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今も昔も

(お散歩企画参加記念の粗品)


「はあ…」

 幾度目の溜息だったか。それをすぐ隣で聞かされ続けていた辰伶は、僅かに眉間に皺を寄せると、書き物の手を止めた。

「さっきから何だ。人の顔を見ては溜息をつくなんて失礼な。俺に何か文句でもあるのか」

 辰伶が仕事を始めるや否や、ふらりと部屋に現れて、手を伸ばした先くらいの場所に座り込み、それから飽きもせず辰伶を視凝め続けているこの漢の名は螢惑という。辰伶の異母弟だ。行儀悪く胡坐に片肘をついて顎を支える姿勢で溜息をつく様は、この漢がすると妙に婀娜っぽい。しかしそれは異母兄に何ら感銘を与えることなく、不機嫌に苛つかせただけだった。

「用が無いなら、少し遠慮してくれないか。仕事に集中したい」

 思えば丸くなったものだ。昔は「邪魔だ。出て行け」と否応無しに叩き出したものだったが…などと辰伶が思う端から、またも螢惑が溜息をついた。さすが変だと感じた辰伶は筆を置いて、螢惑ににじり寄った。彼の特徴の1つでもある眼光鋭い双眸が、まるで夢でも見ているように、何だか虚ろだ。

「…どこか具合でも悪いのか?」
「別に。…ただ、昔は良かったなあ…と思ってさ…」

 それは凡そ螢惑には似つかわしくないセリフで、その意外さに驚いた辰伶は、しばらく何も応えることができなかった。辰伶がイメージしている螢惑は、いつも未来ばかり見ているような漢だ。昨日よりも今日。今日よりも明日。思考は前向きで、行動は果断だ。そんな漢にも、懐旧の念に溜息をつくような感性があったなんてと、聊か失礼な感想を辰伶は抱いた。そして、螢惑が言う昔とは、どれくらい昔のことなのだろうと思った。

 異母弟と一口に言ったが、螢惑は辰伶の父親の妾が産んだ子供だった。その出生の為に、螢惑は幼い頃から辛酸を舐めて生きてきた。辰伶が聞き及ぶ限り、安寧たる過去ではなかった筈だ。幾らなんでもそんな時代を、夢見るような眼差しで溜息をつくほどに懐かしがるとは思えない。

 螢惑が懐かしんでいるのは、彼の師である遊庵に拾われて、その家族と暮らした日々だろうか。それとも、壬生の外の世界で狂という漢を囲み、仲間と四聖天を名乗っていた頃のことだろうか。それ以降は…ろくな出来事が無かった。そして、崩壊した壬生を再建した昨今を、過去と呼ぶには近すぎる。

 考えているうちに、辰伶の気持ちはどんどん沈んでいった。螢惑が大切に思っているだろう過去には、己の姿は何処にも無い。辰伶が関わる螢惑の過去は、いつだって辛く、苦しいものだった。思い出したくもないだろうし、思い出す価値もないだろう。

 辰伶の顔を見て溜息をついていたのではなかったのだ。彼の視線の先に、たまたま辰伶の顔があっただけのこと。そこには存在しない、過去の幻を視凝めながら、螢惑は溜息をついていたのだろう。バカみたいだと、辰伶は己の勘違いを恥じた。そして、恥じ入るような期待をさせた螢惑を恨んだ。

 ああ、いけない。これではまるで子供が拗ねているようなものではないか。恨み心を力技で引っ込めて、兄の面を被り直す。そして、努めて穏やかに問うてやる。

「何が…良かったんだ?」

 螢惑が楽しそうに仲間の事を語るのを見るのは、正直あまり好きではない。彼の心に住みついている人々に逐一嫉妬してしまい、その度に己の心の狭さを自覚し反省させられ、後で長々と自己嫌悪に陥ってしまうからである。にもかかわらず螢惑に水を向けてやるのは、義務感のなせる業。兄として、弟の話を聴いてやらねばならぬと思ったからだ。

 螢惑は無言で辰伶を視凝めた。その瞳に鋭く強い光が宿るのを見て、辰伶は少したじろいだ。その瞬間を狙ったかのように、矢庭に螢惑が抱きついてきた。勢いあまって、2人して畳みに倒れ込んでしまう。それでも螢惑は辰伶を放さず、覆いかぶさる姿勢のまま抱き締めるのをやめようとしない。突拍子も無い行動にあって、未だに辰伶は混乱から覚めることができない。

「何だ。どうしたんだ、いきなり」
「昔は良かったと思って」
「だから、昔の何が良かったと言うんだ」

 まるで逃さんとするかのように辰伶の体の両脇に腕をついて、螢惑は真剣な顔で言った。

「昔は……辰伶から抱きついてきてくれたのに…」

 数秒間、螢惑が言った言葉の意味が解からなかった。ようやく出たのは「はあ?」という如何にもマヌケな声だった。

「処構わず『ケイコク〜v』って、可愛い声で俺の名前を呼びながら走ってきて、がばぁって背中に負ぶさってきたりしてさ…」
「い、い、いつの話だっ!」

 いつと言いつつ、辰伶にその記憶が無いのではない。狼狽がその証拠。2人が互いを異母兄弟と知る以前の、まだ幼い子供の頃のことだ。何処の誰ともはっきり知らぬままに交友を結んでいた。それは極々短い期間で、正直なところ、辰伶は螢惑がその頃のことを覚えているとは思っていなかった。

「なのに、今じゃ全然。それどころか、俺が抱きつくと『鬱陶しいっ』って、怒るし……ねえ、どうして抱きついてくれなくなったの?」

 見下ろしてくる螢惑の瞳は真剣というよりも必死で、辰伶をからかっている様子は無い。その視線から逃れるように顔を背けた辰伶は、少し拗ねたような口調で言った。

「お前が言ったんじゃないか。………『ウザイ』って…」
「え?」

 辰伶は今でもハッキリ覚えている。螢惑は辰伶の行為を『抱きつき魔、ウザイ』と容赦ない言葉で拒絶したのだ。幼心に深く傷ついたものだった。今でもトラウマに近い。

「あ、そうか、そうか…」

 螢惑にも思い当たったようだ。

「あの頃は、他人にベタベタ触られるのが大嫌いだったから。何かって言うと抱きついてくるお前が、本気でウザかったなあ…」

 本気でウザかったという手加減無しの言葉に、またしても辰伶は深く傷ついてしまった。何だかもう、誰も居ないところで、独りで泣きたい気分だ。

「今でもあんまりスキンシップって好きじゃないしね」
「だったら、さっさと俺の上から退け」
「嫌」

 辰伶の首筋に顔を埋めるように、螢惑はきつく抱きついてきた。螢惑の体に組み敷かれた状態の辰伶は、彼の全体重を受け止めることとなって、「ぐえっ」と色気の無い声をあげた。螢惑が小柄で細身であったことが救いだ。

「今まで我慢させてゴメン。これからは、好きなだけ抱きついていいよ」
「我慢などしておらん。余計なお世話だっ」
「素直じゃないね。そういうところは、相変わらずウザイなあ」
「…貴様がウザイわ」

 観念したのか、或いはうんざりしたのか。辰伶は大きく息を吐いて目を閉じると、右の腕を螢惑の背中へ、そっと回した。












「…これって、OKってことだよね?」
「は?」
「いただきま〜す」(がばぁっ)
「!!!!!!!?」


おわり

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