂は混みだした。空席は瞬く間に埋まり、俺も1人の若い男に相席を申し込まれた。断る理由は無い。男はテーブルに置いていた俺の部屋の鍵の番号を見て呟いた。

「あ、俺の隣だ」

 ジッと鍵をみつめながら、笑うでなければ嫌悪するでもない。何を考えているのか全く読み取れないポーカーフェイスを、徐に俺の方へ向けた。

「よろしくね」
「あ、ああ…こちらこそ…」

 男は螢惑と名乗った。柔らかそうな金の髪は、女性が羨望しかねない艶としなやかさで、彼の人形のように整った顔貌を縁取っている。とても綺麗な男だ。痩身で小柄ではあるが、ひ弱な印象でないのは彼の眼光鋭い瞳のせいだろう。表情が乏しいのは生来らしく、殊更不機嫌であるわけでもないことが、話をしていて解かった。

 彼は随分長くこの街に居るのだと言った。俺は皆がどのようにして探し物を見つけるのか訊ねた。

「うーん…解からないなあ。選んだものが正しいかどうかなんて、街の外に出るまで解からないし。外に出た奴は帰ってこないから、話を聞いて確かめることもできないしね。本人の勘が頼りなんじゃない?」
「勘か。螢惑は、自分が何を探していると思う?」
「解からないなあ。解かったら、とっくにこんなとこいないと思う」

 確かに螢惑の言う通りだ。愚問だった。

「はっきり言って、欲しい物なんて何にもないんだよね。ここに来て色んな物を見たけど、何にも心が動かないし。もしかしたら、誰かへのプレゼントでも探しに来たのかなあ…とか、最近は思う」
「そういうパターンもあるか。難しいな…」

 自分の欲しい物すら解からないのに、まして誰とも記憶にない人へのプレゼントなんて、解かる筈が無い。思った以上に難題だ。そう思った矢先に、螢惑が驚くようなことを言った。

「辰伶は難しくないと思う」

 思わず螢惑を凝視してしまった。

「何故?」
「辰伶はコレでしょ」

 そう言って、螢惑は俺の右頬にそっと指を這わせた。何の事か解からない。顔に何か付いているのだろうか。周囲を見回すと壁に古そうな鏡が掛かっていた。頬に掛かる髪を掻き揚げて、螢惑の示した処を見てみた。

「……ああ」

 俺の顔の右半分には大きく火傷の痕があった。そういえば浴室の鏡でも目にした。その時は気にもとめなかったが、よくよく見れば大した異相である。俺がやたらと注目を浴びたのも、この醜怪な容貌の所為だったのだ。

「その傷跡を消すための薬を探しに来たんだよ」
「そうだろうか…」
「絶対絶対、そうだと思う。明日、薬局を教えてあげる」

 そう言われてみても、どうにも納得がいかない。曇り掛かった鏡に映っている火傷の痕は、俺には何も訴えかけてこないのだ。


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


 翌日、螢惑に連れられて薬局へ行った。しかし俺は一晩考えたのだが、自分が薬を欲しがっているようには思えなかった。好奇の目に晒されるのは気持ちの良いものではないから、この傷跡を消すことができる薬があるなら欲しくないこともないが、何を措いてもそれが欲しいかといえば、まだまだ考える余地があるような気がするのだ。

 それを率直に螢惑に言ってみた。

「今の辰伶はそうかもしれないけど、記憶を無くす前のお前はどうかなあ」
「どうかと言われても……お前こそ、何を根拠に決め付ける」
「何って、辰伶はそこだけ前髪を長くしてるじゃない。それって火傷を隠すためじゃないの?」

 指摘されてみれば、確かに俺の髪は右半面を隠すように長く垂らされていた。螢惑の推測は理に適っている。

 けれども。それならば俺は記憶を失うと同時に、傷痕を厭う感情まで忘れてしまったことになる。それは変だ。心さえ変わってしまうのなら、探し物を見つけるのは不可能だ。

 薬剤師がカウンターに火傷の薬の瓶を用意した。螢惑に促されて手にしてみたものの、やはり何の感慨も湧いてこない。これではない。俺が探しているのは、もっと大切なもの。この世で唯一の……唯一の?

「せっかく力になってくれたのに申し訳ないが、俺の探しものはこれではないようだ」

 薬瓶をカウンターに押し戻した。螢惑は無言で俺を視凝めた。そしてふいと薬瓶に手を伸ばし、掌の中に握りこんだ。

「じゃあ、コレは俺が貰う」

 衒うことなく螢惑は言った。

「辰伶の傷は俺が治す」

 驚いて理由を質すこともできない俺に、初めて螢惑が笑った。螢惑の指が俺の傷痕に触れる。

「こんな綺麗な顔に傷を残すなんてバカだから」

 俺は聊か乱暴に彼の指を払い除けた。こんな馬鹿げた話があるか。

「貴様には貴様の目的があるだろう。こんな、こんなくだらないことで…」
「くだらなくないよ。昔の俺が何を欲しがってたかなんて知らない。そんなのどうでもいいから、今の俺は辰伶の傷を治したいだけ」
「貴様は大馬鹿だ!」

 螢惑の真意が解からない。こんなことをして、螢惑に何の得がある。あまりにも、あまりにも思い切りが良すぎる。そして俺は、彼の厚意を安易に受け取ってしまって良いのか。

「一方的に借りをつくるのは業腹だな。薬はありがたく受け取るが、俺も街を出る」
「え?」

 今度は俺が螢惑を驚かす番だ。そしてそれは見事に成功した。

「何で?俺は俺の欲しい物を手に入れただけ。借りとか、辰伶が気にすることじゃない」
「それでは俺の気が済まん。お前の論を借りるなら、俺が街を出たいから出るだけだ。お前が気にすることはない」

 螢惑は大きく溜息をついた。

「…俺たちバカなことしてるよね」
「全くだ」

 結局、俺たちが手に入れたのは、螢惑には必要でなく、俺にとってはどうでもよい火傷の薬。実にバカバカしい。愚かにも程がある。

 しかし心はすっきりしていた。こんなのもいいかもしれない。

 この街で、俺の心を強く動かしたのは螢惑だった。ならばこれでいいではないか…


◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇


「螢惑じゃないか!」
「あれ?辰伶?」
「どうしてこんな所に…」

 こんなところ。ここは廃墟だった。螢惑と俺の他には誰も居ない。崩れた石の壁と錆付いた鉄の扉が残る古い街の跡。それはともかく、

「探したぞ、螢惑。お前が誰にも何も告げずに消えてしまったから、何か事故か犯罪に巻き込まれでもしたのかと心配したんだぞ」
「へえ、心配したんだ」
「当たり前だ!お前はこの世で唯一の……たった1人の俺の弟なんだぞ!」
「ごめんね。だけど、俺はどうしても辰伶の火傷の痕を治さなくちゃと思って。俺のせいで、お前の綺麗な顔に消えない傷痕が残っちゃうなんて…」
「俺はこんな傷痕なんて、何とも思っていないと言っただろう」
「嘘だ。そんな風に髪で隠すようにして、やっぱり気にしてるんでしょ」

 俺は腹が立って、髪を掻き揚げてその下の右半面を晒した。

「それは貴様がこの傷を見る度に落ち込むからだ!だから余りお前の目に触れないように髪を伸ばして隠していたんだ!」

 螢惑は大きく目を瞠くと、強引に俺の顔を引き寄せて眺め回した。

「辰伶、お前、傷が……火傷が無い。治ってる…」
「何?」
「いつ?どうやってあの酷い傷を?」
「知らんぞ。本当に無いのか?」

 辺りを見回すと、半ば砂に埋もれた鏡の破片を見つけた。砂を払落とし、どうにか右半面を映してみると、螢惑の言った通り、傷痕は全く無かった。

「どういうことだ…?」

 廃墟となった街には崩れた壁があるだけ。ボロボロになった看板らしきものが落ちていたが、異国の文字らしく俺にも螢惑にも読むことは出来なかった。

 青く澄み渡った空には鳶が円を描いていた。


おわり

 過去に別ジャンルで書いた話をほた辰に置き換えてみたものです。雑記から移動。

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